親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

[ネタバレ]映画「歎異抄をひらく」の感想(2)映像化した高森顕徹会長への御礼状と親鸞会講師部員の本音

前回の記事
shinrankaidakkai.hatenablog.com
の続きです。

前回の記事で、この映画「歎異抄をひらく」は主人公平次郎=親鸞会講師部員としてみると話がつながるということを書きました。
その前提で、なぜこの作品を見た時に何を描いたものか分からないという感想になるのかの理由のもう一つについて書きます。

観客ではなく、高森顕徹会長にむけて作った作品だから

それは、この作品は高森顕徹会長一人に向けて作られた作品だからです。いわば、親鸞会でよく書かれる「御礼状」と同じものです。会員が、便箋で5枚以内という規定にそって高森顕徹会長に書いている御礼状の映像化版がこの作品です。
では、何についての御礼状かといえば、この「歎異抄をひらく」の書籍を高森会長が出版したことに対する御礼状です。


御礼状だとすると、その内容は大体こういうものです。
「2008年に出版されたこの『歎異抄をひらく』を私はこのように受け取りました。高森先生有り難うございました。私は唯円のように、高森先生から直接お聞きしたことを今後も人に伝え、高森先生が言われたことと異なることをいうものが出てきたらそれらを糾していきます。」


この作品を作るにあたって、シナリオ作成において高森会長からの審査を受けるわけですから、いわば「歎異抄をひらくの感想文」を著者にお墨付きを貰うようなものです。
講師部員「こういうセリフにしてみましたが、よろしいでしょうか?」
高森会長「これでいい」
講師部員「有り難うございました。(私の理解で間違っていなかった)」
このようなやり取りが続いたと思います。


親鸞会で、特に1万年堂出版から本を出版するにあたり、出版に関わるスタッフはあまり変わっていません。「なぜ生きる」「なぜ生きる2」「歎異抄をひらく」映画「なぜ生きる」映画「歎異抄をひらく」も新規に加わった人もありますが、ほぼ同じメンバーで作られています。


すでにご存知の方もおられると思いますが、前述した1万年堂出版の高森顕徹会長の著作、映画は高森顕徹会長一人がゼロから作ったものは一つもありません。
すべて周りのスタッフ(主に講師部員)が大本になる文章を書き、高森顕徹会長が添削するという形で制作が進んでいきます。いわば工房で作ったようなものです。そのため、「なぜ生きる」の著者がこうなっているのは実は実態を表しています。

この本では著者・明橋大二伊藤健太郎、監修・高森顕徹となっています。


以下ネタバレ
↓↓↓


ラスト前の歎異抄第9条のシーンが一番の見どころ

114加茂川のほとり(回想)
親鸞聖人(88歳)と中年の唯円、岩に腰掛けられている。
唯円「教えて下さい、聖人さま」
親鸞聖人「何かなぁ、唯円房」
唯円「私は念仏称えても、天に踊り地に踊るような喜びが起きません。また、早く浄土へ往きたい心もわかないのです。これは、いったどうしてなのでしょうか」
親鸞聖人「おぉ、唯円房、そなたもか。実は、親鸞も同じことを思っていたのじゃ」
唯円「えっ。聖人様も……」
人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのかP192)

ここは、歎異抄第9条を映像化した場面です。
歎異抄の中でも有名な場面です。昔から、この第九条に出てくる唯円はこのときどういう気持ちで質問をしたのだろうかと意見が分かれています。それは、唯円はこの時信心を決定していたのか、それともまだ信心ということが分からない状態であったのかの二つです。
ただ、本文を見てもそれがどちらなのかはハッキリしません。


唯円親鸞会講師部員としてみると伝わる緊迫感

そこで、この作品の主人公・唯円親鸞会講師部員として見るとこの700年以上前の場面が一気にリアルに感じられます。
この映画「歎異抄をひらく」の中で、唯円がほぼ唯一といってよいくらい自分自身の信心について語るのがこのシーンです。最晩年の親鸞聖人に向かって思い余って尋ねた内容が「私は念仏称えても、天に踊り地に踊るような喜びが起きません。また、早く浄土へ往きたい心もわかないのです。これは、いったどうしてなのでしょうか」でした。
平次郎が親鸞聖人から教えを聞き初めて30年近くたってこの質問が出た訳ですが、これが講師部歴30年以上の講師が高森顕徹会長に尋ねた場面だと思うとかなり生々しい感じがしてきます。


講師部員の多くは、活動に忙しく追われている内に、自分自身の信心について振り返る時間もなく年だけを重ねていきます。講師部講義でも、高森顕徹会長にする質問は大体教義のことや、会員から質問されて答えられなかったことばかりで、自分自身の信心について尋ねる場面は私が在籍していた時は一度もありませんでした。そうして講師部に入ってあれから30年、かつて元気だった高森顕徹会長も人生の最晩年を迎えてくると、どうしても聞きたいことが出てくるのが人情だと思います。


唯円のセリフを、講師部員の立場でいいかえるとこうなるでしょう。
講師「私は、念仏を称えても、高森顕徹会長の法話をずっと聞いてきても、命がけで活動をしてきても、踊躍歓喜の心が起きません。未だ救われていないのですが、これはどういうことでしょうか?私は助かるのでしょうか?」


直接は聞けませんが、親鸞会会員の多くはこういうことを聞きたいのではないかと思います。高森顕徹会長の言う通りに活動をしてきたけれども、本当に助かるのだろうか?高森顕徹会長もこの先何回法話があるかもわからない現状になれば尚更のことです。そういった思いがこの場面に浮かんで見えてきます。もし直接そういう質問を高森顕徹会長にしようと思ったら相当緊張して思い切って訊ねたような形になります。


この講師の問いに対して、親鸞聖人は「ワシも同じことを思っておったのだ」と予想の斜め上の話が始まるというのが第九条です。原文は最後に掲載しますが、第九条のやりとりでは、親鸞聖人が唯円の問いに一気に答えられてそれで文章は終わっています。唯円がそれを聞いてどう言ったということは書かれていません。


こうして見ると、唯円はこの第九条の話の時には信心がわからない立場で「念仏を称えても踊躍歓喜のこころがありません」と質問をしたところ、親鸞聖人は信心を獲た上での立場で「信心を獲ても踊躍歓喜の心はないよ。私も同じだよ」と言われたと考えるのが自然に思えてきました。唯円の立場で考えると、信仰相談をしたところが、救われてみても踊躍歓喜はないという想定外の答えが返ってきたので耳の底に残って忘れることができなかったのではないかと思います。


ところでこのシーンでは唯円の不審が晴れる描写はありません。

ラストシーンに描かれる講師部員の未来予想図

それが次の場面展開でこうなっています。

115唯円の部屋(冒頭と同じ時代)
唯円「あの時、聖人さまが仰ったことが、日増しに身に沁みてくるようだ……」
アサ「ハイ」
アサ、微笑をたたえて会釈し、下がる。
唯円、かつて親鸞聖人から授けられたご本尊を取り出す。
紙は時を経て痛んでいるが、親鸞聖人が書かれた「南無阿弥陀仏」の文字はハッキリ残っている。
唯円、目を閉じる。
 ×  ×  ×
稲田草庵の親鸞聖人のお部屋。
書物を開きながら、楽しそうにお話をされる親鸞聖人と少年・平次郎。
親鸞聖人の穏やかな笑顔。
 ×  ×  ×
唯円、目を開き、『歎異抄』九章を書き始める。

116 エンドクレジット
人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのかP195)

中年の時は、まだ不審を抱えていた唯円が、晩年になるといつのまにか不審が晴れているようです。
そして、晩年になった唯円はかつての親鸞聖人との思い出を歎異抄に記す場面で映画は終わります。

これが、映画「歎異抄をひらく」に関わった講師部員の願望が現れている場面です。現時点では、信心というのも分からず踊躍歓喜といっても分からないけれども、晩年になるころにはなんとかなって救われているのではないか。そして、高森顕徹会長から直接聞いたことを自分が書き残すのだという自分の未来の願望を描いています。


文は人なり」とかつて親鸞会弘宣局で何度も聞いたものですが、映画のシナリオという文章で自覚の有無に関わらず思っていることがででしまったのだろうと思います。

まとめ

この映画のラストに描かれる歎異抄第9条のシーンでの唯円を講師部員に置き換えて見ると、唯円という人がかなり身近に感じました。
言って見れば、講師部員の半生と今後こうあって欲しいという願望を映画にしたようなものです。しかし、こうして活動をしていけば晩年までにはなんとかなるだろうという期待をもっていると、阿弥陀仏の願いとはあわないのでそういう期待はさっさと捨ててただ今阿弥陀仏に救われて下さい。


参照 歎異抄第9条

一 念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]。
浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P836)

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