親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

映画「歎異抄をひらく」のシナリオが収録された「人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか」(伊藤健太郎著)を読んだ感想(1)

2019年07月07日(日)広島に行くご縁があり、映画「歎異抄をひらく」が上映されていたので109シネマズ広島に行きました。以前映画「なぜ生きる」を映画を観たのと同じ劇場なので、今回も当日行って入場券を買おうとしたところ、満席となっており観ることが出来ませんでした。


丁度この日は、親鸞会館(富山県射水市)での高森顕徹会長の二千畳講演会が、会長の体調不良によりビデオ御法話となり、近県の会員がやって来たのだと思われます。中国地方でこの日上映があったのは、この映画館だけでした。前回の「なぜ生きる」と比べると上映館も期間も短いため、会員でも富山へ行くことが少ない人や平日映画館に行く時間がとれない人はなかなか劇場で観られない作品となっています。私が券を買おうと窓口に並んでいると、数人前に並んでいた会員の人が「満席なんですか?」と驚いて帰って行くのが印象的でした。




そこで、今回はアニメ映画「歎異抄をひらく」シナリオを全収録し、解説も加えた「人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか」(伊藤健太郎・「歎異抄をひらく」映画制作委員会 著)を読んで思ったことを書きます。

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人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか
人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか


親鸞会の現在がわかる映画

最初に、結論から言いますと、平成から令和に変わった親鸞会がこれまでの高森顕徹会長路線を進むのか、それとも伝統的な真宗教義に向かっていくかの分岐点で決め切れずにいることが表れているのが今回の映画です。

なぜそういえるのかというと、一番大きな特徴は「念仏」についての記述です。


「念仏」を勧める親鸞会?!

前作アニメ映画「なぜ生きる」では、本光房了顕を主人公に、蓮如上人の吉崎御坊炎上事件を中心に描かれた作品です。この中では、登場人物がほぼ誰も念仏を称えません。蓮如上人も念仏を称えません。唯一そういう場面が出てくるのは、了顕が焼け落ちた吉崎御坊から発見された時に、その了顕が教行信証を命がけで護ったことを知った蓮如上人始め周りの人が念仏するところです。

それに対して今作「歎異抄をひらく」では、かなりの頻度で登場人物が念仏を称えています。
一番特徴的な場面はこちらです。

P72
親鸞聖人「そなたたちに、ご本尊を授けよう」
 親鸞聖人、平次郎たち一人ひとりに紙を渡される。
 紙には親鸞聖人の筆で「南無阿弥陀仏」と書かれている。
権八「これは何て読むんですか」
親鸞聖人「なむあみだぶつ」
子どもたち「なむあみだぶつ……」
性信房「南無阿弥陀仏と口で称えることを『念仏』というんだ。念仏は尊いことだから、よく称えるようにしなさい」
子どもたち「はい」
人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか

親鸞聖人のお弟子である性信房が「念仏は尊いことだから、よく称えるようにしなさい」と言っています。私が、親鸞会に在籍していた時も、辞めた後でもほとんど高森顕徹会長から聞いたこともない話です。もちろん、伝統的な真宗の教えから言えば何の不思議もないセリフですが、親鸞会教義をよく聞いている人からすると「路線変更か」「教義を変えてきたのか」と思うほどの驚きです。


路線変更?

なぜなら、高森顕徹会長は常々「念仏は御礼に限る」とか「君たちは19願の入り口にも立っていない19願は修諸功徳、そこから信仰が進んでいけば20願の念仏は自然に出てくる」といい、まるで信心決定してない人は念仏を称えてもすべて自力だから意味がないと言わんばかりに言っていました。そのため、私が在籍していた頃、高森顕徹会長の法話会場でも声高に念仏する人がいると「何?あの人。もう20願に入っているアピールでもしてるの?」「それとも救われたつもりかしら?」という無言の空気が流れていました。

それが今回の「歎異抄をひらく」では、一転して「念仏は尊いことだから、よく称えるようにしなさい」ですから会員で驚く人がいても不思議ではありません。そのため、映画公開直後に行われた2019年06月23日親鸞会館での高森顕徹会長の話の内容が「宿善の強調」だったのもよくわかります。

参照

hiun.cocolog-nifty.com
shingikensho.blog12.fc2.com



そもそも歎異抄を映画化する以上念仏の話は避けて通れません。そのため、この映画の中では念仏にまつわる話がいくつも登場しています。


「念仏」を避ける親鸞会

しかし、この本の中で、念仏について書かれているのはシナリオの部分だけで、他の所には出て来ません。その点が、親鸞会の現在をあらわしています。
この本は、3部構成となっています。

第1部 人は、なぜ、これほどまでに、『歎異抄』に魅了されてしまうのか
第2部 映画「歎異抄をひらく」シナリオ
第3部 『歎異抄』が誕生するまで

第1部は、歎異抄がそれぞれの時代でどんな人に感動を与えてきたのかが書かれています。
第3部は、いわゆる解説書のような部分で、映画を観た人の中で歎異抄に関心をもった人向けに書かれています。しかし、その中身は、「何が何でも『念仏』という言葉は使わない」という努力の後が窺えます。


「念仏」という言葉が使われているのは以下の3箇所です。

P261
天福二年(一二三四)親鸞聖人が六十一歳の時、「念仏禁止令」が出され、京都で「弥陀の誓願」の布教は禁じられた。
P264
『歎異抄』には、どう理解すべきか、たじろぐ発言が多い。第五章の「親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて称えたことがない」という言葉を聞けば、親の極楽往生を願わなかったように感ずるだろう。
第三章では「念仏は浄土に生まれる因なのか、地獄に堕つる業なのか、全くもって親鸞、知るところではない」と言い放たれる。
人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか

念仏禁止令は史実であり、歎異抄の本文からの引用で念仏という言葉ははいってるので、渋々載せましたが、他の著者の文章には念仏の文字は一ヶ所もありません。普通はここで念仏という言葉がはいるであろう処は、ことごとく別の言葉に置き換えられています。

全てではありませんが、一部引用して紹介します。

P230
浄土宗とは、「弥陀の誓願」を説く宗派である。阿弥陀仏は、「どんな人も必ず絶対の幸福に救う」と誓われている。このお約束を「弥陀の誓願」という。

P245
平安末期には、法然上人が浄土宗を開かれ、いよいよ弥陀の誓願が大衆に流布される。

P250
そして二月、興福寺の奏状が取り上げられ、「弥陀の誓願」の布教は禁止された。法然上人と親鸞聖人以下、八人が流罪となり、
人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか

特に浄土宗の説明に念仏を入れないというのは、中高生の使う歴史教科書にもない表現です。ここまで徹底すると「念仏」の言葉は書かないという強い意思というか意地があるとしか感じられません。


念仏をめぐる親鸞会の葛藤

一冊の本として見た場合、映画のシナリオは念仏について多数書かれているのに対して、解説部分には一切書かないとかなりおかしなものです。しかし、そのおかしな状態が今の親鸞会そのものをあらわしています。


宗教法人浄土真宗親鸞会は、高森顕徹会長が創設し今年で61年目になります。近年の親鸞会は、高森顕徹会長のこれまでの著作を1万年堂出版から出版し、全国の書店に置き、そして「なぜ生きる」をアニメ映画にして劇場公開しました。「高森顕徹会長の教え」を様々な形で残していこうというのが活動の中心となっています。


そして、高森顕徹会長の著作「歎異抄をひらく」を今回アニメ映画として劇場公開しました。親鸞会としては、この映画をきっかけに会員を増やすことを考えていたことと思います。しかし、これには前回の「なぜ生きる」とは違う点がありました。
それは、「なぜ生きる」はあくまで高森顕徹会長の著作物ですからそれを映画化し何を描いたとしても批判はあっても少ないと思います。しかし、「歎異抄」は唯円が書いたとされる原典があり、しかもかなり多くの人がそれを読んでいるというのが「なぜ生きる」との映画化にあたっての違いです。


「歎異抄」をアニメ映画化するにあたって、親鸞会がターゲットにしている「これから真宗の勉強をしようと思って、歎異抄の本を読んでいる層」から、「こんなの歎異抄じゃない」と言われるような作品では作る意味がありません。そこで、歎異抄に書かれてることを取り入れていくと、すでに書いた通り「念仏」の話は避けて通ることはできません。


しかし、「念仏」の話を映画の中に取り入れていくと、今まで高森顕徹会長が会員に話してきた「念仏は御礼のみ」のような内容と合わなくなってしまいます。


そこで、映画制作に関わった親鸞会の弘宣局は頭を抱えてしまいます。
簡単にまとめると以下のようなものです。


1.歎異抄の通りに映画を作ると、念仏を勧めることになる。
     ↓

2.しかし、高森顕徹会長は念仏を勧めてこなかった。
     ↓
3.とはいえ、念仏の話を描かないと「歎異抄」のアニメ映画にならない。
     ↓
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アニメ映画「歎異抄をひらく」で、親鸞会会員を増やし、高森顕徹会長の話を聞く人を増やしたいものの、「歎異抄」を全く忠実にアニメ映画にすると高森顕徹会長の教えてきたことを否定することになるというジレンマに陥っているのが今の親鸞会です。1万年堂出版から「歎異抄をひらく」を出した頃には思っても見なかったことが、アニメ映画にすることで表面化してきました。


そもそもの話として、「歎異抄」とは「先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎き」(歎異抄前序)書かれたものです。親鸞聖人からお聞きした真実信心と異なるものがいることを歎いて書かれたものを、いわばその当事者が映画化すればどんなことになるかは今回の映画のシナリオを見ればよくわかります。機会のある人は、劇場で観たらいいと思います。
信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。」(歎異抄後序)と、書かれたものを、「信心が異なる」人たちが映画化したために、カミソリ聖教ともいわれてきた歎異抄の「歎異」に切られて当惑しているのが今の親鸞会です。そのため、映画のシナリオを読むと高森顕徹会長の長い言い訳がところどころに出てきます。それについてはまた、別のエントリーに書くので今回は省略します。


では、なぜ当惑するかといえば、親鸞会では「高森顕徹会長は真実信心を獲得した善知識」ということになっています。にもかかわらず、「信心異なることなからんために、なくなく筆を染めて」書かれた歎異抄を忠実に映画化しようとすればするほど、高森顕徹会長の教えと異なってくるからです。
そうなると、唯円がもし、今の親鸞会を見た時になんというかはいうまでもありません。歎異抄に、すでに書かれていることも多いですが、追加で一条書くでしょう。

まとめ

高森顕徹会長の名前を世に広めたい、親鸞会会員を増やしたいという目的で、制作したアニメ映画「歎異抄をひらく」は、結果として高森顕徹会長のこれまでの教えが「歎異」されるものだったことを顕在化しました。前作「なぜ生きる」に比べて、劇場公開の期間や数が少ないのはそのためでしょう。また、映画公開直後に開かれた高森顕徹会長の話で、アニメ映画「歎異抄をひらく」で全くその話題に触れなかったのはその証拠です。


映画シナリオが完成してから作られた「人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか」は、アニメ映画「歎異抄をひらく」の会員向けの火消しとして作られたのものです。いろいろと言い訳をしなければならない危機感が制作現場にあったのでしょう。アニメ映画「なぜ生きる」ではシナリオブックのみでほぼ解説はありませんでした。


高森顕徹会長も90歳となり、親鸞会執行部は今後の方針を迫られています。それは、「高森顕徹会長の教えを何が何でも守り抜く」か、それとも「歎異抄に書かれたような『歎異』を辞めて本来の浄土真宗の教えに沿っていく」かです。


言葉を変えれば、「高森顕徹会長の教えを残す」のが親鸞会なのか、「歎異抄で批判されたようなことを教えず、親鸞聖人の教えを伝える」親鸞会になるかの分岐点にいるのが、今の親鸞会です。

ここまで読まれた親鸞会会員の方は、歎異抄の原文及び、現代文が以下のリンク先から読むことが出来るので、一度読んで見て下さい。
labo.wikidharma.org