親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

映画「歎異抄をひらく」で「絶対の幸福」はどういう意味で使われているか。(「人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか」(伊藤健太郎著)を読んだ感想(2))

前回の続きです。
shinrankaidakkai.hatenablog.com

人は、なぜ、歎異抄に魅了されるのか
この映画「歎異抄をひらく」は、最近になり修正版の作成が決まったそうです。そのため、このブログで指摘した箇所が修正されることもあるかもしれません。この記事は、映画公開当時のシナリオに基づいて書いておりますので宜しくお願いいたします。


映画「歎異抄をひらく」の内容は、相当親鸞会教義から一般の人に寄せてきたような表現がいくつか見られます。しかし、その中でこれだけは譲れないといわんばかりに何度も出てくるのが「絶対の幸福」です。


この「絶対の幸福」は、親鸞会結成初期から高森顕徹会長が使い続けている言葉です。私が親鸞会にいたころは「絶対に崩れない大安心、大満足の心」「日本晴れの心」「人間に生まれて良かったという喜び」などなどと解説されていました。しかし、この「絶対の幸福」になった人と自称する人も親鸞会の中ではほぼいません。こと講師部に限って言えば一人もいないのが当時の状況でした。


そのため「絶対の幸福」と人に話はするものの、どんなものかは全くわからないのが「絶対の幸福」です。ちなみに、私が親鸞会を除名になった後、いろいろな方にお会いしましたが、「信心決定した」という人はいてもそのなかで「絶対の幸福になった」という人には一人も会ったことがありません。そうなると、今日の日本で「絶対の幸福」になっているのは、高森顕徹会長だけのようです。


わからないことは、やはり本人に聞くよりほかはないので、高森顕徹会長の著作をアニメ映画にした「歎異抄をひらく」のシナリオから、「絶対の幸福」と書かれた箇所を抜粋していきます。

映画「歎異抄をひらく」より「絶対の幸福」登場箇所

P63
親鸞聖人「阿弥陀仏はそんな私たちを哀れみ、煩悩の塊のまま、絶対の幸福に救ってくださるのだよ」
権八「絶対の幸福?」
親鸞聖人「絶対の幸福というのは、いつまでも変わることのない幸福のことだ」


P70
明法房「私は、修行を続ければ幸福になれると自惚れていた。聖人さまに出会い、阿弥陀仏のお力によって、絶対の幸福に救われることができたんだ」
親鸞聖人「阿弥陀仏は、煩悩の塊である私たちを、生きている今、そのままの姿で救って下さるのだよ。そなたたちも、一刻も早く絶対の幸福に救っていただきなさい」


P74
平次郎「絶対の幸福に救われたら、どんな気持ちになるのですか」
親鸞聖人「(喜びに満ちた表情)どんな大きな波が来ても、びくともしない、大きな船に乗せられたような気持ちだな。行き先が極楽浄土とハッキリしているから、安心して旅を楽しめるのだよ」


P85
平次郎「親鸞さまは、こう仰っていたよ。南無阿弥陀仏という六つの字の中には、どんな人も絶対の幸福にする大きな働きがおさまっているんだって」


P88
平次郎「阿弥陀仏はね。この世で絶対の幸福にしてくださるだけじゃなくて、死んだら極楽浄土で仏に生まれさせてくださるんだって」
権八・アサ「へー」


P92
親鸞聖人「阿弥陀仏に救っていただき、絶対の幸福になっても、煩悩は消えない。阿弥陀仏は、煩悩の塊である人間を、そのままの相で救ってくださるのだよ」


P114
親鸞聖人「うむ、そうだな。では阿弥陀仏のお力で絶対の幸福に救われ、浄土へ往ける身になることを何という?」
唯円「はい!平生業成、といいます」
(略)
唯円「平生とは、死んでからではなく、生きている今、ということです。業とは、絶対の幸福のこと。成とは、完成することです。ですから平生業成とは、生きている時に、最も大事な人生の目的が感性することです」


P122
慧信房「親鸞聖人は、阿弥陀仏の救いは二度あると仰っています。この世では絶対の幸福に救い、死ねば浄土で仏に閉まれさせる。阿弥陀仏は、私たちをこの世でも未来でも救うと、命を懸けてお約束されているのです」


P128
慧信房「念仏者は無碍の一道なり。阿弥陀仏に救われて念仏する者は、どんなことをも障りにならない絶対の幸福者である、と親鸞聖人は仰っています」


P151
親鸞聖人「唯円の言うとおりだ。阿弥陀仏に絶対の幸福に救っていただき、やがて浄土で仏の覚りを開けば、どんな苦しみの世界に沈んでいる者でも、助けることができるのだよ」
(略)
親鸞聖人「アサ。一日も早く阿弥陀仏の本願を聞いて、絶対の幸福になりなさい」

以上が、アニメ映画「歎異抄をひらく」の中に出てくる「絶対の幸福」です。15回出てきます。映画全体のセリフに出で来る言葉としてはかなりの頻度です。

こうして見ると、親鸞会における「絶対の幸福」の定義がよくわかるようになっています。
主に二つの意味で使われていることがわかります。

それは、

  1. いつまでも変わることのない幸福
  2. 仏になる身にさだまること

となります。

1・「絶対の幸福」= いつまでも変わることのない幸福について

全体として見ると、「絶対の幸福」は多く1の意味で使われています。実際に、親鸞会に私が入会したのはこの「いつまでも変わることのない幸福」になれるという言葉に興味があったのが動機です。多くの親鸞会に入会した人は、それに惹かれて入会したことだと思います。とはいえ、この映画でも、高森顕徹会長の話でも「絶対の幸福」の話から想像するものは「何かわからんけどとにかく幸福になるらしい」「強い幸福感がいつまでも変わることなく続くらしい」というものです。欲望を満たされた幸福感の延長にあり、かつ最上のものと多くの人は考えます。


阿弥陀仏に救われる=絶対の幸福と定義していますが、それについては実は一貫していないのが特徴です。この後書きますが2の「仏になる身にさだまること」と、1の「いつまでも変わらない幸福」は違います。つまり、「絶対の幸福」と言いながら、異なる二つの意味を巧みに使い分けながら話をすすめているということになります。


この「いつまでも変わることのない幸福」という印象を強く打ち出したいためか、聞いた人が想像するであろうことと矛盾するような場面ではこの「絶対の幸福」という言葉は使わないようになっています。
それが、この作品中に出てくる歎異抄9条の場面です。

P192
唯円「私は念仏称えても、天に踊り地に踊るような喜びが起きません。また、早く浄土へ往きたい心もわかないのです。これはいったいどうしてなのでしょうか」
親鸞聖人「おぉ、唯円房、そなたもか(略)」

この場面のやりとりでは、一語も「絶対の幸福」は使われていません。他の場面が、かなり強引に「絶対の幸福」の言葉を入れ込んでいるのとは対照的です。ここからわかることは、親鸞会でいう「絶対の幸福」は阿弥陀仏の救いの全てをあらわすような言葉ではないということです。「仏になる身にさだまること」は「いつまでも変わることのない」ものですが、それが「いつまでも変わることのない幸福」「絶対の幸福」と言い替えていいものではありません。善意に解釈したとしてもかなり盛った言い方が「絶対の幸福」です。

「絶対の幸福」=仏になる身にさだまること について

これについては、阿弥陀仏に救われるとは仏になる身にさだまることですから、特に異論はありません。平生業成の説明の場面で使われていますが、それがこの意味ならば意味は通ります。
とはいえ、1の定義をずっと聞いている人からすれば「絶対の幸福」=「いつまでも変わらない幸福」です。聞いている人からすると、「絶対の幸福」=「いつまでも変わらない幸福」=「仏になる身にさだまること」となるでしょうが、前述したようにその等式はなりたちません。


阿弥陀仏の救い=絶対の幸福とすることの問題点

先に挙げましたように、作品中に「阿弥陀仏はそんな私たちを哀れみ、煩悩の塊のまま、絶対の幸福に救ってくださるのだよ」と出てきます。阿弥陀仏の本願は、あたかも「絶対の幸福にする(いつまでも変わらない幸福)」のが主眼のようになっています。もちろんここでは「仏になる身に定まる」の意味では使われていません。
それが、場面によっては1と2の意味を行ったり来たりしながらこの作品は進行していきます。それを特徴づけるのは、先に出したこの場面です。

P88
平次郎「阿弥陀仏はね。この世で絶対の幸福にしてくださるだけじゃなくて、死んだら極楽浄土で仏に生まれさせてくださるんだって」

作品では、この場面まで「絶対の幸福=いつまでも変わらない幸福」とほとんどの場面が描かれています。その流れで、このセリフが出ると、阿弥陀仏の救いはあくまでも「絶対の幸福」にするのが主眼で、仏になるのがそのついでのような表現となっています。まるで通販番組で「今回紹介する1台4役キッチンカッターですが、今回お買い上げされた方全員に特別にこのフライパンもお付けします」と言っているのと同じような印象を受けます。


実際私も、入会当初はとにかく「絶対の幸福」になりたいと思っていましたし、「仏に成る」ということは殆ど高森顕徹会長の法話で聞くことはありませんでした。


このように聞いた人に阿弥陀仏が本願に言われていない「絶対の幸福」に聞いている人を誘導するような話は、大変な誤りです。
こういうと親鸞会の人は、「お聖教にない単語を使ったら悪いのか!」と言ってきます。もちろん、現代の人がよりわかるような言葉や表現を使うことは批判されることではありません。ここで言えば「絶対の幸福」という言葉を使うことが悪いのではありません。


問題なのは、定義が異なる二つまたはそれ以上ある言葉を「絶対の幸福」として使って聞いている人をミスリードしている点です。しかも、真宗にない教えや定義を「絶対の幸福」に入れ込んで、「阿弥陀仏は絶対の幸福に救って下さる」と強調するのは、阿弥陀仏の救いを曲げて伝えていることになるので直ちに止めるべきことです。

まとめ

高森顕徹会長の最後になるかもしれない作品でも「絶対の幸福」の定義は明確になりませんでした。わかるのは、真宗でいわない定義と、真宗でいわれている定義を同じ「絶対の幸福」という言葉で表現している点です。


高森顕徹会長から法話で聞いていると、それに気がつく人はあっても少ないと思います。それをこのように文字にしてみると、大変わかりやすくなっていますので、映画を御覧になった会員の方は、よくよくこのシナリオを読んで、不審があれば高森顕徹会長に質問をしてみて下さい。