親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森顕徹会長が二河白道の譬えを繰り返す理由を考える。

年が明けましたが、2018年12月23日に親鸞会館(富山県射水市)での高森顕徹会長の話について書きます。

すでに、話の内容については以下のブログにも書かれています。
hiun.cocolog-nifty.com
shingikensho.blog12.fc2.com


この日は、映画「なぜ生きる」を見た人からの質問として

『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか。

これについて、「聞く一つでは頼りない心が出てくるが、それについて教えられたのが二河白道の譬えだ」ということで、二河白道の譬え話(親鸞会独自のもの)を話をしていました。

公式サイトにも、同様な話が掲載されています。
−−−−−−−
公式サイトより
f:id:yamamoya:20190103062821p:plain
www.shinrankai.or.jp
−−−−−−−

今回に限らず、ここ数回親鸞会館での高森顕徹会長の話は二河白道の譬えが続いています。最初は、ネットの批判を見てムキになって話をしているのかと思っていましたが、公式サイトにも載っているところをみるとどうも違っていたようです。

映画のシナリオ

これまで、高森顕徹会長の話の傾向として、アニメや著作を製作中にはそれに書いてある内容を続けるというものがあります。最近では、映画「なぜ生きる」製作中に「難度海を度する大船」の話を1年以上続けていました。参加していた当時会員だった方から「こんなことを言ったら悪いのかもしれないが、本当に毎回同じ話だった。たまには違う話が聞きたい。だけど、それを言うと講師から叱られた」と聞いたくらいです。もっと以前だと、著作「なぜ生きる」を書いている時は「なぜ生きる」の話を続け、アニメ「世界の光親鸞聖人シリーズ」制作の時期は、その時々でアニメに描かれる話が続きました。
一部紹介すると、第一部の時は「後生の一大事」、第二部は「三大諍論」、第三部では「難度海と丸太、板きれの話」などなどです。
これからすると、間違いなく最近の話は、製作中のアニメ映画「歎異抄をひらく」(仮題)のシナリオでしょう。

高森顕徹会長の遺言として

高森顕徹会長も、今年90歳になります。どんな会社の創業者でも引退してもおかしくない年齢です。それだけに、今回制作のアニメ映画「歎異抄をひらく」(仮題)は、高森顕徹会長の遺言として親鸞会の中で扱われることでしょうし、会長自身もそのつもりで制作していることと思います。

それだけに、ここ最近の話は高森顕徹会長の話を聞いた会員が感じるであろう疑問について強弁しているところが興味深いです。それは、「聴聞に極まるといわれて、親鸞会館に足を運んでいるが本当に助かるのだろうか」という点です。これは、ほぼ全ての熱心な会員が考えていることです。かつて私もそう思ったことがあります。

それに対する回答は

水火の波が細い白道を覆い隠す不安な時に、群賊が現れるから、なかなか仏法は聞けなくなるのである。

その中を、此岸の釈迦は「断固その道を行け」と専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される。その弥陀の呼び声が聞こえた一念に、私たちは絶対の幸福に救われるのである。
https://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20181215tayorinai.htm

教義的には、完全に間違っていますが、高森顕徹会長が言いたいことを要約します。
「周りから反対され、自身もこれでいいのかと不安に思うだろうけど、とにかく親鸞会館で聴聞しないと絶対の幸福になれない」
ということです。


結局「聞く一つ」とはいうものの「仏願生起本末」についてはほぼほぼ説明はないのが親鸞会です。つまり、「とにかく親鸞会館に来なさい」以外に教義らしきものがないのが親鸞会の実態です。
「あなたはなぜ親鸞会館に行くのですか?」と、この年始に家族や親類に尋ねられた人もあると思います。私も、かつてそのような質問を受けました。しかし、改めて考えるとその答えは「親鸞会館に来いと言われているから」以外の回答は実はありません。本当の本気で、例えば今日親鸞会館の法話に参加して、信心決定の身になれると思っている人はどれくらいあるでしょうか?決して多くはないと思います。
ただ、「親鸞会館に来なさい」という高森顕徹会長の教義に従っているにすぎません。教義が「親鸞会館に来なさい」ですから、それを果たせば立派な親鸞会会員ということになります。


そうなると、親鸞会会員にとっての「なぜ生きる」「人生の目的」は「親鸞会館に行くこと」ということになります。果たして、それでいいのでしょうか?ここまで読まれた会員の方は、「親鸞会館に行くために生まれてきたのか?生きているのか?」ということをわが身のこととして考えて見て下さい。