親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の宿善の現在地2・どうしても宿善(過去の善)で救われると思いたい親鸞会

shinrankaidakkai.hatenablog.com
前回の記事の続きです。

「宿善がなければ救われない」根拠として出しているのが前回の記事にも紹介した二つです。

伊藤健太郎教学部長のyoutubeより

前半のものについては、前回の記事に書きました。今回は後半のものについて書きます。

目次

親鸞会の「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりと見えたり」解釈

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。

この御文章をもって、宿善(過去の善)がないと助からないと強調します。

親鸞会教学聖典では、以下の問いと答えで書かれています。

親鸞会教学聖典5号
問(24) 「無宿善は絶対に助からぬ」と明言されている蓮如上人のお言葉と根拠を、二カ所示せ。

答(24)
○いずれの経釈によるとも既に宿善に限れりと見えたり。(御文章)
○無宿善の機に至りては力及ばず。(御文章)

親鸞会会員はこの問いとセットで覚えさせられるので、この御文章もその意味で理解をしています。

「宿善にかぎれり」は「助かるため」ではなく「人に伝える上で」のこと

しかし、御文章の前後を読むと違う意味で使われていることがわかります。
関連部分の全文は最後に参照として引用していますので、知りたい方はそちらをご覧ください。

関係するところだけ引用すると以下のような構成になっています。

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。(略)
いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし

最後に「ひとをば勧化すべし」とあるように、人に伝える際の注意点として「宿善・無宿善の機を沙汰すべし」と言われています。

「宿善薄いものは助からないから善を励め」という文章ではありません。

沙汰せよと言われた「宿善・無宿善の機」とは?

ここで人に法を伝える際には「宿善・無宿善の機を沙汰すべし」と言われています。
親鸞会定義の宿善(過去の善)でしたら、そんなものは仏様でもない人間に分かるはずもありません。

されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。

無宿善の者には、正雑二行の話はむしろ誹謗の元になるから気をつけよと言われています。ここでは、話す側が気をつけることとして言われているので「その人の過去の善根」というのは分かりません。実際に表に現れる聞法心の意味で使われています。
浄土往生を願う心があり、法を聞こうという心のある人を宿善の機と言われています。全く宗教心もない人、浄土真宗以外の宗教に凝り固まっている人のことを、浄土真宗の教えをそもそも聞く気のない人(無宿善の機)といわれています。


「無宿善は絶対に助からぬ」で最近用いる唯信鈔文意のご文について

引用する御文章は上記のように「すでに宿善に限れり」と書かれているのは親鸞会が言うような「無宿善(親鸞会が勧める善をしないもの)は絶対に助からぬ」という意味ではありません。


しかし、それでも「善をしないと助からない」と思いたい親鸞会では、次の動画で以下のご文を引用しています。

浄土真宗講座(上級B)【19~21】五重の義2善知識より

浄土真宗講座(上級B)【19~21】五重の義2善知識 - YouTube(56:41〜)

おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。(唯信鈔文意 - WikiArc浄土真宗聖典註釈版P713)

ここをyoutubeでは、このように説明しています。

数えきれない善をしたことが、それが宿善となって、いま弥陀の本願に救われる事が出来たと仰っているのです。
浄土真宗講座(上級B)【19~21】五重の義2善知識 - YouTube(57:55〜)

これも、御文章と同様に都合のいいところで切り取っています。先に引用したように、このご文は「他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。」が結論とする為に書かれたものです。信心獲得した人は、自力の善根や、阿弥陀仏以外の仏や菩薩を謗ることが有ってはならないと言われています。
この文章は安楽集に引かれた涅槃経*1を元にして書かれたものと言われています。

ここの部分では、親鸞聖人は救われるまでの過去の全ての善を、いわゆる信心獲得までの善き因縁として宿善を定義されています。


しかし、同じ文章を和讃では全く別の意味で書かれています。

(17)
恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなはで流転せり(正像末和讃 - WikiArc浄土真宗聖典註釈版P603)

自力の善根では、絶対助からないものであったと言われています。そういう自分と知らされることを機の深信と言います。
ですから、親鸞聖人は宿善(過去の善根)については、そこまで育てて下さる阿弥陀仏のお働きのことを言われています。その為、親鸞聖人は「宿善」という言葉では無く「宿縁」というと言葉でそのことを表現されています。「宿善」という言葉をどうしても使いたいなら「宿善のお育て」というものであって、「宿善を厚くする」というものではありません。


上記の和讃を親鸞会は教学聖典9号でこう教えています。

親鸞会教学聖典9号
問(26) 「遠い過去世から親鸞、絶対の幸福を求め続けてきたが、求まったということは一度もなかった」と言われている『ご和讃』と、その根拠を書 け。

答(26)
○三恒河沙の諸仏の
 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなわで流転せり
         (正像末和讃

このように「求まったということは一度もない」のが、自力の善根を積み重ねた結果です。

「数えきれない善をしたことが、それが宿善となって、いま弥陀の本願に救われる事が出来た」とは、親鸞会でも教えていないと言う事です。

「宿善(過去の善根)」によって助かるのか?

伊藤健太郎教学部長の説明「数えきれない善をしたことが、それが宿善となって、いま弥陀の本願に救われる事が出来た」は、先の教学聖典の問題文と矛盾します。

自力の善根では助からないと言う事は、親鸞会でも強く主張している事は私もよく知っています。

助からない筈の自力の善根を、「宿善」という言葉に変換する事で、「助かる何か」に変換されるかのように思っているに過ぎません。別に阿弥陀仏に向かった善だからといって、私の善が「往生浄土の善」に強化されることはありません。

つまるところは「何で」助かるのかと言う事が、ハッキリしないので、自分たちが理解出来る「獲信の善き因縁」「宿善に限れり」という単語を頭の中でつないで「善をする事で救いに近づくのでは」と有りもしない妄想をしているに過ぎません。

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ(浄土真宗聖典註釈版P131)

念仏を信ずる信心に恵まれたのは、ひとえに「宿縁」といわれる阿弥陀仏のお育てによるものです。言い換えると光明名号の働きによるものです。

親鸞会会員は、「救いに近づきたい」の思いで「宿善」を求めていると思いますが、仮に「近づいた」としても「自力かなはで流転せり」です。「近づければ助からなくてもよい」と言う人は別として、ただ今助かりたい人は、「何が」私を救うのかについて改めて考えて見てください。


次の記事
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参照 御文章三帖目十二通全文

 そもそも、いにしへ近年このごろのあひだに、諸国在々所々において、随分、仏法者と号して法門を讃嘆し勧化をいたす輩のなかにおいて、さらに真実にわがこころ当流の正義にもとづかずとおぼゆるなり。そのゆゑをいかんといふに、まづかの心中におもふやうは、われは仏法の根源をよく知り顔の体にて、しかもたれに相伝したる分もなくして、あるいは縁の端、障子の外にて、ただ自然とききとり法門の分斉をもつて、真実に仏法にそのこころざしはあさくして、われよりほかは仏法の次第を存知したるものなきやうにおもひはんべり。これによりて、たまたまも当流の正義をかたのごとく讃嘆せしむるひとをみては、あながちにこれを偏執す。すなはちわれひとりよく知り顔の風情は、第一に驕慢のこころにあらずや。

かくのごときの心中をもつて、諸方の門徒中を経回して聖教をよみ、あまつさへわたくしの義をもつて本寺よりのつかひと号して、人をへつらひ虚言をかまへ、ものをとるばかりなり。これらのひとをば、なにとしてよき仏法者、また聖教よみとはいふべきをや。あさまし、あさまし。なげきてもなほなげくべきはただこの一事なり。これによりて、まづ当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもはん輩においては、その勧化の次第をよく存知すべきものなり。

 それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。ことにまづ王法をもつて本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心にふかくたくはへて、外相に法流のすがたを他宗・他家にみえぬやうにふるまふべし。このこころをもつて当流真実の正義をよく存知せしめたるひととはなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明八年正月二十七日]