親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会でいう「五重の義」について思うこと(宿善は、善をすることで厚くなるは本当か?)

「五重の義」について

安心問答のコメント欄を読んで思ったことを書きます。一度書いてみて、こちらの脱会ブログの方が合っていると思ったのでこちらに投稿します。

まさ 2013/08/09 19:02

蓮如聖人がお文に示された『これによりて五重の義を立てたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり。』(御文章二帖目十一通)
五つのものが揃わなければ、報土往生はできないと仰った蓮如上人のお言葉ですが。
そのままこれからも聞かせていただきましょう。とはどの様に理解すれば良いのでしょうか?

蓮如上人が御文で示された、

浄土往生のために必要な五つの重要なことがらがあります。


『御文章』二帖目第十一通に、十劫安心と善知識だのみの邪義を破し、獲
信の相状の始終を詳らかにして、「これによりて五重の義をたてたり。一に
は宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号、この五重
の義成就せずぱ往生はかなふべからずとみえたり。」とあります。

蓮如聖人はお文に『これによりて五重の義を立てたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号、この五重の義成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり。』(御文章二帖目十一通)

五つのものが揃わなければ、報土往生はできないと仰った蓮如上人のお言葉です。(略)


shinrankaiuso 2013/08/09 20:22
まささんは、宿善に拘っておられるのでしょうかね。
宿善とは、浄土往生の教えを聞く気があるかないかのことです。
言い換えると、18願の念仏1つで救われると教える親鸞聖人の教えを、
「そんな上手い話があるか、まずは善をしなければ」と親鸞聖人の仰せ、阿弥陀仏の18願通りにそのまま受け取れない人が、宿善の無い人です。
その反対で18願の念仏1つで救うと阿弥陀仏が誓われ、そのまま親鸞聖人が教えておられるので、善に拘ることなく、そのまま受け入れよう、とする人が宿善の有る人です。

宿善がなければ、念仏1つを勧められる善知識の教えを聞くこともできず、もちろん光明にもあえず、信心も頂けず、報謝の念仏を称えることもない、ということです。

18願をそのまま聞いて、親鸞聖人の教えをそのまま信じてください。


shinrankaiuso 2013/08/09 20:24
一応、五重の義の元になった根拠。

存覚上人の『浄土見聞集』

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。


ひな 2013/08/09 22:27
「五重の義」は阿弥陀様が全部用意して下さったので、私は「そのまま」でいいのですよ!


まさ 2013/08/10 06:53
五重の義の意味は十分理解致しました有難うございます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130807/1375875814#c1376042523

このまささんが「五重の義」について「五つのものが揃わなければ、報土往生はできないと仰った蓮如上人のお言葉です」について、思ったことを書きます。私が以前所属していた宗教法人浄土真宗親鸞会では、この「五重の義」について繰り返し話を聞きました。


しかし、高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)のいう「五重の義」は本来蓮如上人が言われたものとは随分異なっています。それを今回は書いてみたいと思います。


宗教法人浄土真宗親鸞会高森顕徹会長のいう「五重の義」は、宿善がなければ善知識にあえない、善知識にあえなければ光明のお育てにあえない、光明のお育てがなければ信心を獲られない、信心をえられなければ名号(念仏)を称えることはないのだから、「まずは宿善がなければならない」とします。
高森会長は強調し、「救われる為に絶対必要な宿善をまず求めなければならない」と会員に強調します。


いう親鸞会教義にどっぷりとはまってしまい、「まずは宿善」のために「会長の話を聞く(熱心な聞法)」と「献金と勧誘活動(親鸞会でいう六度万行の実践)」というサイクルにはまってしまいます。


しかし、この「五重の義」でいわれる「五つのもの」のそれぞれは、お聖教全体からいえば必ずしも「宿善→善知識→光明→信心→名号」という順番になっているものではありません。

さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。(執持鈔_浄土真宗聖典―註釈版P863)

ここで「このひかり」といわれているのは「光明」です。阿弥陀仏の光明のお育てによって「宿善のたねきざす」といわれています。ここでは「光明→宿善」という書かれ方をしているのです。


なぜこうなるのかといえば、光明ということばには、私を育てて下さるお働きという意味と、修め撮って捨てられない(摂取の光明)意味の二つあるからです。この執持鈔では、私を照らし育てて下さる意味で書かれているので、「光明→宿善」という順番で書かれています。御文章の五重の義では、摂取する意味で使われているので「宿善→→光明」という順番になっています。



また、「五つのものがそろわねば往生はできない」と言っても親鸞会の説明では、宿善や善知識があたかも信心をうるための、あるいは往生の因の一つであるかのようになってしまいます。往生の因はあくまでも、信心であって、宿善や善知識はその縁となるものではあっても因ではありません。それに、この五重の義は当時の異義の中の「十劫安心」と「善知識だのみ」を戒められたものですから、まじめに拝読すれば「この先生のいうことに従うしか助かる道はない」と考えるのは間違いだと判られると思います。



それでもどうしても「宿善がなければ!それには(親鸞会で推奨される)善に励まねば」と思うひとは、上記の執持鈔のお言葉をもう一度よく読んでみることをお勧めします。