目次
- 「二千畳での聞法の配信についてのご案内」
- 「宿善」の定義について
- 「病気になれば医者まかせ、船に乗れば船頭まかせと言われるように、信心獲得には宿善まかせと蓮如上人は仰っています。」について
- 「“宿善は待つに非ず、求むるものなり”と言われますように、宿善薄き者は、宿善厚くなるように心掛けねばなりません。”」について
- 「宿善厚くなるように、親鸞聖人は「大千世界に、みてらん火をもすぎゆて聞け」と教えられ」について
- 「楽な聞法はそれだけの宿善にしかならないのです。「仏法は正座で聞かせて頂きましょう」と言われるのも、ひとえに「存命の中に皆々信心決定あれかし」と念じられるご教導によるものなのです。」
- 「世界最大の二千畳は、正座で真剣に聞かせて頂く聞法の場として建立されました。そこで「足で聞け」「骨折って聞け」のご教導にしたがい、今後の二千畳のご縁は、配信無しで聞かせて頂くことになりました。」について
- まとめ
- 「宿善」から「SHUKUZEN」へ
2023年9月より、親鸞会ではコロナ対策として行ってきた、親鸞会館行事のネット配信を原則中止とし、親鸞会館のみ(富山から遠方地域でも各地会館のみ)となりました。
これにより、2020年3月ごろから始まった会員なら全国どこでもネット配信を視聴できる状態は約3年半で終了となりました。
それに伴い、会員に向けて二千畳行事のネット配信停止と二千畳へ足を運ぶ事を勧める文章が配布されました。以下は、その全文です。
「二千畳での聞法の配信についてのご案内」
二千畳での聞法の配信についてのご案内
今日まで、二千畳でのご説法の配信は、当たり前になっていましたが、「足で聞け」「苦労して聞け」の教えに逆らう状態になっておりましたことを深く反省致しましょう。
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」(御文章)病気になれば医者まかせ、船に乗れば船頭まかせと言われるように、信心獲得には宿善まかせと蓮如上人は仰っています。
宿善とは、過去の善です。
過去は一人一人異なりますから、当然、宿善にも厚薄があります。
“宿善は待つに非ず、求むるものなり”と言われますように、宿善薄き者は、宿善厚くなるように心掛けねばなりません。”宿善厚くなるように、親鸞聖人は
「大千世界に、みてらん火をもすぎゆて聞け」と教えられ、
蓮如上人も「火の中を 分けても法は 聞くべきに 雨風雪は ものの数かは」
と教えられます。
仏教の先達は“骨折って聞け”“足で聞け”と教えられます。
いずれも苦労して聞けと言われています。法話中に扇子を使い、足が痛めば投げ出し、近くに法座があれば参るが、少し遠方だと聞く気を無くする。これでは骨折って聞くとはいわれません。
楽な聞法はそれだけの宿善にしかならないのです。
「仏法は正座で聞かせて頂きましょう」と言われるのも、ひとえに
「存命の中に皆々信心決定あれかし」と念じられるご教導によるものなのです。世界最大の二千畳は、正座で真剣に聞かせて頂く聞法の場として建立されました。
そこで「足で聞け」「骨折って聞け」のご教導にしたがい、今後の二千畳のご縁は、配信無しで聞かせて頂くことになりました。ただし、どうしても体調不良や家庭の事情等で、二千畳へ来れない方のために、本部長に配信の申請をすることができます。
本部長への申請方法などの詳細は、追って案内があります。(2023年9月に会員に配布された文章・赤文字、青文字は筆者強調)
「宿善」の定義について
上記に全文を掲載しましたが、目に付くのは「宿善」です。短い文章に9回登場してきます。
しかも、この文章では「宿善」について、「過去の善」としています。
宿善とは、過去の善です。
過去は一人一人異なりますから、当然、宿善にも厚薄があります。(案内文より)
宿善をこのように定義するのは親鸞会だけだと思います。この文章の作者は、親鸞会発行の教学聖典にある以下の問題に従ったものと思います。
○親鸞会発行 教学聖典5号より
問(28) 「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。また宿善が厚くなる順から三つあげよ。答(28)
○「宿世の善根」とか、「善が宿る」とも読む。
(1)熱心な聞法
(2)五正行の実践
(3)六度万行の実践
しかし、「宿善」を「過去の善(宿世の善根)」のみとするのは間違いです。
浄土真宗辞典には、以下のように書かれています。
しゅくぜん 宿善
⑴過去世に積んだ善根のこと。
⑵宿世の善因縁の意で、獲信のための善き因縁のこと。『御一代記聞書』第233条に「宿善めだたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ」(註1307)とあるように、浄土真宗では、信心を得る縁となる阿弥陀仏の調育のはたらきであるとする。
親鸞会では(1)「過去世に積んだ善根のこと」としています。それに対して浄土真宗辞典では⑵「阿弥陀仏の調育のはたらき」としています。
そのため、上記の案内文に出てくる御文章の「まことに宿善まかせ」のご文は、「阿弥陀仏の調育のはたらき」と読むのが普通です。
例として置き換えてみるとよく分かります。
○親鸞会の定義での置き換え
「皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに過去の善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
○浄土真宗辞典の定義での置き換え
「皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに阿弥陀仏の調育のはたらきまかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
宿善の言葉の定義は、このように異なります。それを知った上で読んだとしても、上記案内文はいろいろと気になるところがあります。
「病気になれば医者まかせ、船に乗れば船頭まかせと言われるように、信心獲得には宿善まかせと蓮如上人は仰っています。」について
この文章は、親鸞会にいるとよく聞く言い回しです。
しかし、例として出る前半と、親鸞会が言いたい後半は全く違うことを言っています。
前半の「病気になれば医者まかせ、船に乗れば船頭まかせ」は、あくまで「病気になった上は」「船に乗った上は」ということ言っています。
それに対して「信心獲得には宿善まかせ」は、「信心獲得するためには」の意味で、「信心獲得した上は」という意味ではありません。
後半の意味に従うなら、前半は「病気になるには医者まかせ」「船に乗るには船頭まかせ」となり意味がまったく変わります。
なんとなく読んでいると、「病気になれば」「船に乗れば」に続く文章なので「信心獲得すれば」の意味のようにとってしまいますが、三番目だけ違う論理で書かれいます。こういうところで親鸞会は、会員をミスリードしようとしています。
もちろんこういう言い方は、高森顕徹会長が過去に法話で使っていた言い回しです。一日の法話の流れの中でこういう風に言われると、多くの人は上記のミスリードに引っかかります。しかし、このような短い文章に載せるとその間違いはより分かりやすくなります。
また、「信心獲得には宿善まかせ」と言ったとしても、その「宿善」は「阿弥陀仏の調育のはたらき」であって「過去の善」ではありません。
「“宿善は待つに非ず、求むるものなり”と言われますように、宿善薄き者は、宿善厚くなるように心掛けねばなりません。”」について
最初の「宿善は待つに非ず、求むるものなり」の語は、誰の言葉かはわかりません。私も親鸞会でよく耳にしました。
おそらく、元になった言葉はあるでしょうが、ここでいう「宿善」は「阿弥陀仏の調育のはたらき」という意味で取れば、阿弥陀仏とのご縁というくらいのことだと思います。
親鸞会のいう「過去の善」ととると、とにかく「善をしろ」と浄土真宗で勧めているということになり間違いです。
「宿善厚くなるように、親鸞聖人は「大千世界に、みてらん火をもすぎゆて聞け」と教えられ」について
これは、元の親鸞聖人の和讃と全く意味が違います。
(31)
たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり(浄土和讃 - WikiArc)
親鸞聖人が勧められるのは「仏の御名をきく」ことであって「宿善あつくなるように」と勧められたものではありません。
親鸞会会員は「仏の御名をきく=聴聞=親鸞会館へ足を運ぶ」と、言葉が自動変換されていると思いますが、これは違います。
「仏の御名をきく」とは、「南無阿弥陀仏をきく」ことであり、「本願招喚の勅命をきく」ことです。ですから「仏の御名をきくひと」は「ながく不退にかなふ」と言われているのです。
親鸞会がいう「宿善(過去の善)厚く」の意味は全くありません。このように親鸞聖人がいわれなかったことを、親鸞聖人が仰ったと伝えるのが親鸞会の特徴です。この団体が「歎異抄」を全面に推し出して活動をしているのですから自己矛盾も甚だしいです。
まとめ
ネット配信をとりやめて、とにかく親鸞会館へ足を運んでもらうというのが、今の親鸞会の方針のようです。このようにするのも、3年以上のネット配信という名目の高森顕徹会長の過去の法話ビデオの繰り返しで、会員に対する求心力が低下してきたことへの対策です。
もう一つは、今後は「配信で誰でも視聴できると困る話」が親鸞会館で行われるからだと思います。それは、高森顕徹会長以外の人の法話が開催されることを意味します。
会員の誰でも高森顕徹会長がすでに94歳となり、かつてのように話ができるようにならないことは分かっています。さすがに今後永久に高森顕徹会長のビデオ法話を続けるのは現実的ではありません。当然、「次の誰か」が話をすることになります。
その「次の誰か」の話に不安のある親鸞会は、とにかくネット配信をとりやめにして、段階的に「高森顕徹会長のビデオ」から「次の誰か」の話へと移行していくことでしょう。
これまでの学徒タブレットがあれば誰でも視聴できる環境では、誰の手にわたるかわかりません。いきなり批判を受けないための今回の配信停止だと思います。
「宿善」から「SHUKUZEN」へ
ただ、「親鸞会館へ足を運ぶ」理由が「宿善(過去の善)」では、浄土真宗ではありません。
親鸞会では、「二千畳で正座をすると厚くなる何か」を「宿善」と呼んでいます。ただ、そんな「宿善」は浄土真宗にはありません。あえていうなら「SHUKUZEN」というべき親鸞会独自の概念を指す言葉があるとしかいえません。
「SHUKUZEN」によらねば助からず、「SHUKUZEN」を厚くしなければならない、親鸞聖人や蓮如上人は「SHUKUZEN」を厚くするように教えられたというのが今の親鸞会の教義です。
そして、「SHUKUZEN」以外に、会員を動かすことができなくなったのも今の親鸞会といえます。
「報恩講で信を獲れ」をスローガンにしていた、かつての親鸞会はもはや過去のものとなったようです。
今年10月の報恩講は「SHUKUZENを厚くするため二千畳で正座せよ」となっていますが、これで心底納得する会員はいないと思います。
会員の方は「SHUKUZENを厚くするため正座をする」のか「ただ今信心獲得の身に救われる」のか、自分が阿弥陀仏の本願を聞き求めるのは何のためかを本気で考えてみてください。
この「宿善」「SHUKUZEN」を親鸞会ではどのように定義をしているかは、案内文とほぼ同時期に公開された、以下のYoutubeに出ています。
これは、親鸞会で教学部門の責任者であり「なぜ生きる」の著書でもある伊藤健太郎氏の「仏教哲学で生きる意味を知る」チャンネルです。
親鸞会の現在における「宿善」「SHUKUZEN」はこれになります。
この内容については、また次の記事で書きます。
次の記事はこちら
shinrankaidakkai.hatenablog.com