親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「十九願で勧めれれている修善は、無上仏にむかって力いっぱいする善だから、純粋な心が問われます。 では、自分はどうか。」(顕真平成25年7月号より)を読んで思い出した唯信鈔のお言葉

前回のエントリーで、顕真平成25年7月号の法友通信を紹介しました。

その中で、以下の文章を読んで思ったことを書きます。

心の悪は野放しで 罪福信じているのか
 富山県 親友部
(略)
「罪福ふかく信ぜしめ」、三願転入の軌道に乗せていただくとは、それほど有り難く、ほとんどの人ができないことなのかと思いました。
 十九願で勧めれれている修善は、無上仏にむかって力いっぱいする善だから、純粋な心が問われます。
では、自分はどうか。(略)
(顕真平成25年7月号法友通信より)

この文章を読んで思い出したのは、唯信鈔の以下のお言葉です。最初に断っておきますが、これは唯信鈔で「こんな考えは間違い」と戒められたものです。

 三 つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。(唯信鈔・浄土真宗聖典―註釈版P1353)

http://goo.gl/uL22EZ

親鸞会会員の人がよく使う言い回しに変えて意味を書くと、「五逆罪を造っている悪人が、わずか十回の念仏で往生すると観無量寿経に説かれているが、それは宿善によるものだ。私のようなものは、過去においてもこれまでもそれほど善根を積み重ねて来たとは思えない(親鸞会では宿善が薄い)。そんな私はどうして浄土往生することができるだろうか?」となります。


そういう考えを親鸞会会員の多くは持っています。言い換えると「自分はそれほど善をしてこなかったし、今もそれほど善はできてない」と考えています。だから先に紹介した法友通信にも、「十九願で勧めれれている修善は、無上仏にむかって力いっぱいする善だから、純粋な心が問われます。では、自分はどうか。」と書いてあります。そのように会員が考えるようになったのは、ほかならぬ高森会長の話を聞いているからです。


会長独自の言い回しでいうと「宿善の厚い人は早く救われる。宿善の薄い人は遅く救われる。だから、宿善薄い者は宿善厚くなるように求めよ」というものです。
参考に、平成25年7月号顕真P21の画像も紹介します。
f:id:yamamoya:20130804072312p:plainf:id:yamamoya:20130804072328p:plain


しかし、親鸞会会員は本当に「宿善がない」(親鸞会用語でいえば宿善が薄い)のでしょうか?
それに対して、唯信鈔では、最後にこのように書かれています。

逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。(同上)

五逆罪の者が十回の念仏を称えるのでさえ宿善によるものである。ましていわんや私が生涯にわたって念仏を称え続けているのは宿善によるのである。どうして、五逆罪のものが十回念仏を称える事を宿善があったものと思い、私が現在南無阿弥陀仏と称えることを宿善が浅いものと思うのだろうか。小賢しい智慧をもって阿弥陀仏のお働きをあれこれ分別し、まず十九願の善を実行せねばなどというのは往生成仏の障げになるものだ。「小智は菩提のさまたげ」というのは、まことにこのような考え方である。


観無量寿経で、一生涯悪ばかりを造ってきた五逆の罪人が臨終に善知識の勧めによってわずか十回の念仏を称えることによって往生すると説かれています。これを親鸞会会員の人はどのように思うのでしょうか?「それはその人はよほど宿善厚かったに違いない」とでも思うのでしょうか?


唯信鈔で書かれていることは、そんな五逆のものが臨終に十回念仏を称えるのも宿善によるのだから、平生に念仏するものは当然宿善あるものだということです。ただ、この唯信鈔で問題にされているのは、そのような宿善が「厚いとか薄い(親鸞会用語)」ことにこだわり、阿弥陀仏の本願力である南無阿弥陀仏のお働きを聞かないことです。
南無阿弥陀仏のお働きに目を向けず、「宿善が」「善が」ということを浄土往生の必要条件のようにいう「小智」といわれる軽薄な教えの理解を戒められたものです。


最後に、「(親鸞会用語)宿善が浅い」から活動を一生懸命している親鸞会会員に言いたいことを書きます。
日ごろ念仏を称える事がある人は、すでに宿善のある人です。今貴方がすることは、南無阿弥陀仏を聞くことです。本願通りにただ今救われることです。どうしても「善」がしたければ、まず浄土往生が定まってからしてください。