親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の主張する三願転入論が観念の遊戯になってしまう理由

宗教法人浄土真宗親鸞会(高森顕徹会長)は、「親鸞会流三願転入」を主張し多くの会員に、彼等の教義を信じさせています。もちろん、彼等の主張する「親鸞会流三願転入」は親鸞聖人の教えられたものとは違います。そのため、ネット上では複数の元会員から複数回その間違いを指摘されています。

それにも関わらず、親鸞会はその間違いを認めたことはありません。それどころか、批判されればされるほど、それらの批判に対して「三願転入を破壊する群賊だ」とレッテル貼りに余念がありません。


ここまでの話を聞くと、次のような疑問をおこす人もあると思います。
「これだけ複数の人が根拠を上げて、親鸞会流三願転入の間違いを指摘しているのに、なぜ会員その間違いに気がつかないのだろう?」


これについては、答えは二つあります。

  1. そもそもそれらのネットの批判記事を読んだことがないから。
  2. 親鸞会で言う「求道」は、実際のところ「行」は無視した「信(または心)」だけを問題にしているから。

1.そもそもそれらのネットの批判記事を読んだことがない

これが大多数の会員にとって当てはまる理由です。事実、今迄私が話を聞いたことのある退会者の体験談は、「ネットの批判は知らなかったけれど、あることをきっかけに批判記事を読んだら一気に親鸞会の間違いに気がついた」というものが多かったです。

そのことをよく知っている親鸞会は、ネットをそもそも見るなというと共に、ネットに書かれていることは「高森先生に悪意を持った人間が、その私怨を晴らすためにデタラメを書いている」とか「異安心だ」などとレッテル貼りをしたり、会員しか参加できない会合で「三願転入は間違いと言っているものがいるがとんでもない!!なぜなら『なぜ生きる2』にはこう書かれているからだ」と会員に教え込もうと躍起になっています。


しかし、そんな状況でも、ネットの批判記事を読みながら会員を続けている人が大多数ではないもののいます。例えば、弘宣局の講師部員や、隠れてネットの批判記事を読んでいる親友部、特専部、会員です。これらの人は、とてもよくネットの批判記事を読んでいます。ある意味私より熱心に読んでいる人もいることでしょう。そんな彼等が、それらの「親鸞会流三願転入は間違い」という批判記事を読みながら、会員を続けている理由は何でしょうか。それが、先に挙げた、2番目の理由です。

2.親鸞会で言う「求道」は、実際のところ「行」は無視した「信(または心)」だけを問題にしているから。

私自身振り返ってみると、親鸞会にいたころに「親鸞会流三願転入」を聞いて、「財施をしたから救われる」とか「○人入会させたら救われる」と本気で思ったことはありません。それは、親鸞会ではことあるごとに「自力で救われるのではない。もしそうなら諸行往生だ」と聞いていたからです。しかし、親鸞会で言う「19願の勧め」の実態は、「財施せよ」「人を集めよ」ですから、普通に考えると「○○しないと信仰が進まない」が正しいなら、「○○したら助かる」ということになり、諸行往生となります。

これは、親鸞会批判意見の主なものです。それにも関われず、主に弘宣局を中心とした講師部員はそれに聞く耳を持ちません。それはなぜなのかと言えば、彼等にとっての「求道」は「行」が抜きでいきなり「信」が出てくるものだからです。


言葉をかえると、親鸞会の「求道」は「何かの行」ではなく「自分の心を如何に変化させるか」という観念の遊戯に過ぎないと言うことです。例えば、親鸞会でよくいう言い方に「自分が自惚れていることにも気がつかないから救われない」とか「自惚れ心が無くならないと救われない」と言います。また「自分が極悪深重の者と知らされないから」「雑毒の善しか出来ないものと(以下略)」などなど、あげればいくつも出てきます。


仮にそのことを続けていった結果「真実信心を獲得した」という人がいたらどうでしょう?それは、自分の力で自分の心を変えようとした結果「真実信心を獲得した」ということになります。そうなれば、自力の信心の延長でしかなく、他力の信心にはなりません。


もちろんそんなことは、親鸞会在籍のネットを見ている人も知っていることです。そこで、彼等が考えることは、「こうやって自分の心を追い込んでいけば、
『なにか』が起きて信心獲得するのだろう」ということです。実際、私はそのように考えていました。言い替えると、何かの「行の結果」獲られる信心は、自力の信心だから、「行ではないなにかによって獲られる信心でなければならない」ということです。


親鸞聖人は、その「行」は称名であり、南無阿弥陀仏といわれました。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(教行信証 行巻)

ところが、親鸞会の人にとって「称名」と聞くと、パブロフの犬の様に「称名=報恩」と脳内変換されてしまいます。手元に真宗聖典があっても、「称名=大行」と言われた親鸞聖人の御言葉を本能的に拒否してしまいます。


その結果「称名」という「大行」が

この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。(教行信証 行巻)

といわれていても「念仏は報恩に限る」と決めつけて、南無阿弥陀仏以外のなにかで、救われようとしているのが、ネットを見ながら親鸞会を離れない人の心だと思います。そういう意味で、彼等は、高森顕徹会長の話でなければ救われないとは本気で思っていないはずです。なぜならそれは「善知識だのみの異安心」になるからです。

結論 異安心を避け続けた結果、「ある日突然救われることを待っている」の法体募りの変形が親鸞会会員の信心

親鸞会では、「異安心に落ちつく」ことがとても恐ろしいことだとことさら強調されます。大体は、退会者、除名者は「異安心になったがために親鸞会を退いた」というストーリーができ上がっています。そのため、現役会員は「異安心に落ちつく→親鸞会を退く→地獄」という図式が頭の中に描かれています。


その結果「念仏して助かる者は、『称名正因の異安心』だからダメ」「喜んだのが信心と言うのは『歓喜勝因の異安心』でダメ」「機責めにして助かったと思うのは『三業帰命(又は土蔵秘事)』だからダメ」としてしまっているのが親鸞会です。その結果、「結局なにをしても(思っても)異安心」という構図が親鸞会会員の頭には浮かんできます。とはいえ、なにもしないのは「無力信心」だと親鸞会では戒められます。


その結果、「なにをしてもダメならば、今の状態を続けたほうが『悪くはならない』」と思っているのが多くの親鸞会会員の心ではないかは思います。


しかし、ここで親鸞会の会員でこの エントリーを読まれた方によく考えて頂きたいと思います。貴方がそうやって、自分の心と向き合って何年経ったのでしょうか?何かその間心が変化したでしょうか?それでも、「自分は臨終までにはなんとかなる」と漠然と思っているのはなぜでしょうか?「阿弥陀仏が本願を建てられて、成就されたのだからなんとかしてくれるはず」というのは「法体募り」です。


仮に10年、全く心が変化しなかったとして、あと何年経ったら「ガラッ」と心が変わるのでしょうか?

親鸞聖人は、

もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。(教行信証 総序)

と言われています。

行とは、称名(念仏)です。阿弥陀仏の称名を受け入れたのが「信」ですから、別々のものではありません。

私の心がガラッと変わることがあるとすれば、それは自分の心を見つめたからではなく、南無阿弥陀仏の「お前を助ける」行を受け入れたことです。

その意味で、「自分の心を追いつめよ」という親鸞会流三願転入は間違いです。なぜなら、そうやって自分の心をどうにかして救われると思うのが観念の遊戯だからです。