この記事について
前回の記事に関連して書きます。
「宿善論争」以後、親鸞会が現在まで強調しているのが「三願転入」です。
もちろん「三願転入のご文」自体は、親鸞聖人が書かれたものです。しかし、解釈が親鸞会独自のものを加えているために、会員はそれによってゴールのない道を走らされているような状態です。
これまでもネット上で「親鸞会の三願転入」がどうおかしいかについては、以前からネットでまとめられています。
sinrankaix.exblog.jp
しかし、今でも親鸞会会員はこういうネット情報を読まない人が多いです。また、親鸞会を脱会した人でもこの「親鸞会の三願転入」に悩まされている人もいます。
そこでこの記事は、あまりご文を出さない形式で「親鸞会の三願転入」について書きます。
「宿善」「三願転入」など言葉は変えていても親鸞会教義における救済観は変わりません。それは、いわゆる「縦の線と横の線」の図です。
高森顕徹会長が以前、「親鸞会結成以来、この図を板書しなかったことはない」というくらい、以前はいつもこの図を書いていました。
これは、「時系列」という意味では間違いではありません。生まれた時から救われていたという人はいないので、仏教と出会った時があり、聞き続ける時期もあり、信心決定したという時もあります。
親鸞聖人で言えば、9歳で出家をされて、比叡山で修行を20年されて、山を降りられてから法然聖人に出会われて救われたというようなものです。一人の人間を年表に置けば、縦の線と横の線のように表現することができます。
「時系列」の図に三願転入を合体させると何がおかしくなるのか
前述の「縦の線と横の線」に、三願転入のご文を合体させて話をするのが、「親鸞会の三願転入」の特徴です。
イメージとしてはこのようなものです。
図の右端の「会員」が、3両ある車両の、先頭車両(1号車)に行くためには、2号車、3号車を通過しないと行く事はできません。
従って、3号車(19願)にまだ乗っていない人は、必ず3号車(19願)を通って、2号車(20願)を通過しないと、先頭車両の1号車(18願)には出られないというものです。
しかし、三願の関係というのは、このような連結された電車のようなものではありません。直線上に三願があるのではなく、並列の関係にあります。そこが、
親鸞会の三願転入がおかしくなる原因です。
「親鸞会教学聖典」での「三願」の関係
三願が並列の並びというのは、
親鸞会の教学
聖典にも書かれています。
旧テキストでは、六三法門として出題されていたものが、改定後上記の形になりました。上記のテキストでも、三願は平行線の形で書かれています。連結はしていません。
基本的に、三願については、その願の「行」「信」によって「往生」が変わります。
変わる点
十九願は、「修諸功徳」の「行」と「至心発願」の「信」によって「双樹林下往生」します。
二十願は、「植諸徳本」の「行」と「至心回向」の「信」によって「難思往生」します。
十八願は、「至心
信楽」の「信」と「乃至十念」の「行」によって「難思議往生」します。
これについては、
親鸞会の教学
聖典に書かれている「三願転入のご文」にも書かれています。
三願の関係を図示するとこうなる
したがって、19願の電車に乗っている人は、前の先頭車両を目指して進んでも、この電車は「双樹林下往生」行きとなっているので、20願には出られません。20願の電車に乗っている人は、ひらすら頑張っても「難思往生」行きなので、18願には出られません。
乗る電車で行き先は異なる
丁度、
ターミナル駅でどの線に乗るかで行き先が変わるようなものです。新幹線で東京駅から博多に行きたい場合は、「のぞみ」に乗ります。「こまち」に乗れば秋田に行きますし、「かがやき」に乗れば金沢に行きます。
親鸞会が「まず19願から入らなければ」「19願を通らなければ20願に出られない」と行っているのは、「博多」に行きたい人に、まずは「こまち」に乗りなさいと勧めているようなものです。または「こまち」に乗らなければ「かがやき」に乗れないと言っているようなものです。
19願は「通るもの」ではなく「出る・離れる」
図に示しましたように、三願は図のような関係になっているので、時系列上に直線でならべるのは間違いです。
19願は、どれだけ頑張ってもゴールは「双樹林下往生」です。「難思議往生」にはなりません。
ですから、
親鸞聖人は19願は「出て・離れた」と言われています。電車で言えば、電車を降りて乗り換えたということです。
19願のホームで18願の列車を待つのが親鸞会会員
親鸞会が会員に言っている事は、18願ホームにすでに待っている電車があるにもかかわらず、まずは19願ホームから19願の電車に乗りなさいと勧めているようなものです。
もし19願の電車に乗った人が「これは難思議往生ではない」と気付いたら、その電車を降りて正しいホームに乗り換えます。
ですから、
親鸞聖人は19願の人には「そこを出なさい」「離れなさい」と勧めておられます。「19願を実行せよ」とはいわれていません。
時系列に並べるのは振り返ってみた時の話
親鸞聖人が三願転入の御文で書かれているのは、ご自身の名前を出して振り返ってみると、
阿弥陀仏の本願力によるものであったことを書かれたものです。
それを時系列でいえば、19願で誓われるような状態であったときもありましたし、20願の行者のような時もありました。そして今は18願に救われていることを書かれています。
ですから「時系列で並べるとそういうことがあった」ということを、「
親鸞聖人の御一代」として横の線を書く事はできます。
しかし、繰り返しになりますが、19願から20願というのは、19願と20願が連結した車両のような関係になっていないので、19願は「出て離れる」しかありません。それには「実行してから」という必要は全くありません。
18願の救いは、18願による
18願の救いを
親鸞会会員は求めています。それなら、18願通りに本願を信じ念仏申す以外にありません。
19願にいると思っている人は、速やかにそこを出て18願の
南無阿弥陀仏に救われて下さい。
19願の先にあるのは、20願でも18願でもなく双樹林下往生です。