宗教法人浄土真宗親鸞会(高森顕徹会長)の機関誌「顕真」平成27年7月号を読みました。
現在顕真では「三願転入を非難する外道より浅ましき輩を破る」という連載記事が掲載されています。今回の7月号で第6回になっています。
しかし、この特集のおかしなところは、「三願転入を非難する外道より浅ましき輩を破る」といいながら、その記事はすべて「なぜ生きる2」からの抜粋記事しかないところです。
なぜなら、「なぜ生きる2」に大々的に書かれた「親鸞会流三願転入」に対する批判が「三願転入を非難する外道より浅ましき輩」の意見だからです。すなわち、「なぜ生きる2」の内容に対する批判に「なぜ生きる2」の文章をそのまま載せてもなんの意味もありません。批判する側から言えば、今回載せた文章がそもそもおかしいと言っているのだと言えばそれで話は終わります。
今回は、
【問】「19願は、善を捨てさせるための願」だと言う人がいますが、親鸞聖人はどう教えておられるのでしょうか。
【答】「なぜ生きる2」では193ページから、次のように解説して下さっています。
という内容でした。しかし、回答は「なぜ生きる2」P193以降からの引用で他にはなにもありませんでした。
「なぜ生きる2」については、他の方もいろいろ書かれているので、今回は、顕真の中にあった以下の文章について書きます。
ここでは「教」と「仏語」にしたがうことが強調されています。しかし、親鸞会に於いては「教と仏語」は「親鸞会流三願転入を勧め」です。言葉をかえれば「善の勧め」です。
身を挺する実行こそが、因果の道理の肝心を信知するのである。
弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。(顕真平成27年7月号 「なぜ生きる2」より抜粋)
しかし、親鸞聖人はこの釈迦の「教」について、以下のように言われています。
親鸞聖人の教えられた「教」は大無量寿経です。
そこで、その大無量寿経に説かれている「教」とは何かについて、以下のように言われています。
ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。
(現代語版)
ですからこの経典は、阿弥陀如来の本願(第十八願)のいわれを説くことを肝要としている経であり、それはすなわち南無阿弥陀仏が経の本体であるということを顕しています。
阿弥陀仏の第十八願が、大経の「宗致」であり、南無阿弥陀仏が大経の「体」であるといわれています。ですから、釈迦の「教」とは、第十八願であり、南無阿弥陀仏です。また、「仏語」は諸仏の言葉という意味ですから、諸仏が称賛するするところの南無阿弥陀仏です。
そこで、上記の高森会長の作文に当てはめるとこうなります。
「教(第十八願)」も「仏語(南無阿弥陀仏)」も聞かずして、
「教(第十八願)」と「仏語(南無阿弥陀仏)」にしたがえようか。
「教(第十八願)」と「仏語(南無阿弥陀仏)」に従わずして
「教(第十八願)」に相応できようか。
「教(第十八願)」に相応しない「利他の信楽」はあり得ない。
教(第十八願)を鮮明にしなければならない。
この「教と仏語と本願と」という文章そのものは、上記の様に読む分にはさして問題はありません。しかし、そんな文章をこの顕真では「なぜ生きる2」の中から、「釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであった」等の文章のあとに書いてあるのは意味が全くわかりません。なぜなら、なぜ生きる2の文章を丸々否定する内容の文章だからです。
もっとも、この顕真を発行している親鸞会弘宣局のみなさんにとっては、この「教」は第十九願であり、「仏語」は第二十願だと確信した上での載せているのでしょう。ただ、「顕真」と名乗る以上は、少なくとも和讃の意味くらいは知った上で冊子を発行するべきだと思います。
また、この「教と仏語と本願と」によれば、「教(第十八願)」も「仏語(南無阿弥陀仏)」も聞かず、従わず、廃悪修善にまい進する親鸞会会員が、いつまでたっても「願に相応」も「利他の信楽」もあり得ないのは至極当然のことです。
今回の顕真の「三願転入を非難する外道より浅ましき輩を破る」は、高森会長自身の「教と仏語と本願と」で、「三願転入を非難する外道より浅ましき輩」を破るどころか、「なぜ生きる2」自身の間違いを破るという、特大ブーメランが親鸞会自身に返ってくる場面を紙面を通じて見せてくれた楽しい記事でした。
追記
実際の顕真の該当個所はこのような感じです。
(顕真平成27年7月号P37 「三願転入を非難する外道より浅ましき輩を破る」より)