親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「阿弥陀仏の本願に、真実と方便とがあると、親鸞様はお示しになっておられます。具体的には十九願と二十願ですが、もしこの願がなければ私たちは迷うことはなかったのではないか?」(Peing質問箱より)

質問箱に頂いたものですが、内容を判断して安心問答ではなく、こちらに記事を書きます。

Peing-質問箱-より

質問箱には以下のように書きました。

19願、20願で迷うというのは、私に関して言えば親鸞会で「19願を通らねば救われないので、まず善を実行せよ」と教えられたことにあたると思います。しかし、これは阿弥陀仏が19願、20願を建てられたことによってではなく、それを会の都合のように教えた会の側によることです。
阿弥陀仏四十八願に不要なものはありません。
ただ、親鸞聖人が方便願といわれた際は、「その願をまず実行してからだ」ではなく、「そういわねば分からない人のために仮に建てるが、必ず捨てるもの」という意味でいわれたものです。
方便とはどういうものか、という味わいについては、親鸞聖人がどのように見ていかれたかということによって見るしかありません。
その意味では、親鸞聖人は「19願、20願は必須だからみんな実行するように」とは教えておられません。

https://peing.net/ja/q/86510471-a0a2-43f2-9b6e-35ac0fe8181a

これに加えて書きます。

親鸞会では、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」「三願転入しなければアリ一匹助からない」と聞いてきました。
その前提をもって、十九願文を説明をされると、「修諸功徳とあるから善をしなければならない」と思うのは無理もない話だと思います。

なぜなら、本願文にしろ、高僧方の書かれたものにしろ、後世の私たちからするといろいろと解釈できるからです。

例えば、阿弥陀仏の本願についても、かつての聖道仏教の学者は、「十九願こそ本願である」と主調する人がいました。その理由は、「阿弥陀仏が直接来迎される願なのだからこれこそ本願である」というものです。確かに、その理屈を言えば、四十八願の中で中心となるのは十九願ということになります。

そのように、特にお経に関して言えば、さまざまな解釈は可能です。
現代の私たちは、文字も読める人がほとんどです。また、親鸞会に入会して教学試験を受けるような人は勉強熱心なので、文字を読んでその意味を理解しようとしますし、またできると思っています。
そこで、親鸞会でいうところの「三願転入しなければアリ一匹助からない」の話を聞くと、「納得」をしてそういうものだと思ってしまいます。


ネット上では、親鸞会が主張する「三願転入しなければアリ一匹助からない」に対する批判には、すでに膨大なテキストが存在するのでそれについては今回は詳しくは書きません。

「三願転入のご文」はどういう文脈で書かれているのか?

大ざっぱに書きますと、「三願転入のご文」は、教行証文類の中の化身土文類に出てきます。
そのなかで、「十九願こそ本願」「二十願こそ本願」というような気持ちでいる人に対して「それは阿弥陀仏の本意ではないし、それでは報土往生はできない」と厳しく書かれています。
そうして批判された後に書かれたのが「三願転入のご文」です。
ご自身のこととして「十九願こそ本願」とか「二十願こそ本願」と思っていたけれども、それを離れて十八願に転入したのだと書かれています。

ここの記事を読まれている元会員、現役会員の中でもいろいろと思う事のある人に当てはめていえば、「親鸞会が正しいと思っていたけれども、そこを離れて十八願に転入したのだ」というようなものです。

そういう人が、「私は親鸞会を縁として浄土真宗の教えに出会いました。いろいろあって親鸞会を離れた後、十八願に転入しました。だから皆さん!まずは親鸞会に入会して、必死に活動してください!!」と言うでしょうか?

確かに、「親鸞会がなかったら私は真宗に出会う事はなかった」という方は多くおられると思います。だからと言って、人に親鸞会入会を勧めるかといえば話は変わってきます。
そう思う人は、「親鸞会でいろいろといやな思いをしてきた」「とどのつまり親鸞会教義では救われなかった」と思っておられるからだと思います。

十九願、二十願は必須なのか?

お尋ねの中にある

またこの願を悲願と味わっておられる親鸞様のことを思うと、やはり必須であったということでしょうか?

について書きます。

親鸞会にいた私からすれば、「十九願、二十願」は「悲願」であり「必須」ということはできます。しかし、それはそれをしなければ助からないという意味ではありません。自分の過去を振り返ればそういう時があってということです。ただ、みんなに「親鸞会に入って、十九願から二十願の道を進もう」と勧めることはありません。
なぜ勧めないのかといえば、「十九願、二十願では絶対に絶対に報土往生はできないから」です。

「自分は苦労したから、貴方も苦労しなさい」という人は、決して多くはありません。親鸞聖人も、「私の仏道比叡山から始まった。だからみんな出家しなさい」とは勧めておられません。したがって、すべての人にとって「十九願、二十願」は「必須」ではないということです。


明日も知れない命の解決を求める人なら、なおさら「親鸞会に入ってまずは因果の道理を聞いて、それから云々」とはならないでしょう。

「必須」なのは、十八願であり、南無阿弥陀仏であって、私の苦労ではありません。ただ今助ける南無阿弥陀仏に、ただ今救われて下さい。