親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

会と会員の代替わり問題が表面化してきた親鸞会(顕正新聞2022年07月15日号より)

顕正新聞2022年07月15日号1面

親鸞会機関紙・顕正新聞2022年07月15日号を読みました。

以下、思った事を書きます。

1面は、上記に画像で紹介した会員追悼法要の案内です。追悼法要は毎年行われていますが、今回の記事は台湾の親鸞会を支えてきた会員が相次いで亡くなられたことが紹介されていました。それぞれ享年101歳と92歳だったとのことです。

また、追悼法要の前には毎年「追悼抄」の記事も掲載されます。

顕正新聞2022年07月15日号6面

過去1年間の間に亡くなった、長年親鸞会で幹部として活動をしていた会員の紹介記事です。
今回は、石川青年部が富山から独立した際の初代リーダーを務め、その後も石川県で長く活動された会員と、岐阜県で副支部長を長くされていた方が紹介されていました。

この追悼抄は、10年以上前から毎年掲載されていますが、多くの会員にとって顔を知られているような幹部会員がどんどん亡くなられていることがよく分かります。

親鸞会も、1958年(昭和33年)結成してより、今年で64年になります。発足以来から昭和、平成と親鸞会を支えてきた活動会員も多くはこの世を去られるか、高齢となりました。
高森顕徹会長も実質引退状態となり、会の代表も、会員も代替わりが進んできています。


最近は、報道で新宗教の二世問題が取り上げられていますが、親鸞会にももちろんその問題はあります。ただ、親鸞会を運営する側としては、会と会員の代替わり問題の方が深刻です。

「善知識との出逢い」を強調

(同 4面)

かつて親鸞会高森顕徹会長を「唯一の善知識」として、その「善知識と出逢う」ことの有り難さを強調していました。弁論大会や体験発表も、最後は「高森先生有り難うございました。今後もご教導よろしくおねがいします。」で締めくくられるのが定型文となっていました。


親鸞会は「会いに行ける善知識」を標榜する団体でしたが、その「善知識」も実質引退状態となり、「次の善知識は誰か?」の問題が現実味を帯びて来ました。

会員の意識の変化

今回の1面や追悼抄に紹介されているような会員は、高森顕徹会長を善知識と仰いで、親鸞会の活動にも熱心に参加していました。
しかし、ここ数年で親鸞会に入会した会員、元会員の方に聞くと「高森顕徹会長」といっても、過去のビデオ法話に出てくる先生というくらいで「善知識」という感覚はありません。しかも会いに行けません。

以前の会員は、「善知識から直接聞いている」ということが心理的な保険となり、「聞いていけばいつかは自分も救われる」という漠然とした期待がありました。しかし、ここ最近のビデオの高森顕徹会長しかしらない人からすれば、「本当に救われるのかどうか」はより現実的であり、「この会にいればいつかは」という期待感はありません。

救われないのは会員の責任? 今回の論説より

www.shinrankai.or.jp
一部表現は変えてありますが、全文は公式サイトに掲載されています。

気になる部分を引用します。

では、どうすれば大船に乗せていただけるのでしょうか。釈迦も親鸞聖人も、「大船を造られた弥陀の御心(本願)を聞く一つ」と教示されています。

ですが悲しいことに、真剣に聞法しようとすればするほど、気づかされるのは真剣になれない心です。
(略)
「今日こそ大船に乗せていただこう」と、解決を急ぐ心がないのです。

視界に入るのは生きがいの丸太だけで、大船を見る眼がないから、乗りたいとすら思っていないのが実態です。(顕正新聞2022年7月15日号 論説)

二千畳での講師の法話が始まったそうですが、今後はこのような内容が増えるのではないかと予想します。
「真剣になれない私」「聞く気持ちがない私」そこを強調すれば、なぜ会員が救われないのかの責任は、会員の側になってしまいます。

本当は、会員に向けて説く側が、説くべきことを説かないことが一番の原因です。どれだけ真剣に聞こうとしても、聞くべきことがない話はどれだけ聞いても救われません。

代替わりによる影響

これまでは「善知識から聞いている」ということが、会員を留めていましたが、前述したように最近の代替わりした会員にはそれは通用しません。また、古くからいる会員も、高森顕徹会長の引退が正式に発表されれば、善知識になれそうな講師が居ないことは一番よく知っているので留まる理由はないでしょう。

それでも会の行く末を見届けたいという方は別として、自身の後生を真面目に考える方はそろそろ真剣に考える時です。