親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会会員は何を目指しているのか?を考える。後生の一大事の解決から、よき求道者への変遷

このブログを読まれている方なら、すでに御存知のことですが、宗教法人浄土真宗親鸞会(会長:高森顕徹氏)の教義に対して、主に退会者から「それは親鸞聖人のみ教えと違う!」という批判が幾度と出ています。それに対して、親鸞会の講師部員と思われる人や、親鸞会会員と思われる人の反論が、「飛雲」や「さよなら親鸞会」のコメント欄に出てきます。
それを読んでいて思うことは、主に親鸞会を批判する側がどれだけ御聖教の根拠をあげても、親鸞会の講師(会員)は全くそれに対してまともに反論もしなければ、理解もしていないようです。いわゆる議論が全くかみ合わない状態です。

それは一体何によって起こるのかを考えて見ました。
その大きな原因の一つが、退会者がいう「真宗の目的」と親鸞会の人が言う「親鸞会会員を続ける目的」が異なるからです。

浄土真宗阿弥陀仏の本願)の目的

浄土真宗阿弥陀仏の十八願)の目的は、すべての人を浄土に往生させ仏にする(成仏)です。「信心決定」は、そのための「手段」です。親鸞会の人になじみの深い因果の言い方でいうと、成仏は「結果(果)」であり、信心決定は「原因(因)」となります。すなわち、親鸞会で言う「目的」でいうならば、「成仏」こそが「目的」であり、「信心決定」はその「手段」です。

目的と手段は逆転しがち

当初の目的があったとしても、その目的達成を目指していたはずが、目的達成のための手段が、そのうち目的化してしまうことがよくあります。例えば、会社を設立したときは、「みなさんの暮らしをよくしたい」ということを目的としていたところが、会社を存続するためにはお金が必要だということで、いつの間にか利益を追い求めることが目的になってしまうようなものです。

親鸞会における目的と手段の逆転

私が親鸞会に入会した平成5年のころは、常に「原点の確認」というのが、会合で常に行われていました。「原点の確認」とは、自分がなぜ親鸞会で話を聞いているのかという目的の確認をお互いにするというものです。当時は「後生の一大事の解決」が、聞法の原点として、会合で確認をしていました。
「後生の一大事の解決」を「目的」とすると「信心決定」はその「手段」ということになります。ところが、その「信心決定」が、何年も親鸞会にいると、それが「とても難しいこと」であり、「それ一つに集中しなければならないこと」になってきます。そうなると、いつの間にか「後生の一大事の解決」から「信心決定すること」が、親鸞会会員の目的になってきます。ここで目的と手段が逆転する状態になります。

ところが、それでは終わらないのが親鸞会会員の心情です。
「信心決定すること」を目的としたとき、その手段が「親鸞会的三願転入を進むこと」になります。ところが、「親鸞会的三願転入を進むこと」がとても困難なこととなると、その手段である「親鸞会的三願転入を進むこと」が目的となります。具体的に言えば、19願の道を進むことが目的となります。


ところが、親鸞会のなかでいう「19願を進む」とは、「修諸功徳」の道です。あるいは「悪しか出来ない自分を知らされる道」であり、「自惚れ心を打ち砕かれるまで善をする道」です。それが目的化した場合、言い替えると、親鸞会会員の目的は「よき求道者になること」になります。その「よき求道者になる目的」を果たすための「手段」が、親鸞会が提供する「求道メニューを実行すること」となります。

「よき求道者になりたい人」に「ただ今救う本願」は気に合わない

そうなると、親鸞会会員の人にとって「よき求道者になる」ことが、目的なのですから、退会者が「はやく阿弥陀仏に救われてください」と言っても、話が噛みあうはずもありません。そのことからも、親鸞会会員の考えは、言い換えれば「よき求道者にならなければ救われない」というものです。口では否定しても、そのような気持ちがあるからこそ、伝統教団や退会者に救われたと言う人がいることを全否定するのではないでしょうか。

阿弥陀仏は「よき求道者になれない人」を哀れに思われて本願を建てられました。「よき求道者になれない私」によりそい、そんなお前を救うという本願が南無阿弥陀仏となりました。その南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われて下さい。