前回のエントリーで、現在親鸞会は機関誌の顕真で「親鸞会流三願転入」をなんとか正当化しようと頑張っていることを書きました。
現在問題にしている部分は、前回のエントリーから再度引用すると以下のものです。
【問】「十九願は方便だから要らない。十八願だけでよい」という人がいますが、親鸞聖人はどう教えておられるのでしょうか?(顕真2015年3月号より)
この論点は、わかりやすく言えば、方便は必要か、不要かということです。
- 親鸞会……方便必要
- 批判者……方便不要
しかし、前回のエントリーにも書きましたが、「方便」には二通りのものがあり、この言葉だけで親鸞会の人と議論をしても話しがなかなか進みません。
そこで別の言葉で言い換えると、
私が阿弥陀仏の救いにただ今あうために、親鸞会流にいえば
- 親鸞会……19願を通らねばならない
- 批判者……19願を通る必要はない
となります。
三願転入のご文が親鸞聖人の書かれたものだからといって
「親鸞聖人が19願を通られたかどうか」と、
「親鸞聖人が19願を通れと私たちに勧められたかどうか」は全くの別問題です。
にもかかわらず、親鸞会では「親鸞聖人が通られた道」と「親鸞聖人が勧められた道」を混同して話をします。
一例をあげれば、親鸞聖人は出家して比叡山に入られました。これは、親鸞聖人が通られた道です。しかし、親鸞会で「親鸞聖人が歩まれた道だから、みんな比叡山に入らねばならない」とは言いません。それは、親鸞聖人が聖道仏教を離れて、直ちに浄土仏教、阿弥陀仏の救いにあいなさいと勧められているからです。
(16)
自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき
(29)
像法のときの智人も
自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば
念仏門にぞいりたまふ
(正像末和讃)
親鸞聖人は「ご自身が通られた道」としては、聖道仏教のご修業から、法然聖人より浄土仏教に入られ阿弥陀仏の救いに遇われました。そして、親鸞聖人が「私たちに勧められた道」としては、聖道仏教に入っている人には、「聖道仏教を早く出て、浄土仏教に入りなさい」と勧められ、聖道仏教に入っていない人には「浄土仏教に入りなさい」「阿弥陀仏の救いに遇いなさい」と勧められています。
親鸞聖人が「ご自身で通られた道」が、阿弥陀仏に救われるに最短の道だったならば、「自分の通った道を進みなさい」と教えられるはずです。しかし、親鸞聖人は「ご自身が通られた道」を「通ってはならない」と教えられ、「19願の行者は、早くそこを離れなさい」「自力念仏の人は、はやく他力になりなさい」「南無阿弥陀仏にただ今救われなさい」と、第18願の救いを勧められています。
最近の顕真でよく出てくる高森会長の歌に
善知識 なぜか記さぬ 体験談
というのがあります。
また、平成27年4月号の顕真には、以下の記事もありました。
高森会長の意図するところは、獲信体験を語る人間は、信用するなということでしょう。とはいえ、親鸞会では、この「三願転入の御文」を「親鸞聖人の体験告白」だと何度も言っています。
そんな「体験告白」を親鸞聖人はなぜ書かれたのでしょうか?
考えて見ると、自分の体験談を話す場合は2つあります。一つは、成功体験の自慢です。もう一つは、失敗体験を通して「同じ石でつまずくな」という教える場合です。
後者の例を挙げると、最近テレビ番組で「しくじり先生 俺みたいになるな!!」というのを見ました。数々の著名人が、自分の過去の失敗体験を赤裸々に語り、その都度、自分で学んだことをとおして「俺みたいになるな」と訴えるものです。
www.tv-asahi.co.jp
www.youtube.com
親鸞聖人の三願転入の御文を「体験談」とするなら、この番組のような失敗体験です。もちろん、全ては阿弥陀仏お計らいであり、「聖道仏教に入らなきゃよかった」「19願に入らなきゃよかった」と言われている訳でもなく、阿弥陀仏に救われたことが「成功体験」だと自慢されているものでもありません。しかし、かつての自分と同じように19願にとどまっている人に向けて、「早くそこを出よ」と言われたものです。そういう意味では、前述の「俺みたいになるな!!」が、三願転入を書かれた意図です。
その意図は、三願転入の御文を、原典で読むとよりはっきりします。
親鸞聖人が19願を勧められたか、勧められなかったかわかると思いますので紹介します。
久出万行諸善之仮門
永離双樹林下之往生。
久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。
「久出」、「永離」と親鸞聖人が言われているのが、19願です。もっと端的に言えば「19願を出よ」「離れよ」と言われています。
それにもかかわらず、高森会長は「親鸞聖人が通られた道だから、全人類は通らねばならない」と主張しています。それでも、先に書きましたが親鸞会では「比叡山に入れ」とは言いません、「善をしろ」と強調します。親鸞会にとって都合のいいことは勧め、それ以外は親鸞聖人のお言葉を利用して「比叡山に入る必要はない」と言っているに過ぎません。
確かに、親鸞聖人のように生涯本願念仏を伝え続けられた道を、「親鸞聖人の通られた道を歩もう」と勧めるのなら、理解も出来ます。しかし、この場合は「親鸞聖人が通るな」と私たちに教えられた道です。つまり、19願は通るな、19願にいる人はそこを出なさい、離れなさいと勧められているのが三願転入の御文です。
こう聞くと「19願を離れるといってもどうしたらいいのか?」と思われるかもしれません。「19願を出る、離れる」とは、横の線を進んでいくことではありません。「この道進んだら信仰が進む」とか」「救いに近づく」という思いも、行もみな捨てて、第十八願に入ることです。
それでも19願は全ての人が通らねばならないと思われる親鸞会会員の方は、もう一度三願転入の御文を「なぜ生きる2」を通さずに読んでみて下さい。親鸞聖人の御心がわかれば疑問は解けると思います。