親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

(書評)「運命を切り開く因果の法則」(伊藤健太郎著)ー「善に努めることだけが救済の道」とのプラトンの言葉で、親鸞会的三願転入へ導く本

宗教法人浄土真宗親鸞会講師でもあり、「なぜ生きる」(高森顕徹監修_浄土真宗親鸞会会長)の著者のでもある伊藤健太郎氏の新刊「運命を切り開く因果の法則」の内容についての感想です。(2回目)

運命を切り開く因果の法則

運命を切り開く因果の法則

前回のエントリーでも書きましたが、この本の内容は一言で言えば「善の勧め」です。これが親鸞会のように、ただ今阿弥陀仏に救われることに関係づけなければ特に私がとやかくいう内容ではありません。


とはいえ、現在の親鸞会で行われる話の多くが因果の道理であり、それが「親鸞会でいう三願転入」とからめて会員にお布施や人集めの口実に使われているのが現状です。そのため、このエントリーは、親鸞会がこの本を通して会員に何を伝えようとしているのかを書いて行きます。

善人であれの強調(カント)

P71
しょせん人間の価値判断など、偏ったものですから、他人の目でなく道理を相手にして、堅実な努力(因)を続けることが肝要でしょう。

P94
道理は常に、善人に味方するのです。

回りの意見に耳を貸さずに、とにかくタネを蒔き続けなさい、善人になりなさいと、親鸞会は会員に強調します。
しかし、親鸞会の中での「善人」とは、会のいうことに無条件で従い、与えられた活動目標を達成する人のことです。そういう意味では、親鸞会は、「親鸞会にとっての善人」には常に味方します。しかし、親鸞会にとっての善人でない人には、とても冷たいところです。

「善人であれ」ということ自体に、異論を唱える人はいないと思います。とはいえ、この本では、「善の勧め」を強調する内容になると、突然哲学者の言葉に変わるのが特徴です。

P96
善い行いは長い時間の中で報われて、ついには最高の善人が幸福になると、カントは主張します。(略)
それと同じで、善をすれば幸福になると信じなかったら、善に努めようという気持ちは起きません。では、善人は必ずこの世で幸せになれるかといえば、そんな保証もありません。だから来世は“なければならない”と論ずるのが、カントの道徳哲学です。

プラトン「善に努めることだけが、本当の私を守り、救済する道」

P238
 財や名声は、私の「身体」を楽しませてくれますが、それは命ある間だけのことです。臨終には、全て置いていかなければ鳴りません。プラトンは、善に努めることだけが、本当の私を守り、救済する道だと訴えました。

特に上記のプラトンの言葉は特徴的です。飽くまでも「善に努めることだけが救済の道」と主張したのはプラトンです。お釈迦さまではありません。

それを、お釈迦さまのお言葉を挟みつつ、紹介するのですから、こういうように会員に親鸞会では親鸞聖人の教えをミスリードして言っているのがよく解ります。

ちなみに、上記のプラトンの言葉の少し後には、このようにお釈迦さまのお言葉が紹介されています。

p243
この因果の道理に従い、悪を慎み善に向かうことが、自分を守ることになるとブッダは説いています。
ーー
道理を実践する人を、つねに道理が守る。大雨が降るときに傘が守ってくれるようなものである。(中略)道理をよく実践すると、幸せを受ける。(「ウダーナヴァルガ」)
ーー

細かいことですが、ブッダは「この因果の道理に従い、悪を慎み善に向かうことが、自分を守ることになる」とは書いてありますが、「この因果の道理に従い、悪を慎み善に向かうことだけが、自分を守ることになる」とは書いていません。ところが、常日ごろ因果の道理しか聞いていない親鸞会会員は「ブッダはこの因果の道理に従い、悪を慎み善に向かうことだけが、自分を守ることになる」と理解をし、親鸞会でいう三願転入を受け入れて、自分の中でそれを間違いないものとしていきます。


親鸞聖人は、お釈迦さまの教えは、そのような善を勧めそれを実行することによってさとりを開くものだけではなく、阿弥陀仏の本願によって救われる浄土門の教えがあると教えて行かれました。その阿弥陀仏の本願、十八願一つで救われる、南無阿弥陀仏の本願念仏の救いを明らかにしていかれました。

P252
 それら善すべてを、六つにブッダがまとめたものを、「六波羅蜜」とか「六度万行」といわれます。
(略)
人生の苦海を渡し、本当の幸福に至る六つの道を教えられたのが「六波羅蜜」です。
 その六つを、順番に説明しましょう。

親鸞聖人「弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」

難度海を度する大船を、難思の弘誓と言われたのが親鸞聖人です。生死の苦海をわたすのは、六度万行だけではありません。

(7)
生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしづめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける
(高僧和讃)

生死に久しく沈んでいる、私のような凡夫にとっては「弥陀弘誓の舟のみ」が、渡してくださる舟なのです。それでも、六度万行が必要だと思われるでしょうか?ただ今の救いには、弥陀弘誓の舟のみであるということをよく聞いて下さい。