親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会会員がなぜ信心決定を半ば諦めているか。その心情がとてもよく書かれてる顕正新聞平成29年2月1日号論説を読んで思ったこと。

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親鸞会機関紙の顕正新聞平成29年2月1日号を読みました。
今回は、そのなかの論説について書きます。

顕正新聞の「論説」は、一般紙における「社説」のようなものです。その時々の親鸞会の公式見解を書く欄と成っています。とはいえ、ほとんどが最近の高森顕徹会長の話の要約です。しかし、今回は珍しくネット上の批判に対しての反論をしていました。

そのネット上の批判は、おそらく以下のものだと思われます。
hiun.cocolog-nifty.com

これに対して、高森顕徹会長が話をしたことを、まとめたのが今回の論説です。
今回に関しては、全文を紹介したいと思います。その理由は、批判を受けてつい親鸞会会員の本音を書いたものと感じたからです。

では、以下に今回の論説を紹介します。

平成29年2月15日(水)顕正新聞3面 論説
如来(釈迦)、世に興出したまう所以は、唯、弥陀の本願海を説かんとなり」(正信偈
 釈迦一代の教えは「弥陀の本願」ただ一つと、親鸞聖人は断言されている。「弥陀の本願」とは、「すべての人を信楽にせずばおたぬ」という、阿弥陀仏の命を懸けられたお約束である。
 全人類を弥陀の誓われた「信楽」まで導くことが釈迦の唯一の使命であり、仏法を説かれた目的はこれ以外なかった。その「信楽」とは後生明るく楽しい、永久に変わらぬ大安心大満足の心であるが、今日の言葉でいえば「絶対の幸福」であり、相対的な人間の言葉で表しきれるものではない。 スイカの味でさえ、食べたことのない人には、「甘い」「みずみずしい」など、どれだけ単語を連ねたところで、分からせることは不可能だろう。まして、無量無限絶対の大宇宙の功徳を阿弥陀仏から全領した「信楽」を言葉で表現することなど、絶望の連続である。
 だが衆生を教導するには、「言葉」で伝える以外、手段はない。そこで釈迦が、「信楽」一つ分からせるために、こう言ったら分かろうか、こちらの面から説明しようか、別の角度から教えようかと苦心惨憺された結果、とうとう七千余巻の膨大な一切経となったのである。それでも大雄弁の釈迦自ら、百千万劫かかっても説き尽くすことができぬと告げられている。親鸞聖人は九十年の生涯、「信楽」一つ説かれるために、主著『教行信証』六巻をはじめ、幾多のお聖教を書き残された。筆の勢いは全く衰えず、最後の著作は八十六歳でのご制作だった。特に『教行信証』は終生、手元に置かれて推敲を重ねられたが、とどのつまりは、
「ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽なり」 (『教行信証』)
 心も言葉も絶えた「信楽」は、ただ不可説(説けない)と言うよりない。これが『教行信証』の結論だった。
 説けないならなぜ、善知識方は布教伝道に生涯を貫かれたのか。ある有名な先人は、「合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、きけば合点ゆく教え」と言っている。
 仏法は三世十方を貫く「因果の道理」に立脚しているから、古今東西すべての人が合点(納得)できる教えなのだ。だから求める者は、まず合点するまで、教法をよく聞くことが大事である。また説く者も、相手が納得するまで、説き続けなければならない。
 合点を通らず、教えがどちらに向いているか分からぬ者が、どうして信楽の決勝点まで進めようか。釈迦が生涯、因果の道理を説かれたのも、「不可説」の「信楽」まで導くためだったのである。
 だが「合点」は、あくまで教えを「知った」「覚えた」通過点であり、真実の信楽ではない。不可思議の顔力に値い、合点も納得も、自力は一切、往生に間に合わなかったと知らされ、「不思議不思議のほかはない」他力になるまで他力を聞き抜こう。

長々と書いてありますが、三行でまとめますと、こうなります。

  • 信楽は言葉で表せない。
  • だから、聞いても分からない。
  • 取り敢えず合点するまで頑張ろう(合点も出来ないけど)

です。

三行にまとめると、全く意味不明な文章になることがよく分かります。私もまとめてみて驚きました。しかし、この意味不明な文章こそ親鸞会会員の共通した本音なのです。

親鸞会に在籍したことのない方に説明しますと、親鸞会における「信心」はまさに今回の論説に書き尽くされているものです。といいますのは、親鸞会における「信心」または「信心決定した体験」は「言葉でいいあらわせないもの」であり「なってみないと絶対に分からないもの」とされています。そのため高森顕徹会長の話が、どれだけ「変なもの」であったとしても「言葉で言い表せないものを言われているのだから、信心決定していない私が分からないのは当然だ」と考えてしまいます。むしろ、理解出来ない話である程有り難いと感じるのが親鸞会会員です。

言い替えると、高森顕徹会長の話を聞かねば救われないのだけれども、お釈迦さまでさえ説き尽くせなかった事だから、聞いただけでは絶対に分からないのが「信楽」である。ということです。

ですから、「善知識高森顕徹会長の話を聞かねば信心決定できない」といいながら、「善知識高森顕徹会長でも説き尽くせないのが信心決定した世界だ」ということです。それにも関わらず合点せよとは全く意味がわかりません。なぜなら説いていないこと(聞いてないこと)を合点できる筈はないからです。

そうなると、仮に「善知識高森顕徹会長でも説き尽くせない信心決定した世界」に出た人がいたとしたら、どういう感想をまずいうでしょうか?ダチョウ倶楽部ではないですが「聞いてないよ〜〜!!!」となるのが普通です。なぜなら、「説き尽くせなかったこと(説いてないこと)」を体験するのですから、聞くがわからすると「聞いてないよ〜!!」というしかありません。


しかし、親鸞聖人は「聞いてないよ!!」とは云われていません。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序)
(現代文)
誠なる仰せではありませんか、私たちを摂め取って捨てぬとの真実の言葉、世にたぐいなき正法は。この真実の教えを、はからいなく聞き受けて、決して疑いためらってはなりません。

https://goo.gl/wmlHtK

親鸞聖人は「誠なるかな」といわれています。言い替えると「聞いてた」「聞いてた通りだった」ということです。


親鸞聖人の教えには「説かれてない秘密」はありません。
それはお釈迦さまの教えもそうだからです。お釈迦さまの教えには秘密はありません。

「アーナンダよ、修行僧たちは、私に何を期待するのか?私は内外の隔てなしに、ことごとく法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような、教師の握り拳は存在しない」(ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

お釈迦さまが、お弟子のアーナンダ(阿難尊者)にいわれたように、説かれなかったような秘密はありませんでした。

「世尊によってよく説かれた法は、現に経験されるものであり、即時にあらわれるものであり、いざ見よというものであり、(涅槃経に)導くものであり、それぞれ智者によって知らるべきものである。」(『長部経典』「大般涅槃経」)仏教と気づきより

ここで言われていることは、お釈迦さまの教えられたことは、誰にでも見ろといわれれば見ることが出来るものです。それを明らかにされたのがお釈迦さまだということです。ですから、仏教には師匠の握り拳のような秘密はないと仰っています。


親鸞聖人が明らかにされた信楽は、何かといえば「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」です。阿弥陀仏が、なぜ私を助けようとされたのか、またどうやって私を助けようとされているのか、南無阿弥陀仏一つで救うということは、親鸞会会員でも聞いていることです。それを聞いて疑い無いとは「南無阿弥陀仏で救って下さるとは本当でした」ということです。とても「聞いてないよ!」とはいえないことです。


今回の論説で分かる事は、「心も言葉も絶えた「信楽」は、ただ不可説(説けない)と言うよりない。これが『教行信証』の結論だった。(論説より)」とあるように、説けない(説いていない)ことが分かるのが信心だというのが、親鸞会でいう「信心」です。


補足の意味で言いますと、「不可称」とは「褒めることができない」という意味です。なぜなら、阿弥陀仏のことを本当に褒めることが出来るのは、仏でないと出来ないからです。人間には、仏の徳を本当の意味で知ることは出来ませんから、不可称と言われます。「不可説」とは、同様に仏でないと説くことは出来ないということです。「不可思議」とは、人間の分別を離れたことということです。


もちろんこれらのことを、正確に説くことはできません。ただ、「南無阿弥陀仏が救って下さる」ということは説くことができます。だから、親鸞聖人もそれを説き続けられました。親鸞聖人の師匠の法然聖人もそう説き続けられました。だから、親鸞聖人は「誠なるかな、摂取不捨の真言」と言われています。


摂取不捨の阿弥陀仏の仰せは、聞いた通りだったと言われています。決して「聞いてないよ!」ではありません。その意味で、お聖教に書かれていることは、全部そのままであって「秘密」は一切ありません。


親鸞会会員、「高森顕徹会長でも説き切れない何か」を聞く為に、毎回真剣に会長の話を聞いている訳ですが、そんなものはなにもありません。もしあるとするならば、それこそ高森顕徹会長が意図的に説いていない「教師の握り拳」ということになります。それは、浄土真宗では秘事法門といわれるものです。

真宗に秘密はありません。聞いたまま、説かれたままが、その通りと聞き入れるのが信心です。聞いてもいなかったことがある日なぜだか分かってビックリするような信心は、真宗では秘事法門といわれることはあっても真実信心とはいいません。