親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「雑行について、正直まだよくわかっていません。」「雑行は自力で簡単に捨てられるものですか?」(こねこさんのコメントより)

コメント欄に書くには長文になったので、エントリーとして書きます。書いているうちに返答が遅くなりました。こねこさんにはお詫びします。

こねこ

こんばんは。

いつも読ませてもらっています。
前から問題になってる雑行について、正直まだよくわかっていません。
飛雲さんは、雑行は自力で簡単に捨てれるって書いていました。
(五雑行ではなくって、往生の足しにする善も)
宮田さんもそう思われますか?


被害者

はて、なんで雑行が捨てられないのですかね?
会長だって言っているでしょ、
本願寺に行ったら、善は必要ない、念仏さえ称えていれば極楽に往けるといっている者ばかりだと。
本願寺では皆、雑行を捨ててるってことじゃないの?
なぜ会長の嘘をいつまでも信じているのかわからない。


こねこ

すみません。
結局、親鸞聖人がいわれた雑行を捨てよというのは、五雑行だけでなくすべて、聖道仏教をやめて、念仏の教えを聞きなさいってことなんですね。
本当にそうなら簡単、というか、僕ははじめから聖道仏教なんてやる気ありませんから、もう関係ない(すんだ)話ってことですか?

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2014/01/07/161152#comment-12921228815716213253

こねこさんの最初のコメント以降のものを読んでいると、最初のお尋ねの「雑行」の定義をどうしているのかということが大事です。

こねこさんは、「雑行」について、親鸞会での定義をもってきておられますが、一般にはどうなのかを以下、浄土真宗辞典から引用します。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

ぞうぎょう 雑行
正行に対する語。雑は邪雑、雑多の意味。本来はこの世のでさとりをひらくことをめざす聖道門の行である諸善万行を、往生行として転用したものであるから、このようにいう。その行体は無数にあるが、法然は『選択集』に『雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の正行を明かすべし』(七註1194)といい、五正行に対して、5種の雑行(五雑行)を挙げている(略)
→しょうぞう二行(正雑二行)

雑行とは、上記から要約しますと以下のようになります。

  1. 雑行=諸善万行を往生のための行として転用したもの
  2. 本来はたくさんある(雑多)が、五正行に対するものとして五雑行を挙げられている


こう書きますと、雑行は「自力の心でやる諸善ではないのか」と思われる親鸞会会員の方もあると思います。親鸞会高森顕徹会長)の話は、言葉の定義が曖昧かつ恣意的なので、鵜呑みにしないのが一番です。一端頭をリセットして、「雑行」の定義を読んでください。


そこで、次に、前段に引用した浄土真宗辞典より「五正行に対する五雑行」から「正行と雑行」の言葉の意味について引用します。

しょうぞうにぎょう 正雑二行
正行と雑行のこと。善導は『散善義』就行立信釈において、往生行を正行・雑行の二行に分判し、更に正行(五正行)の中、称名を「かの仏願に順ずるがゆゑ」(信巻引文・註221)との理由から正定業とし、読誦等の前三後一の行を助業と明かしている。
法然は(略)善導と同じく称名正定業義を明かすが、これをさらに選択本願念仏論へと展開している。法然は、阿弥陀仏がその本願において、余行を選び捨て、称名念仏のみを往生行として選び取ったとして、善導ではいまだ明確でなかった本願それ自体における選択廃立を明らかにした(略)(浄土真宗辞典より)

ここに書いてあることを要約しますと、以下のようになります。

  1. 正行=往生行(浄土往生するための行・五正行)
  2. 雑行=五正行以外の行(五雑行もふくむ諸善万行)
  3. 五正行の中でも称名正行(念仏)が、正定業。
  4. なぜ称名正行(念仏)が、正定業(正しく私の往生が決定する行業)かといえば、阿弥陀仏が本願において選び取られたから。それは、雑行は本願において選び捨てられたものという意味。


そこで、こねこさんが尋ねられているところに戻りますが、すでに南無阿弥陀仏以外の行(お布施などなど)が往生の行とは思っておられないということならば、雑行を捨てられたわけです。
また、五雑行以外の善をもってきて「往生の足しにする善」も定義上は雑行となるのですが、正行を念仏と定めた上では、定義がおかしくなります。なぜなら、念仏一つで往生できるわけですから「往生の足しにする善」はありません。南無阿弥陀仏一つで往生できるということです。もし、「念仏一つで往生できるということが信じられない」、「念仏といっても不完全なものだから私の善も足して初めて浄土往生できる」と考えられているのであるならば、雑行を捨てていないということになります。


ただ、こねこさんがどうかは分かりませんが、親鸞会高森顕徹会長)は念仏以外に「お布施・人集めなどなど」を救われる(横の線を進む)為に「絶対に必要なもの」と言っています。また、「雑行が雑行と分からなければ捨てられない」「それまでは雑行をやらねば捨てられるはずがない」「雑行は自力の心でやる諸善」とも言っています。


親鸞会的な雑行の解説(雑行=自力の心でやる諸善万行)の由来と間違い

そこで親鸞会的な雑行の解説(雑行=自力の心でやる諸善万行)は、どこから来て、どこを曲げているのかについてこれから書きます。

親鸞会高森顕徹会長)のいう雑行=自力の心でやる諸善万行という説は、蓮如上人の書かれた御文章や領解文を言葉だけ借りてきたものです。
御文章には多く「雑行をすてて」とか「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」とあります。

一例として、御文章1帖目1通を紹介します。

「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。

「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。(御文章1帖目1通より)

http://goo.gl/TOQES3

この御文章では「正行」「雑行」、「正雑の分別をききわけ」と書いてあります。ここでいわれる「正行」「雑行」の意味は、今まで書いてきたことと少し異なっています。それは「念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつる」ことを、いわゆる信前のこととして書いているからです。もちろん、法然上人、親鸞聖人のいわれる正行(念仏)は他力念仏ですから、それと違っている訳ではありません。


本来は「念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころ」は「雑修」のことです。
そこで「雑修」について、浄土真宗辞典から引用します。

ざっしゅ 雑修
さまざまな行を修するといった、純一でないあり方をいう。専修に対する言葉。

  1. 雑行を修すること。
  2. 五正行中の正定業と助業を同格にみなして修すること。
  3. 行は正行であっても、修する心が自力心である場合をいう。
  4. 専ら念仏を修しても、そのことをもって現世の福利を祈る場合をいう。→せんみょうきげん(専名祈現)(浄土真宗辞典より)

上記の御文章で言われる「雑行」は、この雑修の(2)(3)の意味で使われています。
また、この(2)でいわれる正定業と助業を同格に考えている心をまた、自力心の別名としていわれています。

また、(4)については、高僧和讃に以下のように言われています。

(67)
仏号むねと修すれども
 現世をいのる行者をば
 これも雑修となづけてぞ
 千中無一ときらはるる(高僧和讃・善導讃)

http://goo.gl/OMKgSG

ここでいわれることは、ただ一度の念仏であって現世利益を期待するものはこれも雑修と言うものであるといわれています。
また、(3)にもあるように、念仏をしていても自力の心で称えるものは雑修と言われています。


これらのことから、蓮如上人の御文章で「雑行」「雑行雑修」は、自力の心と同義語とされています。ですから、御文章で「雑行をすてる」とあれば、そのまま「自力の心をすてる」という意味になります。そうなると、その「雑行」に対する「正行」はすべて他力ということになります。


元々は、正行はすべて他力を意味するもので、法然上人や親鸞聖人がいわれる「正行」はすべて他力念仏をいわれれています。他力念仏ということは、「念仏を自分で称えて、それによって自分になにか利益があることを期待しない」ということです。他力念仏とは、南無阿弥陀仏の「法」が私に働きかけ、そのお働きが私の口を通じて出てくださっているということです。その南無阿弥陀仏の名号法が口をついてくる称名念仏を正行というのですから、御文章では「正行」とはそのまま「信心」とされています。


ですから、上記の御文章には「正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに」といわれています。


同様の御文章をもう一つ紹介します。

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。

その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。(御文章2帖目7通)

http://goo.gl/jXHbhV

ここで「信心をとらんずる」とは「ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰する」ことだといわれています。
そこで「正行に帰する」とは、「なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる」ことだといわれています。「一心に弥陀をたのむ」とは信心のことですから、正行=信心と言われています。


まとめますと、以下のようになります。

  1. 御文章において「雑行」「雑行雑修」は自力心のこと
  2. 御文章において「正行」は自力の心をすてた他力信心のこと
  3. これは蓮如上人の自説ではなく、親鸞聖人の教えを踏まえていわれたこと。

最後のまとめ

  1. 本来、雑行とは、念仏(正行)以外の諸善を指した言葉。
  2. その意味で「雑行をすてる」ことは、本当に真宗の教えを聞き求めている人にはすでに関係ない話。
  3. しかし、親鸞会高森顕徹会長)のいう「雑行=自力の心でやる諸善万行」という説は、御文章に書かれていることを都合よく利用したもの
  4. 御文章によるならば、雑行雑修=自力心であって、自力の心でやる諸善万行とするのは間違い。なぜなら御文章における正行は他力信心を指すから。「正雑の分別を聞き分ける」とは「自力をすてて、他力に帰する」ことをいう。
  5. 仮に「雑行=自力の心でやる諸善」とするならば、正行は念仏となるので念仏を勧めないのはおかしい。親鸞会で勧めているのは、100%諸善万行(会の中ではお布施と人集めになっている)
  6. 最後に、雑行の定義がゆれるので、正行の定義もゆれているのが親鸞会高森顕徹会長)である。会員は、雑行=自力の心でやる諸善という固定概念を離れて、ただちに「南無阿弥陀仏一つ」の法を聞いてください。

必ずただ今救われます。

参照 エントリー時点(2014/01/12 06:15)での、コメントの続き

被害者
ちょっと抜けてますよ。
聖道仏教を捨て浄土仏教に入っても、諸善万行をして往生を目指す人がいますから、諸善万行を捨てて念仏一行になりなさいってことですよ。
親鸞会の人は聖道仏教を捨てているけど雑行である諸善万行を捨てることができないとか言っているのが矛盾でしょ。
聖道仏教を捨てることができるなら雑行も捨てることができるじゃないですか。
初めから念仏一行と思っていたら、もう関係ない話ってことですよ。


こねこ

被害者さん、お返事ありがとうございます。

うーーん、ただ正直、その諸善万行を捨てるってことがピンとこないんですよね。

すみません、僕だけなんでしょうか、、、
阿弥陀さまに向かっての善はしないぞって誓ったら、諸善万行を捨てたことになるってことですか?

僕の調べ方が悪いと思うんですけど、自力で雑行が簡単に捨てれるって、飛雲さん以外の人でハッキリ書かれているのを見たことがないんですよね。

大事な雑行のことだから、もしそれが本当なら、少なくとも4,5人は書いて
いそうなんですけど、他に誰かネットでも本でもいいので書いている方はいらっしゃいますか? 

疑うわけではないんですけど、コメント欄だといくれでも一人の人がなりすますことも
出来るので、サイト運営者とか、著者でそういった方が何人もあるなら、そうかなって、
思えるのです。
まあ、人数の問題ではないのでしょうけど、飛雲さん一人だけだと、心配になります、、、

宮田さんはどうなのでしょうか?

被害者

では逆に窺いますが、自力で雑行が簡単に捨てれないって、会長以外の人でハッキリ書かれているのを知ってます?

被害者

三選の文

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

これって、
1.聖道門を捨てて浄土門に入る
2.雑行を捨てて正行に帰す
3.助業を傍らにして正定業を専らにする
この1段階は簡単だけど、2段階と3段階は自力では出来ないってこと?

そんなことを法然上人は仰ってないでしょ。

こねこ

被害者さん、たびたび有難うございます、、、

> では逆に窺いますが、自力で雑行が簡単に
>捨てれないって、会長以外の人でハッキリ書
>かれているのを知ってます?

すみません、今はそういう段階ではなくって、サイトを立ち上げておられたり、本を書いておられる方が、どのような解釈をしておられるか、お聞きしたいと思っている段階なんです。

こっちが正しいと思うっていえるだけの情報がないんです。
どちらの意見も極めて少ないからです。

それで、これはお詳しい方に聞いてみるのが一番と思って、
さいわい、このような親切なサイトもありますので、お答えいただけると嬉しいなと思って、ドキドキしながらコメントしています、、、

(他のブログでも、宮田さんなら熱心に答えてくださると思いますよって、
 コメントしてもらいました(^^)

あと、せっかく三選の文を教えてくださったんですが、この雑行は五雑行のことの
ように思えるのですが、、、

すみません、僕の理解が間違っているかもしれませんが、この雑行は、
往生のためにする諸善万行(阿弥陀さまに向かっての善)の意味なんでしょうか?


被害者

かなり重症ですな。
雑行=諸善万行

この諸善万行の中に五雑行があるのですが。

雑行=五雑行+諸善万行

ではないですよ。

次に雑行は、すなはち文に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。(選択集)

>この雑行は、往生のためにする諸善万行(阿弥陀さまに向かっての善)の意味なんでしょうか?

言うまでもないことです。そんな疑問が起ること自体が、高森会長の被害者です。


こねこ

すみません、、、諸善万行の中に五雑行があるというのがよくわからないです、、、

この場合の諸善万行はおもに、阿弥陀さまに向かっての善だと思っていました。

その中に、阿弥陀さま以外の仏や菩薩などにむかう五雑行があるっていわれても、、、

宮田先生、助けてください(TT)


こねこ

とりあえず宮田先生のご意見をきかせていただけないでしょうか?
飛雲さんと同じなのか違うのかだけでも結構です。
それからちょっと頭を整理させたいと思います。

被害者さんは、飛雲さんと同じご意見ということはよく分かりました。

もう少し整理できたら理解できるかもしれません、、、


被害者

雑行とは「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。」(化土巻)とありますように、もともと聖道門で教え勧められる諸善万行をそのままで、浄土に往生したいと願うことで雑行になるのです。

たとえば法華経を読むことをそのまま浄土往生のためにすれば、雑行です。さとりをえるためにするなら、雑行ではなく聖道門の行です。


こねこ

うーん、少し分かってきたような気もしてきました、、、まだ難しいですが、、、

宮田先生、この被害者さんのご意見でよろしいでしょうか?

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2014/01/07/161152#comment-12921228815716214465