親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会機関紙・法友通信「無条件の救い」と「五重の義」を読んで思ったこと(顕正新聞平成25年10月15日号より)

顕正新聞平成25年10月15日号を読みました。今回は10面掲載・法友通信「無条件の救い」と「五重の義」を読んで思ったことを書きます。

阿弥陀仏の救いは無条件ですが、五重の義で『5つのものがそろわないと往生できない』と聞くと、条件があるように思う」という疑問に、9月22日の二千畳講演でご教導頂いた。法友の手紙から振り返ろう。(顕正新聞平成25年10月15日号・10面 法友通信より)

最近の法友通信では、「誰が」これについて「ご教導」したのかが明記されなくなりました。もちろん二千畳講演をしているのは高森顕徹会長にほかなりませんが、あえて表記しないところにいろいろな事情を感じます。

以下は、法友通信に紹介された参加者の手紙の中から気になったところを一部紹介します。

方便願から真実18願へ
講師部 H
(略)
そんな者に、「無条件の弥陀の救いであった」「ただのただもいらぬただであった」と、「そのまま救う18願真実を知らせるために、弥陀は、19、20の方便願を建てられ、そこまで導いて下されるのだと教えていただきました。その弥陀の19願の御心を、弟子であるお釈迦さまが明らかになされたのがぶっきょうですから、その結論は「一向専念無量寿仏」であります。
(略)

この内容から、五重の義といいながらも親鸞会的三願転入に結びつけての解説だったのだということがわかります。

そして、下記の図も掲載されていました。
f:id:yamamoya:20131101182456p:plain
これは、その日に高森会長が書いた板書です。

いつものように、横の線を進んで19願から20願、20願から18願へと直線的に連結的に進んでいる図示です。実際はそうではないということについては、このブログでも他のブログでも何度も書かれています。

今回は、三願はそもそも直線的に連結的に続いているものではないということを教行信証真仏真土の六法に分けて表記します。

19願について

  • 教…観無量寿経
  • 行…修諸功徳
  • 信…至心発願欲生
  • 証…双樹林下往生
  • 化身土…懈慢辺地

20願について

  • 教…阿弥陀経
  • 行…植諸徳本
  • 信…至心回向欲生
  • 証…難思往生
  • 化身土…疑城胎宮

18願について

三願の違いのまとめ

上記のように、教行信証真仏真土の六法に分別して三願を並べてみました。一目見て分かるように、三願はそもそも最初の「教」が違います。親鸞会でも「教行証」という言葉を聞かれたことがある人は多いと思います。
高森会長が以前した説明を用いますと「教は目的地、ゴールであり、行はそれまでの道程、証はゴールにたどり着いたことだ」とのことでした。その理屈を、三願に当てはめて「18願がゴール、その道程が行であって19願、20願、そしてゴールについたのが『ただのただもいらんただじゃった』である」ということなのだと思います。


しかし、その理屈はそもそも三願のそれぞれの教行信証を見たら通らないことがわかります。
19願は、教は「観無量寿経」であって「証」は双樹林下往生であり、往生するところは「懈慢辺地」いわゆる化土です。したがって、19願の「道」を進む人は「修諸功徳」の行をする人であり、化土へ向かって進んでいるひとです。その人が、どれだけ全力で進んでいったとしても、その行く先は双樹林下往生であり、化土しかありません。決して、いつのまにか18願とはならないのです。
20願についても同様に、行く先は難思往生であり、疑城胎宮(化土)にしかなりません。20願の道をしっかり進んでいけばその先に18願があるのではありません。


よって、難思議往生、真実報土へ往生する人は、大無量寿経にお釈迦さまがあらわされた南無阿弥陀仏の行信によらねばなりません。決して、19願の修諸功徳や、20願の自力念仏の先に18願があるのではありません。


上記に書いた三願の違いをさらに簡略化しますと、以下のようになります。
19願→→双樹林下往生 化土
20願→→難思往生 化土
18願→→難思議往生 報土


線路で言えば、三本のレールが並んでいるような状態で、平行に走っているようなものです。ですから、19願のレールは仮に終着点に到達しても化土ということです。18願ではありません。


ですから、親鸞聖人も三願転入のご文で「万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。」といわれています。「出て」「離れる」というのは、その道を進んでいったら出られたというものではありません。このレールはどこまでいっても、真実に通じていないから、そのレールを「出て」「離れた」のだといわれているのです。


それを直線で、この19願(横の線)を進んでいけば、やがては20願、最後は18願へ出られると教えるのは、「善知識」とはいいません。


参考に、浄土真宗辞典から、五重の義の綱目を一部紹介します。

ごじゅうのぎ 五重の義
(略)
宿善によって善知識にあい、本願の法を聞き、光明のはたらきによって信心獲得の身となり、他力信心を得れば必ず名号が称名念仏として出てくるという意。
(略)

ここでも「善知識にあい、本願の法を聞き」とあります。「本願の法」を伝えるひとが善知識です。では本願の法とは何かといえば、南無阿弥陀仏であり、上記に書いた18願の教行信証真仏真土の六法です。


最近よく高森会長がする話でも、滝壷に向かって進んでいる船から早く乗り換えなければならないというのがありますが、19願は化土へと向かう船です。しかも、化土往生できるかどうかは臨終来迎があればの話ですから、それこそ滝壷に落ち込む時までわからない船です。そんな船に会員全員を乗せているのが、ほかならぬ高森会長です。この船に乗っていたらいつかは、18願にと思っていたら大間違いです。よくて臨終来迎にあえるかもしれないという船に乗っているのですから、現在安心できるわけはありません。それでもこの船(19願 横の線)にしがみつくしかないと思うのは、現状に目をつぶっているだけです。よく目を見開いて、貴方が乗っている船はどこに向かっているかを親鸞聖人の教えからよくよく知ってください。

親鸞聖人は、そのような船(19願)から出て、離れて18願の船に乗り換えなさいと教え勧められています。今いる船はさっさと捨てて、真実の船に乗りなさいと勧められています。


最後に、いろいろと書きましたが、「五重の義」と「三願転入のご文」を同列のものとして話をすること自体がそもそもできないことです。なので、それを主張する高森会長の話に対してこちらがあれこれいうのもやはり文章としてかなりおかしなものとなってしまいました。わかりにくい文章になりましたことをお詫び致します。