親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

旧顕真学院の建物は「浄土真宗学院あわら校舎」に

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以前書いた記事のその後です。

顕正新聞2022年(令和4年)02月01日号を読みました。以下、思ったことを書きます。

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顕正新聞2022年02月01日号1面より

若者に法を説く顕正講師、インターネットで有縁の人に法施するオンライン講師など、全国で活躍する青年講師の研修会が、1月8日から3日間、浄土真宗学院あわら校舎(福井県あわら市)で開催された。初日には、浄土真宗学院・学長の高森光晴布教局長の座談会が設けられ、「深い教えの香り満てる人に」と、エールが送られた。(O)
顕正新聞2022年02月01日号1面)

以前の「顕真学院」は、富山県射水市の同朋の里へ移転となり、それまでの建物はどうなるのかと思っていましたが、現在は「浄土真宗学院あわら校舎」になっていました。

浄土真宗学院については、以前記事に書きました。ご存知ない方は、そちらをご覧下さい。
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親鸞会がネットを中心とした布教活動をしているところが「浄土真宗学院」です。
写真に多くの「青年講師」が写っていますが、いわゆる「専任講師」ではありません。
(「専任講師」とは、かつての親鸞会の職員として親鸞会の布教活動を専門として24時間それに従事していた人のことです。)
青年層の会員で、ネットを活用しての布教活動に参加している会員をそうよんでいるようです。それに加えてネットでの活動を主に行っている青年層の年齢の講師部員が「青年講師」とここでは書かれています。

ネットがあれば専任講師は不要

青年層の会員が、布教活動を熱心に行うその熱意や行動力は素晴らしいものだと思います。
その一方で、以前親鸞会の講師として活動をしていたことを振り返ると、ネットがあれば「専任講師」は本当に不要になったのだなという事です。

もともと親鸞会における「布教活動」というのは、かつては高森顕徹会長の法話にいかに人を集めるかということが目的でした。特に富山県から離れた九州や東北から人を集めるというのはとても大変なことなので、専任講師も必要でした。しかし、ネットでの勧誘活動が中心となると、富山に連れて行くことは最優先事項ではなくなりネットでの対応ができればそれでよいということになります。24時間フルタイムでなくても、自分の時間を調整して活動をすればよいということになります。
また、話の内容も高森顕徹会長の著作や会が作成した資料をある程度理解できればよいというものになりました。これについては、実際は過去の専任講師も実際はそれほど真宗の教え自体に詳しい訳ではなく、親鸞会書籍をよく読んでいる程度なのでそれほど差はないと思います。

親鸞会における布教の変遷

以前は「自信教人信」といい「我ら親鸞学徒は更に珍しき法をも弘めず、親鸞聖人のみ教えを我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」を「親鸞学徒常訓」としていました。
活動している会員も、講師も「人に伝える」その前提として「自信教人信」であるべきであると思っていました。とはいえ、親鸞会においては「自ら信じ」という所が最も難問なので、そこは「努力目標」となっていました。

しかし、今回の記事をふくめてここ最近の親鸞会では「自ら信じ」の部分が「信心決定・信心獲得」から、「真宗の教えを知っています」に変わってきたようです。多くの人に真宗の教えを「知ってもらう」団体になったのが今の親鸞会ですから、布教活動というのもそうなります。

もちろん「知ってもらう」ことはとても大事です。ただ、救いを抜きしてそれが主目的になってしまえば本末転倒です。
高森顕徹会長が、「みなみな信心決定あれかし」と法話の前で言っていた事は、今は全くなくなってしまったようです。親鸞会の人にとって「信心決定」は、「そうなりたい」というものから「そんな救いがあったらいいね」というものになっています。そうなるとそもそもの「専任講師」になろうと言う人も以前ほどはいないのですから、顕真学院が移転したのも当然です。

志だけは、原点回帰した方がいい。

元々親鸞会は、当時の伝統教団に対するアンチテーゼとしてスタートしました。
真宗を再興するという点については、私も同意見です。その真宗を再興する原点は「自信教人信」だったのではないでしょうか。
親鸞会という団体がどうなるかよりも、自らが信を獲るのが真宗の繁昌です。団体のために活動するのではなく、まず自らの後生の一大事に向き合って下さい。

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一 一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば、「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。(蓮如上人御一代記聞書 - WikiArc浄土真宗聖典註釈版P1271)