「歎異抄ってなんだろう」について書いています。
読んでいて 気になったところについて続けて書いています。
今回は、以下の部分です。
「摂取」の「摂」の1字には、 逃げまわるものを、追いかけて追いかけて、逃げ場のないところまで、追い詰めて救うと言う意味があると、親鸞聖人は説かれています。
(歎異抄ってなんだろう213ページ)
この本は、「なぜ生きる2」の反省からこのように「親鸞聖人は説かれています」と書きながら、どこにそのように書いてあるかは一切書かれていません。
これに 該当する箇所は以下の部分です。
【左訓】「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(異本)(浄土和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P571 註釈)
ここで「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」と親鸞聖人がかかれた部分について書いたものと思います。
ただこの箇所を、「逃げるものを、追いかけて追いかけて、逃げ場のないところまで、追い詰めて救う」と解釈したところに、親鸞会がどのように阿弥陀仏を思い描いているのか、会員が日頃どのような思いで活動をしているのかが現れています。
以下、4点にわけて書きます。
- 阿弥陀仏は私を追いつめてから救う
- 活動している会員の心情
- 幹部会員(講師部含む)の心情
- 「逃げ場のないところまで追い詰められている」のが会員の本音
1 阿弥陀仏は私を追いつめてから救う
元の「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」は、 阿弥陀仏が「ただいま救う」と呼びかけておられるのに対して、それに背を向けて逃げている私をあきらめずに呼びかけ続けてくださっていることを書かれたものです。
ところが、この親鸞会の文章では逃げているものを助けるために「まず追い詰める」と言うステップを踏まなければならないとなっています。 これでは、今苦しんでいる人は、まず追い詰められなければ救われないとなります。それでは本当に今苦しんでいる人、今命が終わろうとしている人に対しても、同じことを阿弥陀仏がおっしゃるとなってしまいます。ここでも、平生業成と前の箇所で書きながら、阿弥陀仏の救いをまだまだ先のものだと会員に伝えている親鸞会の主調が現れています。
2 活動している会員の心情
このような話は、私が親鸞会に在籍していたころに高森顕徹会長から聞いたことがあります。それによって活動している会員がどういう心情になるかといえば、なかなか救われない、しかも活動は厳しい、そんな時に「追い詰められなければ救われないのだ、自分はまだまだなのだ」と自分を追い込んでいきます。そして、大きな参詣目標やお布施の目標に向かう活動を自分の中で正当化していきます。その結果、本当に精神的・物理的に会員を続けられなくなるまで、または命が尽きるまで活動を続けると言うことになります。
3 幹部会員(講師部員含む)の心情
古参の講師部員や、幹部会員は、高森顕徹会長を「蓮如上人以来の善知識」と信じて疑いません。そのため、善知識である高森会長の指示は、阿弥陀仏の御心そのままだと言う思考になっています。そのため、どれだけ理不尽と思われるような指示が出ても、 二つ返事でそれを実行していくのが講師部員や、幹部会員です。
ですから、阿弥陀仏が「追いつめて救う」仏だと考えることから、高森会長がいろいろな指示を出すのは、「私たちを追い詰めて救う阿弥陀仏の御心を伝えられているのだ」と 考えるようになっていきます。その結果、 どれだけ現場の会員が苦しい思いをしても、また自分自身が苦しい思いをしても、 「それが阿弥陀仏の御心なのだ、それに従うことが早く救われる道なのだ」と考えて行きます。
4 「逃げ場のないところまで追いつめられている」のが会員の本音
日本に善知識は一人しかおらず、その善知識しか正しく教えは説く事ができないと信じ込んでいる会員からすれば、たとえどんなに厳しい環境であっても逃げ場はありません。
しかも、「善知識は一人しかいない」という前提で考えても、その高森顕徹会長が話を続けていく事はもはや現実的な未来ではなくなっています。
浄土真宗の門を叩いたものの、出口のないところで逃げ場もなく追いつめられているという感覚が今でも続けている会員の本音だと思います。
助かりたいの気持ちはあるものの、他には道もなさそうだと考えて考える事を止めている人も多いのではないでしょうか。
ただ今救う阿弥陀仏は、私を追いつめない
阿弥陀仏からすれば、「追いつめるかどうか」は問題ではありません。南無阿弥陀仏を聞くか聞かないかが問題です。
親鸞会では、 ある意味非常に教育的な立場から私を指導していく阿弥陀仏だと教えられていますが、阿弥陀仏は指導ではなく「おさめ・たすけ・すくう」仏です。
元々の「摂取不捨」の浄土和讃をよくよく読んで頂きたいと思います。
(82)
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃)
追いつめているのは、阿弥陀仏ではありません。苦しく感じている会員の方は、誰が貴方を追いつめているのかを考えて見てください。