親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

いつの間にか高森顕徹会長の過去のビデオ法話上映が前提になっている最近の親鸞会館行事について思うこと

目次

今回もビデオ法話だった「二千畳講演会」

2020年11月08日(日)親鸞会館(富山県射水市)で、二千畳講演会が行われました。
今回は、関西・京滋の学徒が施主の行事でした。会場の参詣者はそれほどの数ではなかったようです。ほとんどがネット中継での参加でした。

今回は、2003年の旧本部会館での高森顕徹会長による正信偈についての話のビデオ法話でした。
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今年のコロナ禍の影響もあり、現在親鸞会館での高森顕徹会長の行事はすべてネット中継がされています。4月以降は会員の前に姿を見せなくなってより、8月の事前録画の最近の動画を除き、全て過去のビデオ法話上映になっています。


それにともなって、機関紙上でも、親鸞会館の行事についての記述が以前と変わってきました。

顕正新聞での「高森先生の法話」の記述の変化

今年8月9日(日)、10日(祝)に行われまし降誕会・追悼法要について顕正新聞では以下のように書かれています。

初日は(略)
高森先生は、『歎異抄』5章に説かれている「真の先祖供養」をご教導下さった。
(略)
2日目は、「真宗の極致について」という演題で、高森先生が御説法なされた。
顕正新聞2020年9月1日号より)

1日目は、ビデオ法話で、2日目はライブと称していた事前収録の録画でした。それでも、会員向けには2日目は久しぶりに高森先生がライブで話をされると連絡が来たものでした。

続いて、10月の報恩講についての記事です。この報恩講は2日間とも過去のビデオ法話の上映でした。

続いて、高森先生より2日間、『歎異抄』7章の『念仏者は無碍の一道なり』の真意を聴聞させて頂いた。
顕正新聞2020年11月1日号より)

しかし、それを報じた顕正新聞の記事は上記のようなものでした。

顕正新聞の記事の記述を見ると「高森先生が○○と御説法なされた」と書くと実際にその場で話をしたことになり、それ以外の記述はどう書いても過去のビデオ法話聴聞したということのようです。


しかし、何も事情を知らない人がこの新聞記事を読めば、どの日程も高森顕徹会長が当日二千畳で話をしたと思います。実際そうとしか読めません。

行事の前提が変わった

以前は、高森顕徹会長が話をするのが前提だったので、体調の都合などにより急きょビデオ法話に切り替わった時は会場でも以下のような案内がされていました。
「本日は、高森先生の体調の都合により(ドクターストップが懸かり)お立ちになりません。そこで平成○年○○で行われた「正信偈」のビデオ御法話を聞かせていただきます」

しかし、最近はネット中継で富山まで遠距離から足を運ぶ人がいないということもあってか、上記のような「本日はビデオ法話です。」「高森先生はたたれません」といった趣旨の案内が全くありません。
また、8月の降誕会・追悼法要2日目で「今日は高森先生が話をされます」ということがわざわざ会員に連絡がいくところを見ると、「高森顕徹会長が話をしないことが前提」に変わったようです。


ですから、何も案内がなければ、日程案内で「二千畳講演会(11月8日)」「先生と学徒との対話(11月18日)」「二千畳Q&A(11月22日)」とあっても、全て高森顕徹会長の過去の法話や座談会の録画を配信することになっているようです。

「高森先生から直接聞かねば」から「ビデオ法話でもネット中継でもよし」へ

これだけ長期間高森顕徹会長が会員の前に姿を見せなくても、未だに会員に向けての体調や近況の連絡はありません。そして、何も知らされないまま、本来高森顕徹会長が話をするはずの行事で過去のビデオ法話が上映され続けています。

そこで気になるのは、以前親鸞会で強調されていた「高森先生から直接聞かねばならない」「だから富山まで足を運ばねばならない」「ビデオ法話ではダメだ」という会の活動の大前提がいつの間にか、「ビデオ法話も高森先生から聞かせていただいているのだ」「ネット中継で富山まで来ない人に聞かせるのも布施行だ」に変わっています。


最近の顕正新聞は、ネット中継を如何に家族や知人と一緒に聴聞したのか、その参加者が如何に多かったが報道されています。


ネット中継で言えば、親鸞会側としては視聴者数が多いにこしたことはないでしょうが、実際に聞いている会員としてとどういう気持ちでしょうか?
これまで何度も「高森先生から直接聞かねばならない、そうでなければ信仰は進まない」といわれ、いろいろな苦労をして富山まで足を運んで来た会員からすれば、昨今の親鸞会の方針転換に戸惑っているのではないでしょうか。

会の運営事情でただ続けるビデオ法話の行事

仮に富山まで足を運んでも、現状ではビデオ法話になることは明らかです。ではビデオ法話聴聞すれば救われるのかについて、親鸞会はこれまで否定的な立場を取っていました。
「高森先生は対機説法をされるのだから、ビデオと直接のご縁は全然違うのだ」というのが、以前も私が会員の方に説明していた言い方です。


ところが、現実問題として高森顕徹会長が話をしなくなった時、親鸞会が行っているのは、今までの前提を変えて、「ビデオでも高森先生の話には違いないのだ」ということにして、何の案内もなくビデオ法話の上映を行事として続けています。


しかし、これは単に行事を行いご法礼を会員から集めなければ会が運営できないからただ行っているにすぎません。もし、ビデオ法話が正式な行事だというのならば、きちんと行事案内にも当日の案内にも言わねばなりません。

「高森先生が話をされなくなったら」が現実になるときどうしますか?

以前は、「いつまでも高森先生から直接聞くご縁はない、なんとしても富山に参詣しなさい」と会員に話をしてきたのが親鸞会講師部員です。


また「後生の一大事」と何度も会員に話をしてきた親鸞会でいま活動をしている講師部員は、今こそ会員の後生についてどう思っているかを考えて下さい。今まで「高森先生の話を聞いて下さい」と言うことで、自身と会員の後生の一大事から目を背けてきたツケを払う時が来ています。


もう今生では助からないと断念しているのでしょうか?
南無阿弥陀仏は私を救うことを断念されません。そこだけは聞いて下さい。