親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「ただのただもいらぬ、ただじゃった」との歎異抄についての論説を読んで会員にも読まれない理由を考える(顕正新聞2018年3月15日号より)

f:id:yamamoya:20180316155418p:plain
顕正新聞平成30年3月15日号を読みました。
以下思ったことを書きます。

今回も一面は「歎異抄」でした。おそらく映画「歎異抄をひらく」が公開されるまで、ずっとこれを続けるのでしょう。ここまでくると、「機関紙一面が歎異抄でした。さてどんな記事だったでしょうか?」という大喜利状態となり、一読者としてはある意味楽しみになってきました。
今回は、東日本大震災に絡めた記事でしたが、今後は「新社会人が読みたい歎異抄」「戦争に行った若者が持っていったのは歎異抄」「そろそろ秋ですね。歎異抄」などなどが考えられます。


今回は論説が、いろいろと思うところがありました。
全文については、以下の画像を御覧下さい。


f:id:yamamoya:20180316155609p:plain

誤解の焦点は、「ただ念仏して」の「ただ」である。
阿弥陀仏の本願は、「どんな人も無条件で、絶対の幸福に救う」という超世希有の大願であるが、聞き始めの頃は、「無条件なら、このままでよかろう」と、「ただじゃそうな」と聞いている。いわば、信仰の幼稚園の「ただ」である。
(略)
しかし、聖人の「ただ念仏して」の「ただ」とは、「ただのただもいらぬ、ただじゃった」と弥陀の無条件の救いに驚き呆れた「ただ」である。
(略)
その後の「念仏して」は、救われた慶喜から噴出する「報恩感謝の念仏」であるから、助けてもらおうと思って称える自力の念仏とは天地雲泥の違いのので有る。
決して間違えてはならない。(K)

特に最後の一文「決して間違えてはならない」(`・ω・´)キリッが、間違っているところがなんとも言えない感じがします。

結論から言いますと、親鸞会にとっての念仏が「助けてもらおうと思って称える自力の念仏」と「報恩感謝の念仏」の二つしかない点が間違いです。親鸞聖人が仰る「ただ念仏して」はそのどちらでもありません。

親鸞聖人がいわれる「念仏」は「阿弥陀仏が私を助けるお働きそのもの」のことを言われています。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P141)
(現代文)
大行とは、すなわち尽十方無擬光如来の名を称えることです。この行には、如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっています。それは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕現態ですから、大行と名づけられるのです。

https://goo.gl/LcRX33

よって、歎異抄での「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」というのは、(自力の行は一切間に合わないから)ただ念仏(もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海)して阿弥陀仏に助けられなさいと言われているだけです。「弥陀の無条件の救いに驚き呆れた「ただ」である」とは違います。そもそも上記の部分は「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とよき人の仰せについてのことでありますから、個人的な感想として「驚き呆れた」ことではありません。



最後に、一つ言いたいことはこの顕正新聞を発行した人に対してです。
顕正新聞は弘宣局の複数のスタッフの校閲の後に発行されています。その中には、この論説の文章がどう読んでも真宗教義にあっていないことに気がついている人は、私が知る限り複数いるはずです。それにも関わらず、「この論説は間違っている」と指摘しないのはなぜでしょうか?最近報道される、財務省の公文書書き替え問題では、当時の財務局長の答弁に矛盾がないように、公文書を書き替えたとのことで問題になっています。これはこれで大きな問題なのですが、親鸞会の弘宣局がやっていることは、これよりもさらに悪質です。なぜなら、高森会長の発言に合わせて、真宗教義にないことを堂々と機関紙に文章として残しているからです。


仮に私のような人間が指摘をしたとしても、「あれは会長がいったことを記事にしているだけだ」という気持ちでいつも機関紙を書いているのかもしれません。しかし高森顕徹会長は機関紙の記事について「ワシはそんなことをいっていない。弘宣局が勝手に書いたのだ」というでしょう。これは共犯関係で、真宗教義をねじ曲げているに過ぎません。


そんな真宗教義を曲げてまで、記事を作り、かつそのほとんどが会長から聞いたことの張り合わせで、自身の信仰の悩みも、信心の表明もない発行物をつくることに一体なんの意味があるのでしょうか?それを読まされる会員はもっと気の毒です。


私もかつては親鸞会弘宣局にいましたが、当時「顕正新聞で一番読まれないのが論説だ」と関係者が頭を悩ませていたのを覚えています。しかし、今考えるとその理由はよく分かります。


自分の信仰を抜きにして、高森顕徹会長から聞いたフレーズをつなぎあわせたボエムに、会員といえども心を動かされることはありません。弘宣局の文章が会員の支持を得られないのは、信心の有無はさておき、「教える立場」に立って「べき論」しか書かず、「本心」を書かないからです。あえてお願いしますが、一度でいいから真面目に自身の信仰について真面目に書いてみて下さい。「まだ助かりません」でも「助かりました。有り難い」でも構いません。

今日、「ただ口で念仏称えたら、誰でも極楽へ往ける」と思っている人が非常に多い。(顕正新聞2018年3月15日号論説)

などと、親鸞会では「正論」なのかもしれませんが、こんな斜に構えただけの文章では、会員は勿論誰が読んでも心は動きません。


これだけネット上に言葉があふれる時代では、飾られた言葉では全く心に刺さりません。「なぜ助からないのか」「こんなに真面目に活動しているのに」が本心として書かれるなら会員の支持は受けるでしょう。

ここまで読まれた会員の方は、本心を出されたほうがいいと思います。それこそ本当の「信心の沙汰」になるのではないでしょうか?