親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

実はひっそりと親鸞会が終わっていた件(顕真2014年9月号より)


「獲信せずに法を説けるか」と批判されグダグダになる親鸞会(顕真平成26年(2014年)9月号を読んで) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ
の追記として書きます。


私は、2009年(平成21年)1月に親鸞会から除名され、それ以来親鸞会の誤りについて批判をしてきました。とはいえ、批判することで高森顕徹会長が自説を改めることはほとんど期待してはいませんでした。それよりもブログの読者が高森顕徹会長の誤りに気がついてくれればいいと思いエントリーを書いてきました。


しかし、上記のエントリーに紹介した顕真2014年9月号の記事を読んで、0,00000000000001%くらいは、親鸞会も改めるのではないかと思っていた期待がついに0になりました。


それは、上記エントリーの以下の部分が象徴的です。

教えの是非を論ずる 講師部 I
(略)
親鸞聖人や蓮如上人はお弟子に、「そなたは信心獲得していないから、説法してはいけない」とは、仰っていません。法然上人も、善慧房や念仏房らに「説法してはいけない」とは仰っていないとお聞きしました。信・不信が問題なのではなく、「知識伝持の仏語」を教えるかどうかだと、ハッキリいたします。
歴代の善知識方の法論は、教えの是非をめぐっての争いであり、信心の有無ではないと知らされました。人の上に信、不信を立てず、教えの是非を論じるよう、肝に銘じます。
(顕真顕真平成26年(2014年)9月号 P41-43 強調は本文ママ)


言い替えると、高森顕徹会長はこの講師部講義で講師部員、特専部員に向かって「獲信しなくてもよい」と言っています。「信心獲得しなくてもキミたちは善知識なんだから後はよろしく」と言っているようなものです。これはすなわち、意味は分からなくてもキミたちは、私の話のコビーを言えばいい、会員を増やせばいい、お布施をもってくればいい、私の著書の販売数が伸びればいいと言っているにすぎません。


高森顕徹会長を唯一の善知識と仰ぎ「これか獲信への最短距離」と信じて講師部、特専部に飛び込んだ当時20代の若者だった人に「あ、君たち獲信しなくていいよ」と言うのですから、梯子を外すにもほどがあります。


講師部員、特選部員に対してもこうなのですから、会員に対してはなおさら「獲信しなくてもよい」なのは間違いありません。


少なくとも、私が入会したころの親鸞会は「信心決定することをもって本といたします」の親鸞学徒聖則を旗印にしていました。それが今では、高森顕徹会長を喜ばせることをもって本といたしますの団体になっていました。


信心決定を求めないとするなら、親鸞会がかつて批判していた内容でいう伝統教団と何も変わりません。少なくとも、親鸞会の存在意義は「信心決定」だったのですが、それが「どうでもいい」なら親鸞会が建て前上でも存在する意味はありません。2014年7月の講師部講義でひっそりと親鸞会は終わりを迎えました。それも高森顕徹会長自身の手で幕を引きました。