親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

シネマ学院の完成と「くもりのちはれめでぃあ」の開設に見るポスト高森顕徹会長の親鸞会(顕正新聞平成29年9月15日号を読んで)

親鸞会の機関紙・顕正新聞平成29年9月15日号を読みました。読んで思ったことを以下に書きます。

今回も、シネマ学院一色の内容でした。10月7日8日の親鸞会館での報恩講で初上映とのことでした。
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このシネマ学院で映画「なぜ生きる」で仏法讃嘆という見出しを見ると、以前は高森会長の法話を聞いた後に同朋の里で信心の沙汰をしようと言っていたのが遠い昔に感じられます。この見出しにもあらわれていますが、今後高森顕徹会長が会員に直接話をする機会は減っていくようです。

実際、9月の親鸞会館での法話では高森顕徹会長はいつもの教誨服姿ではなく、座談会で着用するワイシャツにジャケット姿で座談会形式でイスに座って話をしていました。その後の会員への連絡で、今後高森顕徹会長は教誨服を着てかつての法話スタイルで話をすることはないそうです。また、会員の一部も参加していた講師部講義も中止になり、アニメ座談会もネット中継のみとなりました。

以前のエントリーでも書きましたが、親鸞会は「高森顕徹会長の話を聞く為の団体」から、ボスト高森顕徹会長時代へ向けて舵を切っているところです。

このシネマ学院に関しては、会員の間からも、同朋の里の敷地内にある映画館に新人を誘うのはハードルが高すぎてどうしたらいいものかという声も出てきているのが現状です。どれだけ素晴らしい映像と音響で映画が上映できると言っても、座席の数からして会員向けの施設というのがシネマ学院です。

その映画の解説ビデオが、親鸞会館と同朋の里の施設で見ることができるそうです。
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F館や、親鸞会館「浄信の間」で聞かせて頂くことができます(「なぜ親鸞聖人は人生を海に例えられたのか」「大悲の願船とは何か」など)。(顕正新聞平成29年9月15日号より)

今後は、親鸞会会員が富山県親鸞会館へ行く理由は「シネマ学院で映画「なぜ生きる」を見て、解説ビデオを見る為」ということになるようです。

では、今後そのような会員をどうやって見つけるのか、ということで親鸞会がつくったのが「くもりのちはれめでぃあ」です。
hare-media.com
www.facebook.com


運営は、浄土真宗親鸞会と書いてはあるもののあまり目立たないなというのが正直な印象です。

また、その記事を書いているライターは、すべて親鸞会講師部員、親友部員、会員なのですが、プロフィールに「親鸞会」の文字はどこにも見あたりません。
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(くもりのちはれめでぃあ より)


サイト自体は非常に現代的でレイアウトもきれいです。また、LINEで相談に応じる、Facebook上でオンラインセミナーのライブ中継を開くなど工夫が見られます。
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(同上)


おそらくこれでサイトに登録する人も出てくると思います。
しかし、多くの人を仮に集めても入り口はあっても出口がないのが親鸞会です。「信心には決勝点がある、ゴールがある」と高森顕徹会長は言ってますし、親鸞会講師も言っていますが、しかし「親鸞会の活動には決勝点がない、ゴールがない、質問しても答えがない」のが実情です。

この「くもりのちはれめでぃあ」に出てくるものを見る限り、「浄土真宗親鸞会」は、「親鸞会」へと変わり、なんだかよくわからない仏教的なことで日常の悩みを解決する団体へと変わっていくことが見て取れるものでした。
親鸞会の講師やこのサイトのライターは、「いや浄土真宗をひろめる為の方便だ」というかもしれませんが、私が知る限り、私が親鸞会にいた9年前でもすでに「浄土真宗の教えを伝えている」というのは現場レベルではとてもいえない状況でした。実態は、「どうすれば高森顕徹会長の話を聞く人を増やせるか」だけの為に活動をしていました。その高森顕徹会長がいなくなれば、ただ「人集め」と「教団維持」だけが団体の活動目標になるのは火を見るよりあきらかです。


高森顕徹会長についていくしかない」と、何十年も自身の信心も顧みず、自身の後生も考えてこなかった親鸞会会員のみなさんは、一度冷静になって考えてみて下さい。高森顕徹会長が話をしなくなったら、みなさんはどうやって後生の一大事を解決するのでしょうか?
映画を見れば救われるのでしょうか?

親鸞会の今後がわかる「ブラジルから届いた歓喜の手紙」(顕正新聞平成29年9月1日号)

顕正新聞平成29年9月1日号を読みました。
一面に掲載された記事を読んで感じたことを書きます。
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見出しは「晴れて大悲の願船に」ブラジルから届いた歓喜の手紙でした。
内容としては、ブラジルの会員が、映画「なぜ生きる」を見て「大悲の願船に乗せていただけた」というものでした。

毎日、大きな喜びを胸に真剣に聞法させていただき、晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました。(略)
映画『なぜ生きる』を拝見し、またサンパウロ会館でも、そのご解説を通訳で聞かせて頂き、不可称・不可説・不可思議の無上仏の救いにあわせていただくことができました。(顕正新聞平成29年9月1日号1面より抜粋)

最初に書いておきますが、このブラジルの親鸞会会員の方が救われたといわれていることの真偽をあれこれというつもりはありません。本願力回向のお救いですから、親鸞会に所属している方が救われたとしても不思議なことではありません。

しかし、実情として親鸞会では、私も含めて脱会した人が「阿弥陀仏に救われた」「信心決定の身になった」というと、全て「それは異安心だ」と主張します。顕正新聞でも、たびたび脱会した人や親鸞会以外で「救われた」という人を「群賊悪獣」「体験至上主義」「自称獲信者」と呼び、「彼らの信心は所詮体験しかないのだ」とか「そんな簡単に獲られる信心ではない」と一刀両断してきました。

その一方で、親鸞会のなかで数年に一度あるかないかという「私は救われました」という高森会長への手紙は一面扱いです。一般紙でいえば、いわゆるトップ記事扱いというわけです。普通の新聞記事でもそうですが、トップ記事というのは珍しいことが起きた時、読者が驚くようなことが掲載されます。それだけ「大悲の願船に乗せていただいた」というのは、親鸞会では数年に一人あらわれるかどうかの希少なことなのです。


それでも、親鸞会会員であれば一面扱いでその信心にお墨付きを与えています。どうも親鸞会では、真実信心か否かの分かれ目は「親鸞会会員であるか否か」にあるようです。
実際、私が親鸞会にいたころは、親鸞会会員以外で信心決定した人は世界中を探してもいないと本気で思っていましたし、多くの会員は今でもそう思っています。


なぜなら、親鸞会では「高森顕徹会長の話を直接聞かねば救われない」ということになっているからです。その為に、どんな犠牲を払ってでも、富山県親鸞会館まで高森顕徹会長の話を聞きに会員は足を運んでいます。


ところが、今回の顕正新聞の一面の内容を見ると、親鸞会は大きくその「高森顕徹会長の話親鸞会館で直接聞かねば救われない」の方針を転換した(又は今後する予定)ようです。


今回のブラジル在住の会員の方は、日本語が聞き取れない方であり、富山に足を運んで直接高森顕徹会長の話を直接聞くことが難しい環境にあります。それにも関わらず、映画『なぜ生きる』を見て、その解説をネット中継で通訳を介して聞いていったら救われたというのですから、日本の会員にあてはめるならば、「富山に行かなくても救われるんだ」と機関紙の一面に書いているようなものです。別の言い方をすると、映画「なぜ生きる」を見て、その解説を聞けば救われるというのが今後の親鸞会の方針のようです。


最後にまとめますと、現在の親鸞会は、高森顕徹会長が今までのように毎月何回も会員に法話や座談会で話をできなくなる状況に向けて、右往左往しています。
親鸞会としては「高森顕徹会長の話を聞かねば救われない」と、今まで何十年にもわたって言い続けて来たことを今更曲げることはできません。しかし、いつかは「高森顕徹会長の話を聞かねば救われない」にも関わらず遠くない将来に「高森顕徹会長の話が聞けない」状況が発生します。そこで今後は、映画『なぜ生きる』こそ高森顕徹会長の話そのものであり、その解説を聞けば救われると会の方針を変えたのでしょう。


ここまで、読まれた親鸞会をよく知らない方は、なぜ次期会長が話をしないのだろうかと思われるかも知れません。
それは、たとえ誰が次期会長になったとしても、まともに現在の会長のように「私は救われた」前提で話ができる人がいないからです。
以前高森顕徹会長から「正しく親鸞聖人の教えを伝えれば、自分が救われていなくても人を救うことが出来る」と、当時の全講師部員は聞いていますが、それをそのまま忠実にやりきることの出来る親鸞会講師部員は一人もいません。
実はひっそりと親鸞会が終わっていた件(顕真2014年9月号より) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ
なぜならば、親鸞会講師部員の多くは、「自分は救われた」と言えるような信心がないからです。その一方で多くの講師部員は「正しく法を伝えねば」と使命感を持っています。そんな親鸞会講師部員にとって、一番辛いことは、自分自身が救われてもいないのに、「必ず救われます」と人にいうことです。


というのは、多くの講師部員は多くの犠牲を払って、それでも救われていないにも関わらず「平生業成ですからね」「現生不退ですからただ今救われます」と言い続けるからです。以前もブログに書いたことがありましたが、私の先輩講師は「自分が救われていないのに、皆さんに救われますということが一番辛い。でもそれを乗り越えないと講師部員の使命は果たせない」と言っていました。
これは、自身が実感したこともない健康食品を売り歩くセールスマンに似た精神構造です。自分がそうなったわけでもないのに「血圧が下がりますよ」「痩せますよ」「膝が痛くなくなりますよ」と言い続けるのは、まともな神経ではいられません。
なぜなら本人のなかでは、そう言うままが嘘をついていることになるからです。それは必ずストレスになり、私が親鸞会講師部員でいた10年間の間に、精神的な疲労により講師部員を辞めた人は何人も見てきました。今振り返ると、本当に真面目で繊細な人だったのだと思います。自分も含めて、多くの会員が救われない現状を知りながら「親鸞会でなければ救われない」と言い続けるのは辛いことです。親鸞会にいたころの私は「親鸞会では救われない」とは思わないものの「親鸞会に入会する人の多くは救われる」とは思っていませんでした。それでも、「少ない可能性かもしれないけれど、外に道はないのだから」という気持ちで人に親鸞会の教えを伝える活動を続けていました。

当時講師部員だった私の立場に立って見ると、「親鸞会でないと救われない」の根拠は「高森顕徹会長」でした。「高森顕徹会長の話を聞かねば救われない」というのが多くの会員の共通認識です。その高森顕徹会長が話をできなくなる時が、遠くない将来になった今、アニメ映画「なぜ生きる」に高森顕徹会長の座を引き渡そうとしているのが今の親鸞会です。

その方法は、私が親鸞会講師部員だったら現状ではそれしかないと思うかも知れません。しかし、それが会員に通用するのは高森顕徹会長の話を直接聞いた人がいる暫くの間のことです。

なぜなら、たとえば20年後に映画「なせ生きる」を見た人が、「高森顕徹(当時の)会長の話のままだよ」と言われて納得する人はいないからです。したがって、高森顕徹会長が引退したあとの親鸞会には、会員をつなぎ止める要素は「かつて高森顕徹会長の話しを聞いたことがある人」にしか通用しません。そうなると、新規に親鸞会に入会する人はあっても続ける人は決して多くはないと予想されます。

ここまで読まれた親鸞会会員の方があれば、その人に最後に一言付け加えます。貴方は、高森顕徹会長に救われたいのでしょうか?それとも、阿弥陀仏に救われたいのでしょうか?よくよく考えてみて下さい。

「捨てものは「自力の心」ただ一つ」の論説(顕正新聞平成29年8月1日号)を読んで思ったこと

顕正新聞平成29年8月1日号を読みました。一面と論説から読んで思ったことを書きます。

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一面は、シネマ学院の施工業者へのインタビューでした。どれだけ高機能な映像設備なのかが詳しく説明してありますが、まるでよい施設で視聴すると映画「なぜ生きる」の内容が正しい真宗になるかのような記事でした。

映画『なぜ生きる』の上映に特化した施設なので、その素晴らしさを最大限に引き出せる設備といえるでしょう。
(略)
一般の映画館を超えた、最高レベルの施設と考えていいと思います。
映像も音響も、日常の体験を超えた「超体験」を完成目標としているので、注文は厳しいですがすごくやりがいのある仕事ですね。
顕正新聞平成29年8月1日号1面 シネマ学院設計施工業者に聞く)

一般の映画館より更に高機能な音響施設で造られているようですが、だからといって同朋の里に上映専門施設を建てる必要は全く感じません。これまで親鸞会ではいろいろと理由をつけては、箱物を造ってきました。


例えば、親鸞会館(二千畳の正本堂)完成後の地下道は、雪の中でも駐車場から会館まで楽に会員が移動できるようにといったものでした。実情は、親鸞会館と駐車場の間に公道があり、行事日に多くの会員が横断するのが地元の住民から通行の邪魔だとの意見があったためです。そのような実情は会員には一切説明なく「会長先生が雪の中を歩く会員さんの姿を見て、参詣者が怪我をしないようにということで地下道を提案してくださった」ということになっていました。


その地下道も当時の会員の間でも、「本当に必要なのか」との声がありましたが、雨や雪の日に濡れないという実用面は多少あったのでなんとなく納得する人もいました。
その後、信心の沙汰をする同朋の里、その中にできたコンビニ、食堂、大浴場、宿泊施設等々を建設してきました。どれも、外部から見れば「どうして必要なのか」と思うようなものばかりです。それでも、いろいろ理由をつけて建設してきました。


しかし、今回のシネマ学院ばかりは、会員に対しても言い訳が立ちません。
まず、この映画「なぜ生きる」は、真宗の教えを多くの人に弘めるために作成したはずのものですから、富山県親鸞会の施設内で専門上映館があることはその目的にまったく叶いません。
加えて、現在でも地元の会場やシネマバスで上映をしている(できる)映画を、わざわざ別に上映館をつくる必要はありません。
この紙面から分かる事は映画『なぜ生きる』が最高レベルの映像、音響で見ることができることしかありません。それが果たして、会員からお布施を集めてまでしなければならないことでしょうか?

今回のシネマ学院でよくわかることは、親鸞会の箱物は「必要だから」建てているものはもはやないということです。「建てねばならないから建てている」というのが実情のようです。その理由について親鸞会は一切説明はありませんが、いずれにしろそれらの箱物の建設費用は会員が負担しなければなりません。


このような会員からお布施を募る時に、顕正新聞の論説はいつも似たような話を書きます。いわゆる「善の勧め」です。ここ最近の論説では、外部からの批判を気にしてかそれについての記事は書いてきませんでしたが、いざ箱物を建てる段になると、元通りの状態にもどります。それが親鸞会の本質といって間違いはありません。

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「雑行」の体は諸善万行だから、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ、やめよ」と誤解して、善の勧めを排斥するものが浄土真宗には非常に多いのである。
とんでもない誤りだ。
諸善に努めねば善い果報は来ない。阿弥陀仏の本願を疑って、自分の行った善を弥陀の救いに役立たせようとする「自力の心」が悪いから、雑行と嫌われ、捨てよ、と言われるのである。
顕正新聞平成29年8月1日号論説より抜粋)

これだけ読んで納得する人は、あまり多くないと思います。これを納得しているのは、論説を書いている人くらいではないかと思います。

細かくは書きませんが、「雑行、雑修、自力の心をふり捨てて」の領解文が前述の文章の前に出てきます。当然、阿弥陀仏に救われる話、一大事の後生の話が書かれている流れにも関わらず「諸善に努めねば善い果報は来ない」と突然文脈にまったく関係ない文章が入ってきます。この文章は、親鸞会が雑行の話をするときには必ずといっていいほど出てきます。しかし、繰り返しになりますが、阿弥陀仏の救いと全く関係ない話です。


つまり、この文章(諸善に努めねば善い果報は来ない)が一番今回の論説でいいたいことだということです。また、高森会長が一番いいたいことでもあります。言い換えれば、「お布施を出さねば善い果報は来ない、だからお布施を出しなさい」です。


ここまで読まれた親鸞会会員の方には思い当たるところがあるのではないでしょうか?
親鸞会で「雑行」の話を聞いた時、心に何が残ってきたでしょうか?
私が記憶している範囲では、大体以下のものでした。
「雑行捨てねばならないが、諸善をするなということではない、むしろやらないと善果はこないから頑張ろう」
「自力の心は捨てねばならないが、諸善は捨ててはならない」

阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏を聞く一つなのですが、「聞くか聞かざるか」の話が、いつの間にか「善をするか捨てるか」の話にすりかわっています。南無阿弥陀仏で往生するかしないかの話が、善果が来るか来ないかの話になっています。


結果として、親鸞会会員が常に考えていることはどうすれば善果がくるような善をすることができるかに留まったままです。
どうすれば、富山の行事に参加できるか、どうすれば推進されるお布施の金額を用意することができるか、どうすれば参詣目標に届くか。そのためには誰に声をかければいいだろうか。

そうやって、阿弥陀仏の救いと自分の善を切り離せない考えを自力の心といいます。捨てねばならないのが自力の心と論説でいうのならば、阿弥陀仏の救いと善を関係づけるような記事を掲載する親鸞会こそ捨てねばなりません。2017年08月06日(日)は親鸞会館で会員追悼法要ですが、これまでに熱心に親鸞会のいうことに従って来た人が、もし声を出せたらどんな事を語られるのか、これをご縁に我が身に引き当てて考えて見て下さい。

以前、ブログにも書きましたが、以前ある会員の方がなくなる前にこう仰っていたことを耳にしました。
その方は、大変熱心な活動を続け、親鸞会の勧めるお布施にも何時も積極的に参加していました。高齢となり、亡くなる前に「これまで五千万円財施したけど、獲信できなかった……」と言われました。
こういう話をすると、高森会長はじめとして、親鸞会の講師は「お布施をしたら助かるなどということは、一度もいった事がない!聞き間違いだ」と言ってきました。本人を目の前にしてもこんなことが言えるでしょうか?本人を目の前にして言わなくても、そういうことを口にすれば言ったも同然です。

しかし、それは聞き間違いでも何も無く、親鸞会の教えを「正確に」聞けばそうなります。
自力の心を捨てる前に、間違った教え捨てて下さい。南無阿弥陀仏は必ずただ今救って下さいます。

「シネマ学院9月末完成」(顕正新聞より)を読んで思ったこと

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顕正新聞平成29年7月15日号より)
顕正新聞宗教法人浄土真宗親鸞会の機関紙)2017年7月15日号を読みました。
今回一面に掲載されているのは、タイトルにも書きましたが「シネマ学院(同朋の里)9月末完成 映画『なぜ生きる』から親鸞聖人の教えを学ぶ」でした。
以前から、シネマ学院という建物ができる話は聞いていましたが、いよいよ完成が近づいてきたようです。
具体的にどのような用途で使うものかが、今回の顕正新聞でやっと分かるようになりました。

上映室には、約9.8メートル×5.6メートルのスクリーンと175席が設けられる。上映後は、映画のご解説を、ビデオ聴聞できる。
場所は同朋の里・F館と親鸞会館(浄信の間)などで、希望に応じて参加できるよう準備中だ。(1面より)

シネマ学院は「なぜ生きる」専用の映画館だそうですが、同朋の里でも親鸞会館でも映画上映することも可能なことを考えると、「箱物を建ててお布施を募る為に建てた」という以外には考えられないものです。

会にとっても会員にとっても「最高レベルの映像・音響でなぜ生きるを見ることができる」ことがそれほど大事なことだとは思えません。そんな映像や音響に拘りをもっている会員は少数派でしょう。

では、会員にとって「シネマ学院が大事な施設」となるのは「上映後のビデオ聴聞高森顕徹会長により映画解説)」以外にはありません。映画公開以来ずっと続いている高森顕徹会長の映画の内容に関する質問に対しての回答がビデオで見ることができるというのは、熱心な会員にとってはお布施を出す動機になるかもしれません。

こういう親鸞会の現状を見ると、以前から予想されていたことがいよいよ現実になってきたと感じます。それは、高森顕徹会長が引退すると、今と同じ形の親鸞会は無くなってしまうだろうということです。
なぜなら、親鸞会は良くも悪くも高森顕徹会長の個人事業のような団体です。特に教義については、仮にお聖教にないことでも「高森顕徹会長がこうだ」といえば、そのようになってしまうのが今までの親鸞会でした。その為、高森顕徹会長が居なくなった後の親鸞会には、何を以て「親鸞会の教義(親鸞会がいうところの本当の親鸞聖人の教え)」が正しいものかを判断できる人がいなくなります。そうなると、根拠となるのは高森顕徹会長の著作、映画、及び過去の法話や座談会のビデオしかありません。
また、高森顕徹会長が引退すれば、会員にとっては富山の親鸞会館や同朋の里に行く理由はなくなってしまいます。


そこで、会長引退後を見据えて、それでも富山に会員が集まる理由として「高森顕徹会長のビデオ解説が聴聞できますよ」としたのがシネマ学院だと思います。未来の親鸞会は如何に会員を富山に定期的に集めるかに全てを傾注することでしょうが、それは一体なんのためでしょうか?

しかし、それが続くのも長年高森顕徹会長について来た会員が元気な間であって、未来の親鸞会会員にとって、何度も同じ映画と解説録画を見るために富山に行く人は少なくなるでしょう。


親鸞会は、映画と解説ビデオを教義の聖典とするのではなく、看板に掲げた「浄土真宗」が嘘でないなら親鸞聖人の書かれたお聖教に基づいて聴聞、布教をするべきです。

今までの教義間違いを「なかったこと」にしようとする高森会長のアニメ映画偏重

7月2日(日)にネット中継での高森会長の話がありました。
話の内容は、以下のブログ記事に紹介されていますが、アニメ映画「なぜ生きる」のセリフについての話でした。
shingikensho.blog12.fc2.com

前回の当ブログのエントリーで、アニメ映画「なぜ生きる」の話がずっと続いている理由を書きました。
shinrankaidakkai.hatenablog.com

今回は、それからまた考えたことを書きます。

前回のエントリーでは、高森顕徹会長がアニメ映画の話ばかり理由を、親鸞会聖典にすることを決めたからだと書きました。
それに加えて考えた理由は、このアニメ映画「なぜ生きる」のみを親鸞会聖典として、それ以外の著作や映像は「なかったこと」にしようとしているのではないかということです。

その理由は、これまでも同じようなことをしてきたからです。

都合が悪くなると「なかったこと」にしてきた親鸞会の歴史の一部を紹介

その1 会報

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以前親鸞会会員むけに会長が書いた「会報」がありました。私が、親鸞会に入会した平成5年の時点ですでに「もうすぐ絶版になる」と聞き、買いそろえました。その後、予定通り「会報」は在庫がなくなり次第絶版になりました。会報は当時「現代の教行信証」「真宗の教えが全て書かれている」と会員にはアナウンスされていました。そのため、そんな大事な本がなぜ絶版になるのか誰もが不思議に思っていました。しかしその後、その会報の内容のかなりの部分が他人の著作からの剽窃であることが分かり、絶版にしたのも納得しました。
(参照)会報1〜5の目次
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(全部で5冊なのですか、なぜか半分近くが「善知識」というのが特徴です)

その2 本願寺なぜ答えぬ

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本願寺派と「宿善」について教義論争をした結果をまとめもので、高森顕徹会長の著作です。
会員向けには、「本願寺派に完全勝利した」と宣伝していましたし、出版当時は「イナヅマ作戦」と称して戸別訪問で各地の寺や真宗門徒に売り歩いていました。
しかし、これもその後出版停止になりました。もちろんその理由は会員には案内されませんでした。
これも本当の理由は、ネット上に本願寺派の反論文章の完全版が公開されたことにより、「なぜ答えぬ」で一部だけ引用して如何にも「本願寺に勝った」かのように加工していただけだという嘘がバレてしまったからです。もちろん、熱心な会員以外が読めば、そんな印象操作も空しくどう読んでも親鸞会が勝ったようには読めない本です。
これも「絶版」にすることで「なかった」ことにしています。今年入会した会員は、この本の存在も知らないと思います。
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少なくとも機関紙では、ここ最近善の勧めを書かなくなってます。これだけ声高に主張したことは、親鸞会では「なかったこと」になっているようです。または、別の世界線の話のようです。


「なぜ生きる」(一万年堂出版)出版の目的

それ以外にも、過去の著作が剽窃だらけであることが、ネット上で明るみになると、それらのことを「なかったこと」にするために、高森顕徹会長の著作として初めて剽窃がない(とされている)「なぜ生きる」を出版しました。
ところが、この「なぜ生きる」は、内容が真宗教義からいって大変問題があり、ネット上では大いに批判を受けることになります。それに反論する形で「なぜ生きる2」を出版しましたが、またまた教義上問題があり批判を受けます。

映画制作の目的も、過去を「なかったこと」にするため?

そこで高森顕徹会長は、著作を出すことを諦めて、ソフト化しない限りあまり批判を受けない(受けたら修正できる)劇場公開のアニメ映画制作にとりかかったのではないかと思います。(なにせ映画館で上映している映像がネットに流れれば「映画泥棒」として訴えることができます。)また、シネマ学院を同朋の里に建設することを考えると、一般向けのソフト販売はしない可能性が高いです。

本は一度出版すれば、内容を修正することはほぼ不可能になります。また、本の文章が証拠として今まで散々批判をうけてきました。そこで、現在修正作業を続けているアニメ映画が完成または、会長が修正作業ができなくなった段階で、高森顕徹会長の著作物はアニメ映画「なぜ生きる」だけを残して全て絶版になると予想されます。

高森顕徹会長の目線で考えて見ると、親鸞会結成25周年頃に、自らを会員に「蓮如上人以来の善知識」と呼ばせて、その後会館を各地に会館を建てている当時は、自らの説くところの「本当の親鸞聖人のみ教え」がこれほど批判されることは夢にも思っていなかったことでしょう。

今まで出した著作を全部なかったことにして、今度こそ批判を受けないようなものを残したいという思いで映画の修正をしているのが今の高森顕徹会長です。「火の雨も 親鸞学徒受けて立つ」と勇ましく言っていたのも遠い過去になったようです。
ここ最近の顕正新聞論説に出ている最近の高森会長の話の要約も、「こう言えばネットでも批判されないだろう」という一心で話をしている姿が目に浮かぶようです。

最後に高森会長へ

自らの名誉の為に話をしたり、作品を造るのではなく、そんな貴方を信じている会員の為に法を伝える努力をして下さい。何か深い御心があって映画「なぜ生きる」の話をつづけているのだろうと信じている会員の多くに同情致します。

高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)が、アニメ映画「なぜ生きる」の話ばかりをし続ける理由を考える

2017年06月25日に親鸞会館で高森顕徹会長の話がありました。すでに他のブログでも言及されていますが、アニメ映画「なぜ生きる」の中の蓮如上人のお言葉の意味についての質問に答えるというものだったそうです。
hiun.cocolog-nifty.com

shingikensho.blog12.fc2.com
また、8月の親鸞会館での追悼法要の演題は、白骨の章に決まりました。これもまた、アニメ映画「なぜ生きる」に出てくる話です。

なぜアニメ映画「なぜ生きる」の話が続くのか?

昨年5月にアニメ映画「なぜ生きる」が公開されてより、高森顕徹会長の話の大半(質問に答える形式では全て)は映画に関するものばかりです。(正確に言えば、アニメ映画制作が始まった公開1年前より難度海の話がずっと続いていました)なぜ、このように映画の話ばかりをするのかについて考えて見ました。

結論から言えば、高森顕徹会長がこのアニメ映画「なぜ生きる」を、親鸞会にとっての聖典にすることに決めたからです。


以前も、それについてこのブログで言及しましたが、高森顕徹会長はいよいよ本気でそうしているようです。私がそう思ったきっかけは、今年の5月にアニメ映画「なぜ生きる」の修正版が公開されたことを耳にしたからです。5月に富山県高岡市でアニメ映画「なぜ生きる」が再び映画館上映されました。その際に、100箇所以上の修正を加えたものが公開されたとのことです。セリフも増えたり、変更されたりしていました。言って見れば「なぜ生きる2017」が公開された訳です。

その時制作しているものの話をするのが高森顕徹会長

親鸞会会員を長く続けている人ならば分かると思いますが、高森顕徹会長は何か書籍やアニメを作っている時は、それに関する話をするという特徴があります。
かつて、チューリップ企画の「世界の光親鸞聖人シリーズ」が制作されていた時期は、それぞれのアニメの内容に関する話(例えば、第4部では無明の闇、第5部では歎異抄2章)を繰り返ししています。
映画「なぜ生きる2017」が公開されたことを聞いて、ずっとアニメのセリフについての質問ばかりを受け付けそれに答えていた理由が分かりました。それは、その質問の部分を中心としたアニメ映画のセリフの修正をずっとしていたからです。その結果100箇所以上修正した映画が公開されました。高森顕徹会長からすれば、この映画「なぜ生きる」はまだ未完成ということなのでしょう。そうすれば、映画公開後1年を過ぎても、DVDなどのソフト販売をはじめないのも納得がいきます。

映画「なぜ生きる」は永遠に完成しない

現在も映画「なぜ生きる」についての話を続けているということは、映画の修正をずっと続けているのでしょう。今後予想されることは、来年高森顕徹会長が健在であれば、映画「なぜ生きる2018」が公開されることと思います。その後も「2019」「2020」と高森顕徹会長が健在な間は続く事でしょう。そしてその修正は、高森顕徹会長が生きている間終わらないと思います。つまり、映画「なぜ生きる」は、会長の頭の中では永遠に完成しないのです。
このようなことを高森顕徹会長がするのも、親鸞聖人がその主著である「教行信証」を、終生書き直し続けられたことに倣っているのだということは、会員ならば想像できることと思います。そこから分かる事は、高森顕徹会長は本気で、映画「なぜ生きる」を宗教法人浄土真宗親鸞会聖典と決めたということです。
ですから、今後高森顕徹会長がアニメ映画「なぜ生きる」を離れた話をすることはないと思われます。


ここ最近の話の内容を伝え聞く限りは、会員も常にアニメ映画のセリフの解説であることに思うことがある人も多いようです。「次はアニメのセリフ以外の話を聞けるかも」「次こそ、南無阿弥陀仏のいわれを聞けるかも」という方は、その希望が叶うことはない可能性が高いです。
はやく、親鸞会以外で法話を聞かれることをお勧めします。

「高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)がたまにまともな真宗教義をいう問題」の背景について

顕正新聞平成29年6月1日号論説を読みました。以下、思ったことを書きます。
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(略)
阿弥陀仏は、大悲の願船を見る目もなく、船長の声を聞く耳も持たぬ逆謗・闡提の者を目当てに、「必ず乗せて絶対の幸福に救い摂り、極楽浄土へ渡す」と誓われている。大悲の願船は私目掛けて突っ込んでくるのだ。そして必ず、苦しみの海から引き上げ乗せて下されるのである。
修行も学問も要らない。「弥陀の願心に疑心あることなし」と聞く一つである。
大悲の願船に乗ずれば、光明の広海に浮かぶ人生が開かれ、広大な仏恩を知らされるから、報謝の念仏称える身に、早くなりなさいよと、蓮如上人は仰せなのである。(顕正新聞平成29年6月1日号論説より)

阿弥陀仏が「絶対の幸福に救い摂り」といっている部分は、相変わらず親鸞会用語の定義が曖昧なのでよく分かりません。しかし、どうも「絶対の幸福に救い摂り、極楽浄土へ渡す」という文脈からすると、親鸞会の定義する「絶対の幸福=現生正定聚」のようです。
「修行も学問も要らない。「弥陀の願心に疑心あることなし」と聞く一つである。」とここだけ読むと、「親鸞会もまともなことを言っているではないか」と思われるかもしれません。しかし、このようなことを一貫していわないところが、親鸞会の特徴です。


表題について結論を先に書くと、高森会長が会員をつなぎ止めるための技術としかいいようがありません。


私が在籍していたころでも、似たようなことは何度もありました。
一例を揚げると、「聞く一つの救いだけれど、聞いておれば助かると思うのは間違いだ。」
阿弥陀仏の救いは無条件だが、無条件が無条件と知らされるまで真剣にならねばならない」
「他力が他力と知らされるまで、自力一杯求めねばならない」
などです。
こういうのをダブルバインドといいます。

ダブル−バインド
〖名〗(二重拘束の意)相反する二つのメッセージを同時に受けて、即座に反応を求められる場合のような身動きのとれない状態。たとえば、母親が子供に対して口では「愛してる」と言いながら嫌悪の表情を示した場合の、子供のどちらを信じていいのかわからない精神状態をいう。文化人類学者のグレゴリー=ベートソンが1950年代に提示した概念。(小学館 精選版日本国語辞典)

考えて見ると、親鸞会在籍時の高森会長の「教え」は、このダブルバインドの連続でした。代表的なものが「宿善」です。「宿善がなければ救われないから、真剣に求めよ」と聞かされて「聴聞、勤行、お布施」に邁進すると、「宿善が積み重なって助かると思うのは間違い」と来ます。
また「真剣に聞け、正座して聞け、正座せずに聞いて救われた人はいない」と聞いて、一日正座をして真剣に聞いていると「真剣に聞いたら助かると思うのは自惚れだ」と来ます。
まとめて言えば、右に行けと言われていたことに従っていると、ある日には左に行けと言われます。それを一年のうちに何回も繰り返しているうちに、親鸞会会員の一年間は過ぎていきます。いま振り返れば、恒例行事のようなものです。


しかし、当の会員にとってはたまったものではありません。なにせ「500年に一度の善知識が仰ること」ですから、間違いがあるはずがありません。どう考えても、以前と反対の話を聞かされた時が会員を続けるかどうかのメンタルテストになります。以前の私はこう考えていました。

「高森会長は私の思い違いを正す為に、敢えて反対のことを言われているのだ。高森会長の真意を聞き間違えた私が悪いのだ」としていました。


しかし、考えて見るとおかしなことです。なぜなら、親鸞会は一応「浄土真宗」を看板に掲げている団体ですから、その教義は「浄土真宗」から逸脱しては、看板倒れに成ってしまいます。にもかかわらず、高森会長の話が、定期的に右に行ったり左に行ったりするのはなぜでしょうか?
可能性としては二つしかありません。

高森会長の話が時々反対のことをいう理由

  1. 浄土真宗の教義はそのように「右へ行け」「左に行け」というように矛盾したものである。
  2. 高森会長が日ごろ言っている教義が真宗教義と真反対である。そのためたまに、まともに真宗教義の話をすると、矛盾していると感じる。


ここまで読まれた会員の方に正解をいいます。答えは「2」です。
少しでもネットで親鸞会教義を調べた方なら分かると思いますが、浄土真宗では「善をしたら救いが早くなる。救いの足しになる。獲信と良い関係がある」というものはありません。にも関わらず、明文化するかどうかはさておき、活動の現場で会員が感じるのは「善はしないよりした方が早く救われる」ということです。それに対して親鸞聖人も蓮如上人も、「善で救われるとか、救いが早くなることはない」とハッキリ言われています。
ですから、日ごろ高森会長がいうところの「これが本当の親鸞聖人の教え」そのものが、「親鸞聖人の教えの真逆」であり。たまにいう「日ごろと違うこと」こそが、「本当の浄土真宗」です。
どうか、会員の方は、高森会長がたまにする変わった話こそ真宗の教えだと知って下さい。そのたまにしかしない真宗の教えを聞くことの大いなる労力の無駄に気づいて下さい。
親鸞会では「有り難い話」は、親鸞会以外ではいつもされている話です。

高森会長がたまにまともなことをいうのは、たまにまともなことを言って会員に「高森会長の言っていることは真宗である」と信じ込ませるためのボーズに過ぎません。私が会員であったときを振り返れば、まともな真宗教義の話をするのは、年間数回あったかどうかです。