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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会における忖度と二種深信は「二つの心が同時に起きる」ものではない件(親鸞会機関紙顕正新聞平成29年4月15日号論説)

宗教法人浄土真宗親鸞会高森顕徹会長)の機関紙顕正新聞平成29年4月15日号を読みました。今回は岡山会館の落慶とその座談会の内容が主なものでした。


論説にまとめた記事が掲載されていたので、それを読んで思ったことを書きます。題名は「『他力の信心を獲得す』とは」でした。
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親鸞会では、信心を強調し(最近はそれも話しに出てこなくなりましたが)伝統教団に対して「信心を説かないのは間違いだ」と批判してきました。そして、「二種深信が立たねば真実の信心ではない」と主張します。


確かに、他力信心のすがたを示されたのが二種深信です。ですが、親鸞会の会員の多くは、二種深信について「二つの心が同時に起きる」ものと理解をしています。私も、以前はそのように理解をしていました。
そこで、今回の論説には以下のように書かれています。全体の中の最期六分の一を抜粋して紹介します。

では、何がハッキリするのか。他力の信を獲て明らかになるのは、二つのことである。
信心獲得すると、「私は煩悩にまみれた、金輪際、助かる縁なき極悪人だった」と、真実の自己の姿に疑い晴れると同時に、そんのものを必ず絶対の幸福に救うと誓われた「弥陀の本願」まことだったと疑い晴れる。
この二つが明らかに知らされる「他力の信心」を頂くと、永久に変わらぬ「絶対の幸福」に生かされる。その身になることこそ、古今東西、求めてやまない「なぜ生きる」の答えなのである。(顕正新聞平成29年4月15日号論説より)

親鸞会と縁のなかった人がこの文章を読むと、それほど疑問に思わないかも知れませんが、高森顕徹会長から話を聞いている会員は「二つの心が同時に起きる」という前提でこの文章を読んでいます。もちろん書いている人も同じ理解だと思います。


二種深信について浄土真宗辞典から紹介します。今回は、該当する辞書部分が長いので関係するところを抜粋します。

にしゅじんしん 二種深信
(略)この二種の深信は他力信心のすがたを示し、二種一具の関係にあって、別々のものでもなく、一つの信心の両面をあらわしている。なお、二種の心が並び起こるものである(二心並起“ニシンビョウキ”)としたり、前後関係(前後起)とする異安心に対し、安心論題に「二種深信」)が設けられている。

ここでいう「二種の心が並び起こる(二心並起)」が親鸞会会員の多くの理解です。論説でいうと「真実の自己の姿に疑い晴れる」と「弥陀の本願まことだったと疑い晴れる」の二つの心が同時に起こるという理解です。


私が親鸞会にいたころは、高森顕徹会長からこの二種深信の解説を聞く時には「地獄一定と極楽一定の自己が同時に知らされる」と言っていました。その後、種々の批判を受けて上記の論説の内容に変更してきましたが、「二心並起ではない」との説明を会員にしたと言う話は未だ聞いたことがありません。


二種深信とは、一つの信心の姿を機と法に開いていわれたものであって、その内容は一つのことを言われているものです。しかし、この論説からも分かることですが、「真実の自己」と「弥陀の本願」の二つの事が知らされると二つの心が同時に起きるのが親鸞会でいう二種深信です。


元々は、自分の姿が知らされるといっても、自力ではどうにもならないところに、自力をたのむ心がなくなり、本願はそういうものを救うと知らされるところに、本願にまかせた状態になるのです。ですから、二つの心が起きるということはなく、説明上は「一つには」「二つには」とあっても一つのことを言われたものです。


「真実の自己がまだまだ知らされないから救われない」「自惚れているから救われない」と会員が、自分自身で会長の教えを忖度して自分を追い込んでいるのが親鸞会の実情です。

親鸞会における忖度

そんたく【忖度】
〖名〗(「忖」も「度」もはかるの意)他人の心中やその考えなどを推し量ること。推量。推測。推察。(精選版 日本国語大辞典

森友学園問題で、報道で一時よく聞かれた忖度という言葉は、親鸞会によく当てはまるものだと思いました。外部からの批判に対して高森顕徹会長はよく「私はそんなこと言っていない」と言います。それは半分正解で、半分間違いです。


なぜなら、今回の二種深信の説明でも、高森顕徹会長は上記の論説にあるような話はしても、「二心並起は間違いだ」という話はしません。それを聞いた会員は「二つの心が同時に起きるのか」と忖度します。それを外部から批判されると会長は「私は言っていない」「会員の聞き間違いだ」と言います。しかし、正確に言えば「私は(誤解のないような話は)言っていない」です。とはいえ、会の中で絶対的存在である会長が、自信をもって「説き切る」訳ですから、会員はよもや「説明していない部分がある」とは夢にも思いません。聞いた範囲から教えも忖度するのが習慣として身についています。


その中でも、どうしても矛盾する内容に関しては、会長が先回りしてまた「救われたらわかること」「進めば分かる」と言うので、会員また「救われない私があれこれと小賢しいことを尋ねるものではない」と忖度して活動に邁進しています。
外部から見て「なぜ親鸞会会員は高森顕徹会長の話を聞いて疑問に思わないのか?」と思う人も多いと思います。疑問は起きるのですが、「そう思うのは自分が未熟だから」と忖度して、まともに会長の教えに向き合わないからです。


各地の会館で今後も落慶座談が行われていますが、もしこのエントリーを読まれた会員で、質問する機会のある方は、今回の内容を尋ねて見て下さい。種々疑問を抱えたまま、活動だけするのが阿弥陀仏の救いへ向かっていると思うのは間違いです。


ただ今救う法を聞いて救われて下さい。

「追い詰められないと救われない」ように親鸞会会員が考える理由(顕正新聞平成29年3月15日号論説より)

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顕正新聞(宗教法人浄土真宗親鸞会の機関紙)平成29年3月15日号の論説(「弥陀の願心を聞く一つ」)を読みました。内容は、最近高森顕徹会長が話した内容をまとめたものですが、親鸞会における阿弥陀仏とその救済についてとても解りやすく書いてあったのでエントリーを書きます。

一部引用では、どういうことが書かれているか親鸞会会員でない人には分かりにくいと思いましたので、文末に全文を転載しています。気になった方は、そちらをご覧下さい。

今回の内容は、平成29年2月に行われた「茨城つくば会館」落慶座談会で高森会長が話したことを要約したもののようです。

特に親鸞会らしいと感じたのは、以下の部分です。

 ここで「摂取」と言われる「摂」はただ「取る」のではなく、「逃げ回るものを追いかけ、逃げ場のなくなったところを救い摂る」という意味がある。それが弥陀の御心だからである。
 親鸞聖人は弥陀の誓願を、人生の苦海に沈む私たちを乗せて極楽浄土まで楽しく渡してくださる「大船」と道破されている。その譬えでいうなら、逃げ続ける私たちを、願船が追い詰め、最後は眼前まで突進して、救い上げてくださるのである。(顕正新聞平成29年3月15日号論説)

摂取についてこのように解説しています。もちろん、そういう意味もあるのでこれ一つを取り上げて間違いだとは言えないのではないかと考える人もあると思います。

こちらのブログにも摂取について紹介されています。
tokuyoshimine.hatenablog.com

しかし、親鸞会にいた人間としてこういう話を聞いた会員は「『逃げ場のなくなったところ』まで私は追い詰められていないから救われないのだ」と考えるだろうと想像出来ます。そして、「まだまだ余裕のある私は追い詰められていない」とか「自分で求めているつもりになっているのは自惚れだ。まだ追い詰められていない」と考えます。

その証拠に、今回の論説の後半にはこう書かれています。

「私は乗りたいと思っている」「真剣に求めている」とうぬぼれているのは、わが身知らずも甚だしい。それを聖人は『正信偈』に、「邪見・憍慢の悪衆生(うぬぼれいっぱいの極悪人)は信楽受持する(大船に乗ずる)こと甚だもって難し」と仰っているのである。(顕正新聞平成29年3月15日号論説)

「助かりたい」とか「真剣に求めている」というのは、本当は求める心もないのに自惚れているのであり、そういう者は助からないと親鸞会会員の多くは理解をしています。

では、どうすればいいのか?

その弥陀の御心(願心)を、よく聞くことが肝要である。(顕正新聞平成29年3月15日号論説)

と、文章を読むと特に変に思われない人もあると思います。しかし、親鸞会会員「弥陀の願心を聞く」とは「高森会長の話を聞く」ことと同義語になっています。

結果として、毎月の親鸞会館(富山県射水市)での高森会長の法話には必ず参詣し、テレビ座談会、各地の会館の落慶座談会、人によっては講師部講義に参加することが肝要であるということになります。

そこまでして、懸命に足を運んだ高森会長の法話や座談会でどれだけ「弥陀の願心」が説かれているでしょうか?少し前では、ほとんどが因果の道理の話だった時もありました。映画「なぜ生きる」が完成すれば、セリフの解説、了顕がどうして仏法を聞くようになったかなど、午前午後と話があってもどれだけ弥陀の願心の話があったでしょうか?参加されている会員の方ならよくご存知のことと思います。

「初めての人の為に因果の道理の話がされている」などという説明が親鸞会の中ではよくされますが、初めての人だからこそ弥陀の願心の話がないのはおかしいです。     


追い詰められていないと救われないと聞かされた会員は、度重なるお布施や毎月の富山参詣で経済的精神的に追い詰められているのが現状です。それを「苦しい」と思うのは、「自惚れだ」と釘を刺されれば、下を向いて歯を食いしばって会長の勧め通りの活動(会長の話を聞く)以外にありません。また、追い詰められているのは自分が正しい道を歩んでいるからだと考えてしまいます。どうして、こう言えるのかといえば私もかつてはそう考えていたからです。

親鸞会の講師部員は、経済的精神的に追い詰められている状態が「正しい求道の姿」であり、逆に追い詰められていない状態、余裕の有る状態、楽な状態にあると「正しい道を外れている」と考えます。

しかし、親鸞聖人は阿弥陀仏は何も追いかけるばかりではないと書かれています。摂取について、最後にご文を紹介します。

最初は、和讃の「摂取」の左訓からです。

【左訓】「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(異本)

https://goo.gl/IEGlLM

次は、一念多念証文より。

摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。

https://goo.gl/mwGtP6

追いかけるばかりではなく「迎へとる」と言われています。

ただ今救うの仰せを、その通りとお受けする人は迎えとって下さいます。逃げるは救いの役に立つと考えるのではなく、本願の仰せをそのまま聞いて救われて下さい。また、「弥陀の願心を聞く一つ(論説)」なのですから、弥陀の願心がない話を聞きに苦労をする必要はありません。

参考までに 顕正新聞平成29年3月15日号 論説 全文

「弥陀の願心を聞く一つ」
「『弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり』 と信じて『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり。」(『歎異抄』第一章)
 有名な『歎異抄』書き出しの「弥陀の誓願」とは、「すべての人を必ず絶対幸福に救う」と言う阿弥陀仏の本願(お約束)のことである。弥陀の本願に助けていただくと、少しも変わらぬ、死ぬまで続く幸福になることを、「摂取不捨の利益」にあずかると表現されている。
 ここで「摂取」と言われる「摂」はただ「取る」のではなく、「逃げ回るものを追いかけ、逃げ場のなくなったところを救い摂る」という意味がある。それが弥陀の御心だからである。
 親鸞聖人は弥陀の誓願を、人生の苦海に沈む私たちを乗せて極楽浄土まで楽しく渡してくださる「大船」と道破されている。その譬えでいうなら、逃げ続ける私たちを、願船が追い詰め、最後は眼前まで突進して、救い上げてくださるのである。
 弥陀のお慈悲で大船に乗せていただくと、必ず浄土へ往ける「往生一定」の大安心になり、その歓喜は永久に変わらない。この無上の幸福になるためにに人間に生まれてきたのだから、弥陀は私たちをなんとか大船に乗せようと、追いかけてくださっているのである。
 ところが私たちは、近くに浮いている生きがいの丸太や板切れを求めることに心を奪われ、大船に「乗ろう」という気はさらになく、逃げに逃げ回っている。
「それでは人間は、苦しむために生きることになる」と、なおさら哀れに思し召す弥陀は、そんな者を追いかけ追いかけ、衆生済度に心休まれる時は一刻もないのである。
 そう聞くと、早く大船に乗りたいと真剣に求めている人は、なぜ自分が「逃げ回っている」と言われるのか、不審に思うだろう。だがそれは、阿弥陀仏がどんな者のために本願を建ててくだされたのか、その御心(願心)が分からないからである。
 例えるなら、こうもいえよう。庭の池の鯉を、湖に放してやろうと思った飼い主が、網で救おうとすると、鯉は死に物狂いで逃げ回る。捕まったら殺されると思い込んでいるのだ。いよいよ逃げ場がなくなって観念した鯉が網にかかり、湖に解放されて初めて、こんな広大で自由な世界に出そうとしてくれたのかと、感激するようなものである。
「助けよう」と思う人間と、「殺される」と逃げ回る鯉とでは心が反対なのは、境界が全く違うからだ。まして人間と阿弥陀仏では、無限の隔たりがあるから、「逃げている」自覚もなしに、命がけの弥陀の願心の疑い、御胸に五寸釘を打ちつける、恐ろしいことを思い続けているのである。
 弥陀は古今東西すべての人間を、欲や怒り、妬みそねみの煩悩の塊で、まことのカケラもない者と見抜かれている。十方衆生(すべての人)には、真実を見る目もなければ聞く耳もない。まことの阿弥陀仏の造られた「大悲の願船」は真実の船だから、私たちには見えないし、信じる心もなければ、「乗りたい」という心もない。
 そんな者だからこそ阿弥陀仏は、かかる煩悩具足の衆生を救うと言う本願を建立され、大船を造ってくださったのに、「私は乗りたいと思っている」「真剣に求めている」とうぬぼれているのは、わが身知らずも甚だしい。それを聖人は『正信偈』に、「邪見・憍慢の悪衆生(うぬぼれいっぱいの極悪人)は信楽受持する(大船に乗ずる)こと甚だもって難し」と仰っているのである。
「助かりたい」心は微塵もない我々だからこそ、阿弥陀仏のほうから、「助けさせてくれよ
」「任せてくれよ」と手を突いていておられるのだ。その弥陀の御心(願心)を、よく聞くことが肝要である。

 大悲の願船に乗せていただいた一念に弥陀の広大なお慈悲が知らされ感泣、懺悔させられる。その一端を歌ったのが、「信心数え歌」である。
 四ツとせ
 能く能く御慈悲を聞いて見りゃ、
 助くる弥陀が手を下げて、
 任せてくれよの仰せとは、
 ほんに今迄知らなんだ。
    (F)

親鸞会のアニメ映画「なぜ生きる」への傾斜とその影響を考える

現在親鸞会では映画「なぜ生きる‐蓮如上人と吉崎炎上‐」に全力を傾けています。昨年5月の完成以来、全国での映画館上映のあと、公式HPでは掲載されていないながら、各地の公民館などで映画上映が続いています。中には寺で上映会が行われるところもあるそうです。
nazeikiru-eiga.com

とはいえそれだけならば、過去に親鸞会で行われてた「イナヅマ作戦(本願寺なぜ答えぬの頒布)」や「光作戦(アニメ世界の光親鸞聖人シリーズの頒布)」とそれほど変わりません。しかし、今回の特徴は、映画「なぜ生きる」の扱いが、かつての著書やアニメより重いことです。言い換えれば、映画「なぜ生きる」が、お聖教より上の扱いをするようになっています。
その証拠に、映画「なぜ生きる」が公開されて以降、高森顕徹会長の座談会は全て「映画なぜ生きるの中の○○というセリフの意味は何でしょうか?」というものになりました。
それに答えるのは、映画の脚本を作成した高森顕徹会長です。その質問にどう答えたとしても、作者の答えが正解となります。たとえ、その回答が親鸞聖人のいわれなかったことであったとしてもです。
そこで、この映画「なぜ生きる」完成にあたって、親鸞会の中での大きな教義的な優先順位が変わったことが分かります。


映画完成前
お聖教>高森顕徹会長の言葉

映画完成後
映画(高森顕徹会長の言葉)>お聖教
これから分かる事は、親鸞会ではいつの間にか、お聖教(親鸞聖人の書かれたもの)よりも、映画「なぜ生きる」(高森顕徹会長の書いたもの)の方が権威が高いことになっています。
このようにしたのは、誰でもない高森顕徹会長ですが、その理由を想像するのは簡単です。
ここから遠くない将来に、高森顕徹会長が会員の前で毎月何回も話をすることは難しくなります。そうなった時に、親鸞会講師の誰が親鸞会館での法話やテレビ座談会で多くの会員の前で話をすることになります。
しかし、ここで大きな問題があります。それは会員の多くはよく知っていることですが、現会長の代わりに話ができる人がいないという問題です。


なぜなら、親鸞会講師は高森顕徹会長から「このご文はこういう意味だ」と聞いた以外に、自分の目と頭でお聖教を読んだことがないからです。そのため、高森顕徹会長が解説したご文以外のお聖教に関しては、まったく答えることもできません。また、高森顕徹会長が解説した部分に関しては、仮にどれだけ間違っていたとしても、それを認めようとはしません。これでは、「浄土真宗の正統」を看板に掲げる「宗教法人浄土真宗親鸞会」としては、まさに看板倒れになってしまいます。座談会はもちろん、法話もまともに開催できるかどうか甚だ疑問です。高森顕徹会長が会長の座をいつまでも譲らないのも、本人の性格以上に親鸞会の現状がそのような形になっているからです。


しかし、映画「なぜ生きる」の解説を、高森顕徹会長が話をしなくなった後に親鸞会講師が話をするとなったらどうでしょう。
仮にどんな解説(真宗教義的には疑問がある解説)をしたとしても、「脚本を書いた高森顕徹会長がこういわれていた」ということで親鸞会の中では正当性を保つことができます。とはいえ、これは考えて見るとおかしな話です。
浄土真宗の法話ということであれば、あくまでその根拠は親鸞聖人が書かれたものになければ成りません。親鸞聖人の教えはこうです、その根拠は「映画なぜ生きるです」では、話が通じません。しかし、その話が通じないことをしつつあるのが今の親鸞会です。
浄土真宗親鸞会」の看板を掲げて「親鸞会館」で法話や座談会を行い、そこで話をしていることは「これが本当の親鸞聖人のみ教えです」と言いつつ、その根拠を尋ねられると「映画なぜ生きるにこうあるから」と言っています。 


つまり、親鸞会では「親鸞聖人の教え」の根拠が「高森顕徹会長の作った『映画なぜ生きる』」にあるということです。はたしてこれを、浄土真宗の団体と言えるでしょうか?
キリスト教系の新宗教では、聖書に書かれていることの本当の意味はこの「教祖」の書いた本に書かれていると言っているのと大差はありません。
また、それらのキリスト教系の新宗教を信じている人は、「自分こそ本当のキリスト教を信じているもの」と言っています。それって、親鸞会の言っていることとよく似ていませんか?


外部からの批判を逃れ、自らの正当性を守るために行き着いたのが「根拠は映画『なぜ生きる』(脚本 高森顕徹会長)」です。しかし、会員歴の長い方はこれについて思い当たることがあるのではないでしょうか?
たとえば、教義的な疑問で、かつ高森顕徹会長が法話で言及しなかったことを、担当講師(支部長)に質問したとき、ほぼ100%「高森先生に聞いてきます」と言われたことないでしょうか?少なくとも、私が親鸞会講師部員だったころの講師部講義の質問は「会員からこんなことを聞かれたのですがどう答えたらいいでしょうか?」というのが大半でした。そうして、高森顕徹会長から回答されて初めて担当講師は、会員の教義的質問に答えられるという状況でした。
しかし、将来を考えると高森顕徹会長がそうやって回答出来る時間も限られてきます。そうなると、とるべき手段はそもそも質問がでる範囲を絞ることになります。最初にも書きましたが、最近の親鸞会の座談会や法話は映画「なぜ生きる」の内容についてです。機関紙を見る限りでも、もう質問することがなくなったのか、同じ内容が繰り返されている印象です。それもそのはず、映画「なぜ生きる」の蓮如上人のセリフと言っても文字数にすればそれほど多くある訳ではありません。まして、会員にとって知りたい部分は限られています。


未来の親鸞会を考えて見ると、会員は映画「なぜ生きる」の内容からしか質問を出せず、回答する親鸞会講師も過去の高森顕徹会長の回答をもってきて話をするだけという、長年の会員以外は聞くに堪えない話になることは目に見えています。
そうなると、高森顕徹会長が引退後に今の親鸞会を存続させるための映画「なぜ生きる」への傾斜が、皮肉なことに親鸞会そのものに止めを指すことになります。それもそのはずで、高森顕徹会長をそもそも知らない(あまり知らない)今後の入会者からすれば、「これが浄土真宗の教えです!根拠は映画『なぜ生きる』」と言われても、かつてのように「これぞ本当の浄土真宗」と思う人はありません。


「一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。」(御一代記聞書)
数年前の支部長会議で高森顕徹会長が、「信がなくても布教は出来る」と参加した講師部員に話をしたのが、親鸞会の終わりの始まりだったのだと今は思います。
親鸞会講師の方へ、映画なぜ生きるを見ることよりも、手元のお聖教を拝読することをお勧めします。

親鸞会会員がなぜ信心決定を半ば諦めているか。その心情がとてもよく書かれてる顕正新聞平成29年2月1日号論説を読んで思ったこと。

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親鸞会機関紙の顕正新聞平成29年2月1日号を読みました。
今回は、そのなかの論説について書きます。

顕正新聞の「論説」は、一般紙における「社説」のようなものです。その時々の親鸞会の公式見解を書く欄と成っています。とはいえ、ほとんどが最近の高森顕徹会長の話の要約です。しかし、今回は珍しくネット上の批判に対しての反論をしていました。

そのネット上の批判は、おそらく以下のものだと思われます。
hiun.cocolog-nifty.com

これに対して、高森顕徹会長が話をしたことを、まとめたのが今回の論説です。
今回に関しては、全文を紹介したいと思います。その理由は、批判を受けてつい親鸞会会員の本音を書いたものと感じたからです。

では、以下に今回の論説を紹介します。

平成29年2月15日(水)顕正新聞3面 論説
如来(釈迦)、世に興出したまう所以は、唯、弥陀の本願海を説かんとなり」(正信偈
 釈迦一代の教えは「弥陀の本願」ただ一つと、親鸞聖人は断言されている。「弥陀の本願」とは、「すべての人を信楽にせずばおたぬ」という、阿弥陀仏の命を懸けられたお約束である。
 全人類を弥陀の誓われた「信楽」まで導くことが釈迦の唯一の使命であり、仏法を説かれた目的はこれ以外なかった。その「信楽」とは後生明るく楽しい、永久に変わらぬ大安心大満足の心であるが、今日の言葉でいえば「絶対の幸福」であり、相対的な人間の言葉で表しきれるものではない。 スイカの味でさえ、食べたことのない人には、「甘い」「みずみずしい」など、どれだけ単語を連ねたところで、分からせることは不可能だろう。まして、無量無限絶対の大宇宙の功徳を阿弥陀仏から全領した「信楽」を言葉で表現することなど、絶望の連続である。
 だが衆生を教導するには、「言葉」で伝える以外、手段はない。そこで釈迦が、「信楽」一つ分からせるために、こう言ったら分かろうか、こちらの面から説明しようか、別の角度から教えようかと苦心惨憺された結果、とうとう七千余巻の膨大な一切経となったのである。それでも大雄弁の釈迦自ら、百千万劫かかっても説き尽くすことができぬと告げられている。親鸞聖人は九十年の生涯、「信楽」一つ説かれるために、主著『教行信証』六巻をはじめ、幾多のお聖教を書き残された。筆の勢いは全く衰えず、最後の著作は八十六歳でのご制作だった。特に『教行信証』は終生、手元に置かれて推敲を重ねられたが、とどのつまりは、
「ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽なり」 (『教行信証』)
 心も言葉も絶えた「信楽」は、ただ不可説(説けない)と言うよりない。これが『教行信証』の結論だった。
 説けないならなぜ、善知識方は布教伝道に生涯を貫かれたのか。ある有名な先人は、「合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、きけば合点ゆく教え」と言っている。
 仏法は三世十方を貫く「因果の道理」に立脚しているから、古今東西すべての人が合点(納得)できる教えなのだ。だから求める者は、まず合点するまで、教法をよく聞くことが大事である。また説く者も、相手が納得するまで、説き続けなければならない。
 合点を通らず、教えがどちらに向いているか分からぬ者が、どうして信楽の決勝点まで進めようか。釈迦が生涯、因果の道理を説かれたのも、「不可説」の「信楽」まで導くためだったのである。
 だが「合点」は、あくまで教えを「知った」「覚えた」通過点であり、真実の信楽ではない。不可思議の顔力に値い、合点も納得も、自力は一切、往生に間に合わなかったと知らされ、「不思議不思議のほかはない」他力になるまで他力を聞き抜こう。

長々と書いてありますが、三行でまとめますと、こうなります。

  • 信楽は言葉で表せない。
  • だから、聞いても分からない。
  • 取り敢えず合点するまで頑張ろう(合点も出来ないけど)

です。

三行にまとめると、全く意味不明な文章になることがよく分かります。私もまとめてみて驚きました。しかし、この意味不明な文章こそ親鸞会会員の共通した本音なのです。

親鸞会に在籍したことのない方に説明しますと、親鸞会における「信心」はまさに今回の論説に書き尽くされているものです。といいますのは、親鸞会における「信心」または「信心決定した体験」は「言葉でいいあらわせないもの」であり「なってみないと絶対に分からないもの」とされています。そのため高森顕徹会長の話が、どれだけ「変なもの」であったとしても「言葉で言い表せないものを言われているのだから、信心決定していない私が分からないのは当然だ」と考えてしまいます。むしろ、理解出来ない話である程有り難いと感じるのが親鸞会会員です。

言い替えると、高森顕徹会長の話を聞かねば救われないのだけれども、お釈迦さまでさえ説き尽くせなかった事だから、聞いただけでは絶対に分からないのが「信楽」である。ということです。

ですから、「善知識高森顕徹会長の話を聞かねば信心決定できない」といいながら、「善知識高森顕徹会長でも説き尽くせないのが信心決定した世界だ」ということです。それにも関わらず合点せよとは全く意味がわかりません。なぜなら説いていないこと(聞いてないこと)を合点できる筈はないからです。

そうなると、仮に「善知識高森顕徹会長でも説き尽くせない信心決定した世界」に出た人がいたとしたら、どういう感想をまずいうでしょうか?ダチョウ倶楽部ではないですが「聞いてないよ〜〜!!!」となるのが普通です。なぜなら、「説き尽くせなかったこと(説いてないこと)」を体験するのですから、聞くがわからすると「聞いてないよ〜!!」というしかありません。


しかし、親鸞聖人は「聞いてないよ!!」とは云われていません。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証総序)
(現代文)
誠なる仰せではありませんか、私たちを摂め取って捨てぬとの真実の言葉、世にたぐいなき正法は。この真実の教えを、はからいなく聞き受けて、決して疑いためらってはなりません。

https://goo.gl/wmlHtK

親鸞聖人は「誠なるかな」といわれています。言い替えると「聞いてた」「聞いてた通りだった」ということです。


親鸞聖人の教えには「説かれてない秘密」はありません。
それはお釈迦さまの教えもそうだからです。お釈迦さまの教えには秘密はありません。

「アーナンダよ、修行僧たちは、私に何を期待するのか?私は内外の隔てなしに、ことごとく法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような、教師の握り拳は存在しない」(ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

お釈迦さまが、お弟子のアーナンダ(阿難尊者)にいわれたように、説かれなかったような秘密はありませんでした。

「世尊によってよく説かれた法は、現に経験されるものであり、即時にあらわれるものであり、いざ見よというものであり、(涅槃経に)導くものであり、それぞれ智者によって知らるべきものである。」(『長部経典』「大般涅槃経」)仏教と気づきより

ここで言われていることは、お釈迦さまの教えられたことは、誰にでも見ろといわれれば見ることが出来るものです。それを明らかにされたのがお釈迦さまだということです。ですから、仏教には師匠の握り拳のような秘密はないと仰っています。


親鸞聖人が明らかにされた信楽は、何かといえば「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」です。阿弥陀仏が、なぜ私を助けようとされたのか、またどうやって私を助けようとされているのか、南無阿弥陀仏一つで救うということは、親鸞会会員でも聞いていることです。それを聞いて疑い無いとは「南無阿弥陀仏で救って下さるとは本当でした」ということです。とても「聞いてないよ!」とはいえないことです。


今回の論説で分かる事は、「心も言葉も絶えた「信楽」は、ただ不可説(説けない)と言うよりない。これが『教行信証』の結論だった。(論説より)」とあるように、説けない(説いていない)ことが分かるのが信心だというのが、親鸞会でいう「信心」です。


補足の意味で言いますと、「不可称」とは「褒めることができない」という意味です。なぜなら、阿弥陀仏のことを本当に褒めることが出来るのは、仏でないと出来ないからです。人間には、仏の徳を本当の意味で知ることは出来ませんから、不可称と言われます。「不可説」とは、同様に仏でないと説くことは出来ないということです。「不可思議」とは、人間の分別を離れたことということです。


もちろんこれらのことを、正確に説くことはできません。ただ、「南無阿弥陀仏が救って下さる」ということは説くことができます。だから、親鸞聖人もそれを説き続けられました。親鸞聖人の師匠の法然聖人もそう説き続けられました。だから、親鸞聖人は「誠なるかな、摂取不捨の真言」と言われています。


摂取不捨の阿弥陀仏の仰せは、聞いた通りだったと言われています。決して「聞いてないよ!」ではありません。その意味で、お聖教に書かれていることは、全部そのままであって「秘密」は一切ありません。


親鸞会会員、「高森顕徹会長でも説き切れない何か」を聞く為に、毎回真剣に会長の話を聞いている訳ですが、そんなものはなにもありません。もしあるとするならば、それこそ高森顕徹会長が意図的に説いていない「教師の握り拳」ということになります。それは、浄土真宗では秘事法門といわれるものです。

真宗に秘密はありません。聞いたまま、説かれたままが、その通りと聞き入れるのが信心です。聞いてもいなかったことがある日なぜだか分かってビックリするような信心は、真宗では秘事法門といわれることはあっても真実信心とはいいません。

親鸞会における「弥陀の救いは『そのまま』」を読んで思ったこと(親鸞会機関紙顕正新聞平成29年1月15日号より)

親鸞会機関紙顕正新聞平成29年1月15日号を読みました。以下、思ったことを書きます。
その中で、平成28年末のテレビ座談会の内容に関する論説と、法友通信から紹介します。
論説は、「すべての人は五逆、謗法、闡提」といつもの文章を掲載していました。

すべての人は、大宇宙の諸仏から「助ける縁なき者」とさじを投げられた極悪人と、蓮如上人は仰せである。これは釈迦の教説であり、かかる永久に救われぬ極悪人を、経典には「五逆「謗法」「闡提」の者と説かれている。
(顕正新聞平成29年1月15日号3面論説)

ここで、語句説明として、欄外に出てきますが、なぜか「闡提」は載っていません。
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考えてみると、親鸞会では「十悪五逆」と「謗法」については、それを自覚せよとやかましく根拠もあげて言います。しかし、「闡提」については、根拠らしいこともなく、今回掲載されていたような内容しかありません。

三番目の「闡提」とは、真実をはねつける心である。どれだけ因果の道理を聞いても、少しも罪悪はやまらない。恐れながら悪を犯すのではなく、地獄覚悟で悪に走っているのではないか。
今宵も知れぬ命といわれても、まだまだ死なぬと、のんきに構えている。
(同上)

これ以下は、こんなことが知りたいのコピーの作文が続きます。
これでは、闡提の説明としては不十分です。そこで、闡提の意味については浄土真宗辞典から紹介します。

いっせんだい 一闡提 
(略)また、断善根・信不具足などと意訳する。世俗的な快楽を追求するのみで、正法を信じず、さとりを求める心がなく成仏することのできない衆生のこと。浄土教では、これらの者も回心すれば往生することができると説く。『法事讃』には「謗法・闡提、回心すればみな往く」(信巻引文 註303)とある。(浄土真宗辞典

闡提とは、元々仏法を信じない人のことで、さとりを求める心もない人のことです。ですから、親鸞会で言えば正月から親鸞会館に来るような人は闡提ではないということになります。このように、闡提については正確にいえば言うほど、熱心な会員からすると「身に覚えの無いこと」となるので、「まだまだ死なぬと、のんきに構えている」と話をすり替えます。また、心当たりのありそうな十悪や五逆、謗法の話を強調します。
またテレビ座談会で高森顕徹会長は、「五逆・謗法・闡提の者をそのまま乗せる」と説明していたそうです。

法友通信 弥陀の救いは「そのまま」
映画『なぜ生きる』で蓮如上人は、「阿弥陀仏が、そんな者をそのまま乗せて、必ず弥陀の浄土まで渡す大きな船を造ったのだよ、と仰せです」と教えておられます。「そのまま」とはどんなことか、昨年末のテレビ座談会(12/19)のご教導を、法友通信の手紙から振り替えりましょう。
十方衆生の姿は 特専部(弁護士)U
阿弥陀仏は、五逆・謗法・闡提の者をそのまま乗せると誓われていると聞かせていただきました。
私たちは手にかけて殺さずとも、心で大恩ある親を殺しています。また、口に出して謗らずとも仏法を軽んじて謗法罪を造っています(略)
逆謗闡提をそのまま 特専部(弁護士)M
「そのまま」とは、五逆・謗法・闡提の難化の三機を、そのまま阿弥陀仏が大船に乗せてくださるということだと教えて頂きました。(略)
(顕正新聞平成29年1月15日号6面)

上記に転載した浄土真宗辞典にもありますが、「謗法・闡提、回心すればみな往く」ですから、回心しないと往生はありません。そういう意味では「そのまま」ではないのです。

今回の記事を読んで、また私が親鸞会高森顕徹会長から聞いていた話からすると、会員は今回の話を「五逆・謗法・闡提と自覚できたらそのまま救われる」と理解したようです。しかし、それでは文字通りの「そのまま」ではありません。「そのまま」とは、言い換えれば「今の姿そのまま」ということですから、罪悪に付いての自覚が深くない人は、深くないままということです。「そのまま救う」というのは、親鸞会会員にとっては「このまま」ではありません。「このまま」では駄目だから、求道を必死でしています。
しかし、「回心すればみな往く」ですから、我が身の姿として「そのまま」が「どのまま」なのか、「このまま」と問題にするよりも、回心することが大事です。親鸞会は、「信心」とやかましく言っている割には、よくよく聞いて見ると「信心(回心)」ではなく、自分の姿しか話をしていないのが実態だということが、今回の記事にもよく現れています。

本願文で「五逆誹謗正法」の話をしているときは「至心信楽欲生我国 乃至十念」の話をしないのが高森顕徹会長です。「五逆誹謗正法」の者も、本願を聞き入れ「至心信楽欲生我国 乃至十念」するものは、必ず浄土に生まれさせるというのが阿弥陀仏の本願です。
「そのまま救う」というのを、「五逆・謗法・闡提と自覚できたらそのまま救われる」ではありません。今回の法友通信にも論説にも、日ごろ強調する信心の話が全くないところに、高森顕徹会長の話がその場その場で適当なことを言っていることがよく現れています。
「映画『なぜ生きる』の徹底」が、新春大会の標語だったと新聞に掲載されていましたが、こんな映画を100回覩て祝賀会を温泉でする時間があったら、論説に一部しか引用されていなかった御文章2帖8通を、最初から最後までよくよく拝読することをお勧めします。

「難度海を度する大船」の厳存と「その乗り方」が、宝くじが当たるコツを言っているような違和感について(親鸞会機関紙顕正新聞平成29年1月1日号より)

顕正新聞 親鸞会機関誌より

前回のエントリーにも書きましたが、親鸞会機関紙顕正新聞平成29年1月1日号の年頭所感(高森顕徹会長)にある以下の文章について、書きます。

親鸞聖人の「教行信証」には「難度海を度する大船」の厳存と、「その乗り方」以外に記されてはいない。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/01/01/075142

この表現は、親鸞会会員には耳なじみのあるものです。平成13年に発刊された「なぜ生きる」からずっと高森顕徹会長が使い続けている表現だからです。
なぜ生きる
しかし、「難度海を度する大船の厳存」はいいとしても、「その乗り方」というのには、大変な違和感があります。なぜなら、映画「なぜ生きる」の表現で言えば、難度海に溺れているのが私たちで、それを助ける船が「難度海を度する大船」とすると、「船がなぜ出来たか」「船はどうして造られたか」「船はどうやって溺れている人を助けようとしているか」が書かれているのが教行信証だからです。どこにも「乗り方」は書かれていません。「乗った」とか「乗ったらこうなった」という内容はあっても「私の乗り方」はどこにもありません。
それは、海上保安庁がどうやって海難事故にあった人を救助するかを書かれた文章の中に、「救助のされ方」が記載されていないのと同じです。


このような説明では、納得されない親鸞会会員の方も多いと思います。そこで、この表現の違和感に似たものを、先日NHK Eテレ放送「ねほりんぱほりん」から「1億円当選者まとめ」で見つけたので紹介します。


こんな番組です。
www4.nhk.or.jp

「顔出しNGの訳ありゲストはブタに、
聞き手の山里亮太とYOUはモグラの人形にふんすることで
「そんなこと聞いちゃっていいの~?」
という話を“ねほりはほり”聞き出す新感覚のトークショー。
作りに作り込んだEテレお得意の人形劇と、
聞いたこともないような人生の“裏話”が合体した
人形劇×赤裸々トークをお楽しみください!(NHK番組情報より)

そこで、過去に宝くじで1億円当選した人が登場する回で、当選するコツを当選者が語っていました。
そこからいくつか紹介します。
www.nhk.or.jp

【山里】何かこう、当せんにつながる、そういうのあったりするんですか?

【ユキコ】日ごろの行いが一番大事なことで

家の近所にゴミが落ちてたりとか、落ち葉が散らかってたりした時に、

ま、拾ったりとか、あるいは、倒れた自転車をちょっとこうね、普通に…

【YOU】わかるわー。

【ユキコ】立て直すとか。

http://www.nhk.or.jp/nehorin-blog/100/257542.html

【ユキコ】後は、ご老人の方が道を聞かれる時とかもあるんですけれども、

親切にわかりやすく、道案内をして差し上げるですとか。

【山里】はあ。

【ユキコ】ちょっとした本当の親切なんですけども。

【YOU】そーかー。

【ユキコ】まあ、いろいろみなさん、やってらっしゃると思うんですけれども、

私は自分をですね、信じるということですよね。

必ず当たる強い気持ちで買いに行かなければ。

【YOU】へぇ~

【山里】へぇ~、精神論なんだぁ。

http://www.nhk.or.jp/nehorin-blog/100/257542.html

ここで当選者が語っているのは宝くじの「当て方」です。「日ごろの行い」「親切にする」「必ず当たる強い気持ちで買いに行く」と言っていますが、これで当たると皆さん思われるでしょうか?親鸞会会員の多くの方は、宝くじを買うこともないでしょうから「そんなことで当たる筈がない」と思われると思います。
では、なぜ「そんなことで当たる筈がない」と思われるのでしょうか?それは、これらのコツと宝くじ当選は何も関係がないからです。実際に、宝くじに当たるかどうかは、買ったかどうかであって買う前の行為には関係しません。

しかし、親鸞会会員の方が、難度海を度する大船に乗るための乗り方として「日ごろの行い」「親切にする」「必ず乗る強い気持ちで高森顕徹会長の話を聞きに行く」を心がけているのではないでしょうか?

「こういうことをしていればいつか助かるのではいだろうか?」
「強い気持ちで法座に臨まねば」と思っているのは、宝くじのあたるコツを心がけている人と何もかわりません。宝くじならコツといいますが、宝くじが当たるような気持ちでそれを阿弥陀仏の救いにもっていくと、自力と親鸞聖人はいわれます。

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。 (一念多念証文)

https://goo.gl/njfyWA

この自力は、ここでいえば「精神論」であって、実際のところ阿弥陀仏が私を助けるに当たっては関係がありません。なぜなら阿弥陀仏は、自分の力で難度海をわたることが出来ないものを助けるのであって、日ごろの行いや精神論を持っている人だけを助けることはないからです。


もちろん宝くじと違い、阿弥陀仏の救いは、私を助けようと働いて下さいます。それに対して宝くじは、私に当てようと働いたりはしません。

阿弥陀仏は、私を助けるために働いておられます。私の方では、その乗り方はありません。もし、そんな乗り方があるという話を聞いた時は、上記の宝くじの当たるコツと比べて見て下さい。言葉を変えたところで「大船の乗り方」というのは、親鸞会自身が否定し続ける「助かるコツ」と意味は同じです。「助かるコツなんてない!」と強弁する人もあるでしょうが、その実は宝くじ当選者の「精神論」と変わらないことに気がついて下さい。それこそ「助かるコツ」以外のなにものでもありません。


南無阿弥陀仏の救いに「助かるコツ」はありません。ただ今救う本願に、ただ今救われます。

平成29年親鸞会機関紙顕正新聞・年頭所感「大悲の願船に乗じ難度海を普く照らそう」(高森顕徹会長)を読んで思ったこと。

顕正新聞 親鸞会機関誌より

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宗教法人浄土真宗親鸞会機関紙「顕正新聞」平成29年1月1日号一面より。福井県の吉崎御坊(親鸞会)からの写真。※細かい事ですが、これだけ大きな写真を載せるのなら、説明が必要です。)

年頭所感は「高森顕徹会長から会員への年賀状」

親鸞会会員にとって、顕正新聞1月1日号はいつもの機関紙とは異なります。なぜなら、この1月1日号には高森顕徹会長直々の文章「年頭所感」が掲載されるからです。法話や座談会、一万年堂出版の著作以外に、高森顕徹会長が文章で会員に何かを発信することはこの年頭所感以外には基本的にありません。そのためこの年頭所感は「高森顕徹会長からの年賀状」ということで、会員は封筒に入れて配布された顕正新聞は、1月1日まで開封してはいけないことに成っています。
私も会員だった当時は、1月1日に封をされた茶封筒を恭しく開封して毎年の年頭所感を読んでいました。それだけでなく、高森顕徹会長の年頭所感に関しては講師部員は「覚える」ことが指示されており、何回も読んで記憶をしていました。年初めの「初聞法会」(富山県親鸞会館で開催)の前日に行われる新春大会では、その年頭所感を覚えた会員が高森顕徹会長の前で暗誦するというのが一つの恒例となっていました。


それだけにこの高森顕徹会長の年頭所感は、その一年の親鸞会の方針を会長自らが発信するものとして、重要視されていました。ところが、高森顕徹会長が平成13年に「なぜ生きる」を発行して以降は、ほぼ一万年堂出版での会長の著作の一部を転載する形になっていました。しかし、今年に関しては珍しく著作からの転載ではない形式になっていました。とはいえ、その内容を一言で言えば、いよいよ余裕がなくなり内向きになって来た親鸞会の内情を示すものでした。以下、それについて書いて行きます。

「難度海を度する大船」の厳存と、「その乗り方」?

冒頭から

親鸞聖人の「教行信証」には「難度海を度する大船」の厳存と、「その乗り方」以外に記されてはいない。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

とありますが、これは間違いです。正しくは、「難度海を度する大船に阿弥陀仏がどうやって私を乗せるかの乗せ方」が記されているのが教行信証です。
そのため

あの大船にどうすれば、乗せてもらえるのか。人類の最も知りたいこの問いに、答えられたのが親鸞聖人である。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

というのも間違いです。

聞法は「命かけて聞け」(年頭所感の小見出し

その後続く年頭所感は、とにかく「命かけて聞け」で貫かれています。

たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、そのなか押して南無阿弥陀仏のいわれを聞く人は、永久に変わらぬ幸せに救われるのである。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

とありますが、この年頭所感には「南無阿弥陀仏のいわれ」はどこにも書かれていません。「南無阿弥陀仏のいわれ」の語はこの一箇所だけです。

無常と罪悪を凝視して(年頭所感の小見出し

そして

“無常と罪悪にせめ立てられて、仏法は聞きなさいよ”と教誨された道綽禅師の例えである。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

と「命がけで」とは「無常と罪悪にせめ立てられて聞く」ことだとしています。現状として自身の無常(年齢によるもの)と罪悪(法を曲げること)に全く目を向けない会長が、「南無阿弥陀仏のいわれ」も言わずに「聞きなさいよ」と言っても説得力はまるでありません。


会長のお見舞いは「聞法」とはいいません。

最後は、以下の文章で今年の「年頭所感」は終わっています。

それを蓮如上人は、こう教えられている。
「誰のひとも、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」(白骨の章)
今日までの無事が、明日の安全を保証してくれないことを肝に銘じて、真剣な聞法に身を投じ、大悲の願船に乗じて、難度の海を遍く照らす、輝く親鸞学徒の年に生きよう。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

ここでは「阿弥陀仏を深くたのみ」も「念仏申す」も全く説明がありません。ただ「今日までの無事が、明日の安全を保証してくれないこと」(ここでは後生の一大事)しか説明がないのが、高森顕徹会長の話の特徴が顕れています。それで「難度の海を遍く照らす、輝く親鸞学徒」なんでしょうか?むしろ、自身が築き上げた親鸞会が「今日までの無事が、明日の安全を保証してくれない」ことを不安に思い、「命かけて聞け(命かけて親鸞会館に来い)」としているのが、今年の高森顕徹会長の会員へのメッセージです。

まとめ

会長を安心させるために親鸞会館に命かけて来いというのが、今年の年頭所感の骨子のようですが、この記事を読まれた会員の方に申し上げます。貴方は「会長を安心させるため」に会館に足を運んでいるのでしょうか?それとも「自身の後生の一大事をこころにかけて」足を運んでいるのでしょうか?

前者は、会長の見舞いか介護です。後者は聞法となりますが、肝心の「法」がなければ「聞法」ではなく「聞『よくわからない話』」にしかなりません。


長年の会員からすれば、親鸞会館に足を運ぶのは「会長が元気かどうかの見舞い」になっているのでしょうが、それを「命かけて見舞いに来い」と言っているのが高森顕徹会長です。そのため、それに嫌気が差して会を辞める人も増えているのではないかと思います。
少なくとも、「ワシを見舞え」「命かけて見舞え」と言う人は、「善知識」ではありません。「阿弥陀仏をふかくたのめ」と「南無阿弥陀仏のいわれ」を勧める人が善知識です。
年も改まり、親鸞会館の初聞法会に行く人もあるでしょうが、年明け早々お見舞いのために足を運ぶのでしょうか?(お見舞いそのものが悪いとはいいません)それとも法を聞きたいのでしょうか?年始に考えてみて下さい。
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