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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

映画「なぜ生きる」の感想(4)「なぜ生きる」は「親鸞聖人教え」と違うたった一つの理由

映画「なぜ生きる」の感想も4回目となりました。
以前のエントリーでも書きましたが、親鸞会では「映画『なぜ生きるー蓮如上人と吉崎炎上ー』」が聖典となり、各地の親鸞会講師が行う勉強会もそれ一色です。いかに映画を見る為に劇場に足を運ぶ人を増やそうかと、シナリオブックの輪読と解説をしています。
こういうことから「なぜ生きる」が、親鸞会教義の中心なったことは疑いありません。
私も親鸞会にいたころは、「親鸞聖人の教えは全て『なぜ生きる』に書かれている」と聞かされていました。
そこで親鸞会を離れた後、「なぜ生きる」に書かれている内容のどこがおかしかったのかについて何回かブログに書いたこともあります。
現在、本の内容のここがおかしい、このご文の解説はおかしいというのは、ネット上には沢山出ています。しかし今回は、個別のことよりも、そもそも「なぜ生きる」のタイトルが表す意味と親鸞聖人の教えは本当に関係があるのかについて書きます。

結論からいうと「なぜ生きる」のタイトルと親鸞聖人の教えは全く違います。言い替えると、親鸞聖人は「なぜ生きる」を教えられた方ではありません。


こう聞くと、親鸞会会員の方は驚きます。なぜなら、いつのまにか親鸞会では「なぜ生きる=親鸞聖人の教え」となっているからです。以前の大会スローガンにもそれは端的に出ています。
「なぜ生きる 開顕一つに命を燃やす 親鸞学徒の使命果そう」
これは、「なぜ生きる」を多くの人に明らかにするのが、親鸞聖人の教えを聞いている者の使命だと言っています。平成13年に「なぜ生きる」が出版されてから、親鸞会は「なぜ生きる」一色になりました。


では「なぜ生きる」とは、なんなのでしょうか?映画「なぜ生きる」シナリオブックより引用します。
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『なぜ生きる』の答えを知れば、勉強も仕事も「このためだ」と目的がハッキリしますから、すべての行為が意味を持ち、心から充実した人生になります。病気がつらくても、人間関係に落ち込んでも、競争に敗れても、「大目的を果たすため、乗り越えなければ!」と“生きる力”がわいてくるのです。(映画「なぜ生きる」パンフレットP9ー著者から映画に寄せて 精神科医 明橋大二

これを読んで、違和感を感じないでしょうか?
とはいえ、かくいう私も以前は違和感を感じていませんでしたので、大上段に構えていうつもりはありません。


上記の文章の内容は、私が大学入学時に、親鸞会から勧誘された時に聞いた話であり、また、私も偽装勧誘で多くの人に言ってきた言葉です。


でもこれって、親鸞聖人の教えでしょうか?
親鸞聖人の教えは、病気に例えると「病気は治ります。治す医者も、薬も完成しています」というものです。それに対して親鸞会の「なぜ生きる」は「病気になったことにも意味があります」です。苦しみと言い換えれば、親鸞聖人の教えは「苦しみの解決」であり、親鸞会は「苦しみに意味を与える」というものです。


そもそもの話として、親鸞会会員は、「苦しみから救われる」ことを望んで親鸞会に入ったのでしょうか?それよりも「苦しまねばならない理由を知りたい」という人が多いように感じます。

どのみち苦しみの人生ならば、意味のあることで苦しみたいという諦めが親鸞会会員を活動にかりたてる動機になっています。別の言い方をすれば「どうせ死ぬのになぜ生きる?」と考え、死ぬ意味を見つけた人たちの集まりが、現在の親鸞会です。


これでは、最初から救われることを求めていないのですから、親鸞会会員に「救われた」という人があまりいないのも当然です。ですから、「救われない人生にせめて意味を見いだしたい(見いだした)」人は、救いがあると言っても耳を貸しません。なぜなら、本人が救いを求めていないからです。その「救われない人生にせめて意味を見つけた」結果が、「高森顕徹会長のいう親鸞聖人のみ教えを全人類に徹底する」です。


その具体的行動が、現在の映画『なぜ生きる』を一人でも多くの人にの活動です。


しかし、親鸞聖人の主張は一貫して「難度海を度する大船がある」ことであって、「難度海を度する大船があるから、あなたの人生には意味がある」とか「難度海を度する大船があるから、親鸞会の活動に邁進せよ」ではありません。
病気で言えば医者の仕事は病気を治すことであり病気を治した後のその人のさまざまな苦しみまで救うと言うものではありません。そこから分かるように、「苦しみの解決(病気の治療)」と「苦しみに意味を与える(病気になったことに意味を与える)」は違うことが分かります。


阿弥陀仏の救いは、「お前を浄土に往生させて、仏にする」ものです 。その身に救われたならば、「なぜ生きる」は大した問題ではなくなります。

結論

親鸞会高森顕徹会長)の教えは「(こんな苦しい人生)なぜ生きる?それは、阿弥陀仏に救われるためだ!」です。
それに対して親鸞聖人の教えは、「阿弥陀仏に救われて、浄土往生が定まれば、『なぜ生きる』なんて考える必要もない問題です。」

「なぜ生きるが大事」の親鸞会に対して、「『なぜ生きる』が問題にならない救い」を教えられたのが親鸞聖人です。その意味では、親鸞会の教えは「浄土真宗」ではありません。やはり、宗教法人浄土真宗親鸞会の名前を変えるべきです。

映画「なぜ生きる」も「聖典」に追加されたようです。(平成28年8月7日(日)親鸞会館追悼法要より)

平成28年8月7日(日)は、親鸞会館で追悼法要が開かれました。参加された方から聞いたことで感じたことを書きます。
演題は「平生業成と墓参り」で、珍しく高森会長が一日話をしたとのことです。とはいっても、午前1時間、午後1時間の一日二時間の法話でした。

話しの内容そのものは、良くも悪くもいつも通りだったとのことでしたが、映画「なぜ生きる」シナリオブックが話しの都度都度に、根拠として引用されていたそうです。
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(映画「なぜ生きる」シナリオブック)

以前このブログで、「なぜ生きる」が「ご著書」から「聖典」になったと書きましたが、実際その方向に動いているのだと実感しました。
shinrankaidakkai.hatenablog.com

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(映画「なぜ生きる」より、黄金に輝く腹ごもりの聖教)


真宗聖典にある親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を出す回数はどんどん減り、「なぜ生きる」の本や映画のシナリオを根拠として出す場面は今後どんどん増える事でしょう。
高森会長は以前、「親鸞聖人の教えを学ぶ人は親鸞学徒だ」といい、「会員」という呼称が「学徒」とかわりました。しかし、現在の会員「高森会長の著作を読み、高森会長の映画に学ぶ人の集まり」ですから、「高森学徒」になります。この「高森学徒」と呼ばれて違和感を感じる人は、よくよく聞いて下さい。


最早、親鸞会の教義について、外部から親鸞聖人のお言葉と違うではないかといくら批判しても、何も言えなくなったのだと思います。なぜなら、高森会長が言っていることが正しい根拠は「なぜ生きる」「同2」「映画なぜ生きる」にしかないからです。



今回の追悼法要の後に、いわゆる親鸞会でいう「信心の沙汰」がされたでしょうが、その内容は、ここでいわれたことは「映画なぜ生きるにはこうある」とか「本のなぜ生きるにはこう書かれている」という話がほとんどでしょう。文学研究者が、著者の作品を通してその考えに迫ろうとするように、会員は高森会長の著作を通して「高森先生の御心」に迫ろうとしているのでしょう。よしんば、その「高森先生の御心」に迫れたとして、それが何だというのでしょうか?貴方が高森会長でないように、高森会長も貴方ではありません。仮に高森会長の気持ちが分かったらそれが救われたことになるのでしょうか?
貴方を救って下さるのは、阿弥陀仏であって「高森先生の深い御心」ではありません。高森会長の著作から妄想を膨らませてみても、楽しいかも知れませんがすくわれません。


映画「なぜ生きる」を何度見ても、信心を獲られることはありません。著作「なぜ生きる」を何度読んでも、親鸞聖人のみ教えは分かりません。阿弥陀仏の本願は、阿弥陀仏から聞かねば聞けません。親鸞聖人のみ教えは、親鸞聖人の著作によらねば分かりません。


真宗の「聖典」は、真宗聖典に収蔵されているものであって、高森会長の作品ではありません。親鸞聖人の教えを、親鸞聖人のお言葉以外で説明する現状に疑問を持っている方は、早くその場を離れることをお勧めします。
南無阿弥陀仏は、常に貴方をただ今救って下さいます。

親鸞会の社会人偽装サークル勧誘の実態。被害者のブログを紹介。

現役の親鸞会会員の方は、御存知のことですが、親鸞会は現在社会人対象に偽装サークルをつくって正体を隠しながら勧誘活動をしています。
10年以上前に、親鸞会を脱会された方からすると、「偽装サークルは大学生相手の勧誘だけだったのでは?」と思われるかも知れません。10年前でも、親鸞会を含めた宗教団体の偽装サークル勧誘が大学側から問題視され、以前のように一大学で多くは数十名入会することはなくなりました。

そこで、親鸞会は自らの団体名と目的を隠して勧誘する場を、社会人の若者と一般層に移しました。以前に、外部からも問題視されつづけていた偽装勧誘を、会を挙げての勧誘方法として採用したのが現状です。大学の偽装勧誘では、「今の大学生は仏教といえば、それだけで話を聞いてもらえないからだ。」と言い訳をしていました。確かに、アニメ「世界の光親鸞聖人」がでる前は、学生以外の部門では「親鸞会」と名乗って会場を借りては法話をしていました。しかし、現在は各地の親鸞会館以外に親鸞会の名前を出して行う行事はありません。


全国各地で行われている「アニメ上映会」「アニメ勉強会」「ブッダに学ぶ○○」或いは、ネットを探せば、こんなものもあります。
japan-buddhism.co.jp
いずれも、親鸞会の名前は出てきません。そこに出てくる親鸞会の講師やアニメ講師も、「仏教講師」というよく分からない肩書きや別の肩書きで名乗っています。


親鸞会に長く居ると、そのような偽装勧誘自体に対する罪悪感はどんどん薄れていきます。ここまで読まれた現役会員の方の中には、「それのどこが悪いのか」と思われる方もあるかも知れません。


そこで、今回は最近親鸞会の社会人偽装サークルに勧誘され、親鸞会館の高森会長の法話に参加された方のブログ記事を紹介します。

記事は、4つあります。最初は全く親鸞会と知らされず、それを知った驚きと、その後親鸞会館での法話の感想、偽装サークルに対しての感想が率直に書かれいます。

bridge2015.exblog.jp

bridge2015.exblog.jp

bridge2015.exblog.jp

bridge2015.exblog.jp

これを読まれた会員の方に知っておいて頂きたいことは、このような偽装勧誘を行って、参詣者が一名増えたとか、入学される方が一名増えたと日々活動していると思いますが、その「一名」は人間なんだということです。目標達成の為の数値ではありません。

正体を隠した勧誘を受け、親鸞会館まで足を運んだ人がどんな気持ちになるか考えたことはないでしょうか?また、貴方も最初は同様のことを感じたのではないでしょうか?貴方にとって「親鸞会の教えが素晴らしい」ということは、「貴方の思い」であって、勧誘相手の気持ちではありません。

騙された相手からすれば、そんな団体をまともな団体だと思うわけがありません。このような偽装勧誘を会をあげてするままが、親鸞会だけでなく、浄土真宗の名前も貶めていることに気がつかねば成りません。

人を騙すようなことさえしなけりゃ、
俺もこんな記事書くことなかったのにね(哀)
【親鸞会】偽装サークルのなれの果て…まさしく応報!とやま交流会で学ぶ「因果の道理」 : 読書シンガーKazuのワクワク書評日記

誰でも情報発信できる現代では、親鸞会の偽装勧誘活動は真実開顕どころか、「親鸞会の」真実露顕にしか結果としてなりません。自分の所属する「親鸞会の教義」が正しいと思うのなら、もう偽装勧誘は止めるべきです。

映画「なぜ生きる」の感想(3)ー教義の正当性を歴史改変で説明する親鸞会・高森顕徹会長

映画「なぜ生きるー蓮如上人と吉崎炎上ー」についての記事も、今回で3回目です。3回目の記事は、3回目を見てから書こうかと思っていましたが、近隣での上映も終わってしまいましたので、2回しか見ていませんが続きを書きます。

なぜこのアニメを作ったのか?

そもそもの話として、高森顕徹会長はなぜ今この映画を作ろうと思ったのか、最初から疑問でした。

親鸞会制作のアニメは「世界の光親鸞聖人シリーズ6巻と王舎城の悲劇」で終わったはずです。当時、親鸞会にいた人はみなそう感じていました。
それにもかかわらず、今回映画を作成した目的はなんでしょうか?

「なぜ生きるシリーズ100万部突破記念」は表向きの理由と思われます。本当の理由は、外部からの親鸞会教義批判に反論できなくなった高森会長が、苦し紛れに長い言い訳(本人にとっては反論)をしたかったからだと思います。

「そうだ真宗の歴史がそもそも違っているんだ」(高森顕徹会長)

親鸞会の歴史を、親鸞会視点で見ますと、昭和33年の結成以来、常に伝統的な真宗教団(主に本願寺派)に対して、「親鸞聖人の本当の教えを説きなさい。今の真宗界は間違っている。」と主張してきました。とはいえ、独自の親鸞会教義を持ち出して、伝統教団を批判してきたというのが実態です。
その後、親鸞会の元会員から教義的な批判を受けると、全く答えられない状態が続いて今日に至ります。今では、ネットで「親鸞会」と検索した人は、かなりの確率で退会するというのが現状です。

この現状を、高森顕徹会長はどう感じていたのでしょうか?おそらく以下ような判断が出たのだと思います。


高森顕徹会長「外部のものがいろいろ言ってきているが、私の説く真宗こそ本物で、他のものの批判は全部間違いだ。」


しかし、これを幾ら声高に主張したところで、親鸞会会員以外には通用しません。なぜなら、親鸞会会員以外の人は「では、高森会長の主張が正しいという根拠は、お聖教のどこにあるのですか?」と必ず尋ねてくるからです。


そこで「親鸞会の主張は正しい」ことと「お聖教にその根拠がない」の矛盾を解消する答えとして完成したのが、映画「なぜ生きる」です。つまり「みんなが知っている現在の浄土真宗は実は間違っている。歴史がねじ曲げられているのだ」という主張です。

映画「なぜ生きる」は、実はタイムリープ映画だった。

親鸞会の法論の歴史が書かれている書籍に「法戦シリーズ」「本願寺の体質を問う」「本願寺なぜ答えぬ」「どちらがウソか」があります。それ以外にも、ネット上で行われた法論も多くあります。特に「本願寺なぜ答えぬ」以降は、どうみても親鸞会の完敗に終わっています。もちろん高森会長は公式には認めていませんが、その事実は高森会長が身をもって感じていることです。


そこで高森会長は「根拠を出せと皆言うが、その根拠が本当の真宗とは違うのだ」と主張したのが今回の映画です。
結論だけ先に書きますと、この映画「なぜ生きる」の前提となる設定は、

  1. 高森会長は実は蓮如上人の生まれ変わりであり、かつ前世の記憶を持って生まれたもの。かつ、真宗の歴史は、(高森会長の知る)蓮如上人以降間違ってしまったまま現在に至っている。
  2. それを正す為に私は何度も、タイムリープを繰り返しているのだ。
  3. 実は、このアニメで描かれている教義やその他もろもろ(本尊も含めて)が正しい真宗の歴史なのだ。


こういうことを前提に作成されたものだとすると、映画の中で出てくるいろいろな、疑問点と、親鸞会内部での疑問が解消する事になります。


解説しますと、タイムリープとは、主に日本で最近使われている造語です。ドラえもんや、でてくる「タイムマシン」による「タイムトラベル」は、本人が現在の姿のまま、別の場所に移動するものです。それに対して、本人の意識だけが、過去の自分の意識に戻るという作品では、タイムリープという造語を使っています。アニメにもなった、シュタインズゲートのような作品が、代表例です。



アニメ「なぜ生きる」の疑問点

1、なぜ作品に出てくる吉崎御坊の御本尊が、親鸞会独自のものなのか。

映画の中で、蓮如上人が法話をされる場面で何度も、「親鸞会独自の名号本尊」が画面に出てきます。名号本尊については、親鸞会が「正御本尊」と言っている「親鸞」の名前入り名号本尊が、実は「正しくない」張り合わせの本尊であることは、多くの人から指摘されているところです。しかし、現在に至るまで親鸞会はその「張り合わせ名号本尊」を「正御本尊」だと言って会員に貸与しています。
それに対する高森会長の回答が、この映画なのです。いわく「親鸞会名号本尊こそ『正御本尊』なのだ。私(蓮如上人)が実際見てきたのだから間違いない。」
こういうと、こんな疑問が当然出てきます。
会員「でも、親鸞会の『正御本尊』は現存していませんが?」
それに対して高森会長は「確かにあったんだ。少なくとも私は見てきた。それを再現したのが今の親鸞会の『正御本尊』なのだ。」
こう言われると、もう何も反論できません。
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親鸞会の『正御本尊』)
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(表具屋さんに依頼して作成した「名号本尊」)
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浄土真宗本願寺派本願寺所蔵六字名号)
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(黄地十字名号 真宗高田派専修寺蔵)
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(金泥十字名号 滋賀県本福寺蔵)
いずれも「親鸞」の文字があるのは、親鸞会のみです。

2、なぜ作品にでてくるお聖教は「教行信証」と書いてあるの?「顕浄土真実教行証文類」が正しいのでは?

これも同様です。「私が蓮如上人だったころは『教行信証』と書いてあった。
f:id:yamamoya:20160716165233p:plain
親鸞会制作 チューリップ企画販売「世界の光親鸞聖人第4部」より)
このころは、「顕浄土真実教行証文類」だった。
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(映画「なぜ生きる」より、表紙が「教行信証」に変わる)

3、なぜ蓮如上人が、立って法話をされているのですか?

これも同様です。「私が蓮如上人だったころは(以下略)」

4、なぜ親鸞会では「三願転入」を強調するのですか?

これも同様です。「私が蓮如上人だったころは(以下略)」

5、なぜ親鸞会では過去に高森会長を「蓮如上人以来500年ぶりの善知識」と言っていたのですか?

これも同様です。「私が蓮如上人としていたころから数えて、500年だったから」
「現在の真宗の歴史、お聖教が間違っている」で、押し通すしかない。


以上書きましたが、高森会長が外部からの「親鸞会の主張は浄土真宗ではない」の批判に対して、最後にした反論が「そういうお前たちが信じている真宗教義と歴史が実は間違っているのだ」というものでした。
親鸞会の主張によれば、「正しい正御本尊は親鸞会の正御本尊であり。現存するものこそニセモノ」であり、「親鸞会的三願転入こそ正しい真宗であり、それを否定するものは、間違った真宗教義と歴史を真実だと思っているものだ」となります。


そうなると、外部から何を言っても、熱心な会員にとってみれば、批判もまともに受け入れられなくなります。
なぜならこの前提を進めると、「蓮如上人の生まれ変わり(しかも、蓮如上人の記憶をもったまま)である高森会長のいうことこそが、正しい真宗教義であり、歴史であるということになります。しかも、何者かによってねじ曲げられた、真宗教義と歴史を正す為に何度もタイムリープを繰り返しているのが高森会長ということになるからです。


「お聖教が間違っている」と主張した映画

ここまで読まれた方なら分かられると思います。
高森会長は、この映画でいいたかったことは、「私の主張する真宗こそ『正しい真宗』であって、根拠を出せという人たちは、正しい根拠が失われていることを知らないのだ。」ということです。
いわゆるトンデモ教義を肯定するために、「私の脳内にある真宗教義こそ正しい真宗であり、それを現代文で書いたのが『なぜ生きる』『なぜ生きる2』である。今後は、これを読みなさい。必ず信心決定できる。」というのが、高森会長の主張のようです。


終わりに

ここまで読まれた方に感謝致します。
現役会員の方に、言いたいことは、このような歴史改変の前提でなければ、高森顕徹会長の説を正当化することができないのが現在の親鸞会だということです。
そこでこのエントリーを読まれている会員の方にお願いがあります。それは、「高森顕徹会長の説が正しい」という前提を一度捨ててみてください。世の中でも、「無罪証明」というのは難しいものです。なぜならば「無罪である」という証拠は提出するのがとても難しいからです。今の日本でも「冤罪」の証明はとても難しいです。
親鸞会の「正御本尊」で言えば、「現在する親鸞聖人の真蹟の御本尊に親鸞会と同じものはないではないか」という主張対して、「それは現存していないだけで、実はあったのだ」と言えば何でもありになってしまいます。それに対して、「親鸞会の正御本尊は現存する親鸞聖人真蹟のものには一つもない」という証拠はいくらでもあります。それは、上記にあげた現存する親鸞聖人真蹟の御本尊に一つも「親鸞」の名前がないことからも明らかです。
では、親鸞聖人の真蹟の御本尊としては、どちらが正しいのでしょうか?「親鸞」の名が入った名号本尊は、現存しているものは一つもありません。あるとすれば、親鸞会のものだけです。
「御本尊が狂っているから全部狂う」とかつて高森顕徹会長は主張しました。
お聖教のご文がどうこうという以前に、現存しない名号本尊を2000畳のお仏壇にご安置して、これが「正御本尊です」という人は、はたして「善知識」なのでしょうか?よくよく考えてみてください。

親鸞会の教えでは、身口意の三業で体で行った行為だけでなく、心で行った行為も悪因になると教えられてます。 たとえ善い行いをしても心で悪いことを思っていれば、悪い行いになりうる。川の源流で赤インクを流せば、下流も赤く染まってしまうように。だから、人類は善を行うことができない。…この考えは、一切衆生必堕無間の理論的な根拠と思われますが、聖教上の根拠はあるのでしょうか。

因果の道理について質問です。

あああ
因果の道理について質問です。
親鸞会の教えでは、身口意の三業で体で行った行為だけでなく、心で行った行為も悪因になると教えられてます。
たとえ善い行いをしても心で悪いことを思っていれば、悪い行いになりうる。川の源流で赤インクを流せば、下流も赤く染まってしまうように。だから、人類は善を行うことができない。…この考えは、一切衆生必堕無間の理論的な根拠と思われますが、聖教上の根拠はあるのでしょうか。
仏教あるいは親鸞聖人が心の悪と因果の道理を結びつけて教えている箇所はありますか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160713/1468397658#c1468490601

あああさん、コメント有り難うございました。今回のコメントは、思い切り親鸞会のことに触れる内容だったので、このブログにエントリーを書きました。
よろしくお願い致します。


そこで、お尋ねの、

たとえ善い行いをしても心で悪いことを思っていれば、悪い行いになりうる。川の源流で赤インクを流せば、下流も赤く染まってしまうように。だから、人類は善を行うことができない。

に関しての、お聖教の根拠については、「ない」ということになります。


なぜなら親鸞会の説明がおかしいからです。
「善い行為」をしても、「心で悪いことを思って」すれば、悪い行為になるとのことですが、この「善い」「悪い」というのは、道徳的な善悪のことなのでしょうか?それならば、現実に見聞きする事例です。
例えば、電車の中で年配の方や、小さなお子さん、妊婦さんに席を譲ったとします。その行為(身業)は「善い」ことですね。
しかし、その時心の中で(ここで席を譲らなかったら、なんて自己中心的な人だと言われるのではないか。そう思われるくらいなら、席を譲ったほうがまだいい。相手も感謝してくれるだろう。)ということを全く思わない人はいないかと思います。では、そのことを僅かでも思ったからといって、貴方が席を譲り、それによって席に座れず困っていた人が楽になったことは、本当に「悪いこと」なのでしょうか?


道徳的な善悪では、「やらない善より、やる偽善」という言葉があります。いつのころからネットでよく使われるようになったものです。
一部で有名なのは、俳優の杉良太郎さんが、東日本大震災の直後各地で炊き出しを行った際、

「偽善とか売名と言われることもあると思いますが…」と聞かれた杉が、「ああ、偽善で売名ですよ。偽善のために今まで数十億を自腹で使ってきたんです。私のことをそういうふうにおっしゃる方々もぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ」と答えた

http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20160312/enn1603121529017-n1.htm

この杉良太郎さんの言動は「道徳的に」悪なのでしょうか?私はそうは思えません。むしろ、「道徳的に」立派な善です。


そこで、誰しも「道徳的な」善悪で言えば、なにか相手の為にに善い事をしようとすると、ほんの僅かでも「偽善的」考えはあるものです。しかし、だからと言って、「お前のやっていることは全部悪」というのは、「道徳的な」善悪においてはあり得ません。なぜなら、その人の「偽善」を感謝している人がいるからです。

親鸞会の「善悪」は、「道徳的な善悪」なのか?

そう考えると、親鸞会的な因果の道理で言う「善果」とはなんでしょう?信心決定して、浄土往生することではないでしょうか?
それとも、あああさんは道徳的な善果を求めて親鸞会におられるのでしょうか?
残念ながら、親鸞会の活動に真剣にとりくんで道徳的な善果は期待できません。例えば、身内の結婚式に「親鸞会館で法話があるので」と参加しないと言っては、「親戚中から白い目で見られる」などの結果しかありません。

親鸞会でいう「善果」「悪果」とは?

そこで、「善果」を「信心決定して浄土往生すること」とし、「悪果」を「必堕無間」としてみると、それぞれの「因」が違ってきます。
「信心決定して浄土往生すること」の「因」は、仏願の生起本末で説かれるところの、阿弥陀仏の五劫思惟の願と、兆載永劫の行です。「私の三業」ではありません。それに対して、親鸞会でいう「必堕無間」の「因」は私の三業となります。


ここで分かるのは、親鸞会の主張では「善因善果 悪因苦果 自因自果」といいながら、実際の「因」が、「善因」と「悪因」では異なります。重ねて書きますが、「善果」を「信心決定して浄土往生すること」したときの「善因」は「阿弥陀仏の三業」です。「悪果」を「必堕無間」としたときの「悪因」は、「私の三業」です。「因」の主体が、「阿弥陀仏」と「私」で異なります。


言い換えれば、「地獄に堕ちるのは自己責任だから善をしろ」といいながら、「善をしたら救われるのは浄土真宗ではないのではないのか?」と言われると、「救われるのは全部阿弥陀仏のお力です」と言っているのが親鸞会です。こういうのを一般に二枚舌といいます。

そこで、因果の道理と救いを結びつけていう必要は全くありません。事実、親鸞聖人は、因果の道理と阿弥陀仏の救いを関連付けていわれたところは一つもありません。

赤インクのこと

お訊ねの、赤インクのことで言えば、そのような悪に染まったものを救って下されるのが阿弥陀仏の本願です。自分の心のなかの、小さな自己中心的な考えに苦しまないで下さい。そんなことを知らずに、阿弥陀仏が本願を建てられたとでも思われているのでしょうか。

もう一つの、心の悪と因果の道理を結びつけて教えている箇所について

もう一つのお訊ねの箇所について調べて見ました。

岩波仏教辞典より
三業 さんごう
一切の業を、三種に類別したもの、一般には、身業、口業、意業の三種の行為をさす。ただし、類別の基準により〈善業〉〈悪業〉〈無記業〉をさす場合[倶舎論(17)]、〈福業〉〈非福業〉〈不動業〉をさす場合[倶舎論(15)]等々、多義がある。
人間三業の過(とが)は、冥路に苦聚多し[十住心論(1)]
如説修行といふは、身・口・意の三業を懺悔するなり[法華百座(3.12) ]

とあります。


意業が、結果を引き起こすことについては、書かれています。
ただ、大事なのは、そんな私を救って下される阿弥陀仏がおられることです。「こんな私は救われない」という仏ではありません。ただ今救われてください。

週刊ダイヤモンド2016年6/25号(創価学会と共産党)にあったある図が親鸞会にもそのまま当てはまる件

週刊ダイヤモンド2016年6/25号を読みました。といっても、購入したわけではなく最近使っているDマガジンで読みました。
今回の特集は「創価学会共産党」でした。団体の規模こそ違うものの、親鸞会とよくにている創価学会の現状の特集だったので、気になって読んでみました。


詳しい記事の内容は、Dマガジンはまだサービスを使ったことのない方は、最初の一ヶ月は無料なので試しに見られたらいいと思います。
大まかに言うと、創価学会の現状と今後の起きるであろう問題に付いての分析でした。

その中で、現在の会長が居なくなったあとを表した図が、親鸞会とそのまま当てはまると思ったので紹介します。
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内部崩壊のおそれは、親鸞会も十分あると感じました。今回はそれを紹介したかっただけなので、以上です。

映画「なぜ生きる」の感想(2)ー「ご著書」が「聖典」になった宣言を会員向けにした作品

映画「なぜ生きる」を見ました。これで2回目です。
nazeikiru-eiga.com

熱心な会員以外で2回見た人も少ないのではないかと思います。こういう映画について書く時には「一度見たくらいで何がわかる」と親鸞会の人から怒られそうなので、2回目を見た上での感想を書きたいと思います。


前回の感想記事で、観客に訴えるものがないと書いていました。しかし、2回目を見てこの映画を親鸞会会員向けのメッセージとすれば、高森顕徹会長からとても強い訴えが込められていると感じました。


いろいろ会員向けの主張と分かるものはありますが、一番大きなものは、「なぜ生きる」が親鸞会の中で「聖典」になったことを宣言した点です。

「なぜ生きる」は、親鸞会で「聖典認定」

その場面は、映画の最後に出てきました。吉崎御坊が炎上し、焼け跡から了顕の焼死体が発見されます。その了顕の腹から、いわゆる腹ごもりの聖教といわれる「教行信証 証巻」が見つかります。
f:id:yamamoya:20160806163457p:plainそれを高々と両手で蓮如上人が掲げると、その「教行信証 証巻」が、夜明けのまだ薄暗い吉崎で黄金色に輝き光を放ちます。


最初にこの場面を見た時は、アニメ独特の演出なのかと思っていました。しかし、その黄金色に輝く書物が、高森顕徹会長の著作「なぜ生きる」を表現しているのは会員にとってはすぐわかることです。その意味では「なぜ生きる」が「教行信証」と同じ「聖典」になった宣言なのだと分かりました。


平成13年に「なぜ生きる」が発刊されたころ、親鸞会の中では「この本は、高森顕徹会長の50年の布教の集大成」とか「黄金の書」と言われていました。それでも当時は、会のなかでは「ご著書」といわれあくまで、会長の著作物の一つでした。

なぜ生きる

なぜ生きる

以前はあくまで高森顕徹会長の著書の一つだった「なぜ生きる」

私がいた当時は、「聖典」>「ご著書」という関係にあり、あくまで真宗聖典に収録されている「聖典」と「ご著書」は別物という扱いでした。高森顕徹会長の法話でも、みな真宗聖典を持参し、お聖教のご文が出れば自ら聖典を開いて確認をしたり線を引いていました。


それが変わり始めたのは、平成17年に親鸞会館(2000畳の正本堂)が完成した後でした。親鸞会館に行かれたことのある方ならご存知のことですが、高森顕徹会長が法話をする壇上には、お仏壇を中心に両面に大きな映像装置が置いてあります。会の中では根拠ボードと呼んでいました。そこには、高森顕徹会長の法話中に、お聖教のご文が出てくると即座に表示されるものでした。それを見れば分かる訳なので、法話中に真宗聖典を開く人は少なくなって来ました。


その後、高森顕徹会長の座談会が「なぜ生きるについての質問のみ」を受け付けるものが始まりました。その頃から、高森顕徹会長の「ご著書」の中でも「なぜ生きる」は別格のような扱いになってきました。それでも、あくまで「ご著書」であって「聖典」ではないというのが、会員の認識でした。
それが、今回の映画では「教行信証 証巻」が、「親鸞学徒の決死の報恩行」によって「なぜ生きる」に変化しました。

ここから分かる事は、これが高森顕徹会長から会員に向けての最後のメッセージなのだということです。

高森顕徹会長から会員へのメッセージ

分かりやすく言えば、「これからはこの「なぜ生きる」を聖典として、親鸞会は進んで行きなさい。親鸞会の根本聖典親鸞聖人の書かれたものではなくこの「なぜ生きる」だ。」です。

ここで「聖典」>「なぜ生きる」が、「聖典=なぜ生きる」と少なくとも親鸞会の中ではなったということです。熱心な会員に取っては、おそらく「聖典」<「なぜ生きる」なのでしょう。

とはいえ、いくら高森顕徹会長が映画の中で主張しても、「なぜ生きる」はあくまで「著書」であって「聖典」ではありません。そこで、この映画では吉崎炎上から、自らの命を投げ出して、自らの血を流した了顕の報恩の行によって、「腹ごもりの聖教」が「黄金の書」に変化することが示されています。
つまりこの「なぜ生きる」を、多くの人に読ませ、親鸞学徒(親鸞会会員)が増えることによって初めてこの「なぜ生きる」は「ご著書」から「聖典」となることができるのです。
高森顕徹会長は、今後の親鸞会の方針として「なぜ生きるを聖典とし、それを弘める活動をせよ」と会員に最後の号令をかけたのが、この映画に描かれていることだと思います。思えば、「なぜ生きる」が発刊された後、高森顕徹会長は「このなぜ生きるが、書店におかれなくなったら、その時は君たち(その時は講師部)がこの本をもって全国を戸別訪問で回るのだ。」と言っていました。いよいよそれが現実のものとなるのだ感じました。

映画の公開後に更新された親鸞会の公式HPには以下の文章が掲載されています。

「『なぜ生きる』を全人類に」
www.shinrankai.or.jp

これで会員には正統派だと言い切れるようになった親鸞会

数年前から、親鸞会の講師や会員の人が、退会者と議論することがあると「なぜ生きるにはこう書いてある。だから正しい」と主張する場面がありました。しかし、「なぜ生きるに書いてあることが正しいと証明できる、親鸞聖人のお言葉はどこにあるのか?」と問われて、何も答えることが出来ないのが現状です。この事からも、「なぜ生きる」に書いてあることは、「親鸞聖人の教え」と「イコール」ではありません。それもかなり間違っています。


しかし、今後の親鸞会は「なぜ生きる」が根本聖典となったわけですから、外部から「親鸞会の教えはおかしい」と批判をされても、「そんなことはない!なぜなら『なぜ生きる』のP○○に××と書かれてある。これが根拠だ。」ということになるでしょう。そうなると、親鸞会を「浄土真宗の団体だ」と思って「その教えは親鸞聖人の教えと違う」と批判をしてきた人は、言葉を失ってしまういます。なぜなら、「親鸞会の主張は、親鸞聖人の教えられた通りである。その根拠はこの『なぜ生きる』にある。」と言っているからです。言うまでもなく、「これが親鸞聖人の教えだ」と主張するからには、親鸞聖人の書かれたものから根拠を出さねば成りません。それが出せないからと言って、自らの団体の会長の著作を出すならば、それは「会長の教え」であって「親鸞聖人の教え」ではありません。
しかし、会員にとって「なぜ生きる」に書かれてあることが正しいという前提ですから、どんな人から批判を受けても「だってなぜ生きるに書いてあるから」と言えば自らの正当性は担保されることになります。こうして、少なくとも親鸞会の中では「親鸞会親鸞聖人の教えを正しく伝える浄土真宗の正統派だ」と主張することができます。

会長自らが「浄土真宗」の看板を下ろしたのがこの映画

親鸞会結成以来、外部からの教義上の批判に対しての最後の砦が高森顕徹会長でした。しかし、その高森顕徹会長も高齢で今後はかつてのように反論することはできなくなります。しかし、「親鸞聖人のお言葉」で「親鸞会は正当な浄土真宗の団体である」と主張することは出来ません。そこで、高森顕徹会長は、今後批判があれば「なぜ生きる」を根拠にしなさいと会員に伝えたようなものがこの映画の主題です。根本聖典が「なぜ生きる」になるのなら、もはや「浄土真宗親鸞会」の看板は替えなければなりません。
自らの「ご著書」を「聖典」にすることで、高森顕徹会長が宣言したことは、浄土真宗親鸞会は、浄土真宗の看板を下ろしますと宣言したに等しいのですが、残念ながら多くの会員には伝わっていないようなので、このエントリーに書いて見ました。

物凄く強気に見える、親鸞会の終了宣言ともいえるのが、この映画でした。