親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)がたまにまともな真宗教義をいう問題」の背景について

顕正新聞平成29年6月1日号論説を読みました。以下、思ったことを書きます。
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(略)
阿弥陀仏は、大悲の願船を見る目もなく、船長の声を聞く耳も持たぬ逆謗・闡提の者を目当てに、「必ず乗せて絶対の幸福に救い摂り、極楽浄土へ渡す」と誓われている。大悲の願船は私目掛けて突っ込んでくるのだ。そして必ず、苦しみの海から引き上げ乗せて下されるのである。
修行も学問も要らない。「弥陀の願心に疑心あることなし」と聞く一つである。
大悲の願船に乗ずれば、光明の広海に浮かぶ人生が開かれ、広大な仏恩を知らされるから、報謝の念仏称える身に、早くなりなさいよと、蓮如上人は仰せなのである。(顕正新聞平成29年6月1日号論説より)

阿弥陀仏が「絶対の幸福に救い摂り」といっている部分は、相変わらず親鸞会用語の定義が曖昧なのでよく分かりません。しかし、どうも「絶対の幸福に救い摂り、極楽浄土へ渡す」という文脈からすると、親鸞会の定義する「絶対の幸福=現生正定聚」のようです。
「修行も学問も要らない。「弥陀の願心に疑心あることなし」と聞く一つである。」とここだけ読むと、「親鸞会もまともなことを言っているではないか」と思われるかもしれません。しかし、このようなことを一貫していわないところが、親鸞会の特徴です。


表題について結論を先に書くと、高森会長が会員をつなぎ止めるための技術としかいいようがありません。


私が在籍していたころでも、似たようなことは何度もありました。
一例を揚げると、「聞く一つの救いだけれど、聞いておれば助かると思うのは間違いだ。」
阿弥陀仏の救いは無条件だが、無条件が無条件と知らされるまで真剣にならねばならない」
「他力が他力と知らされるまで、自力一杯求めねばならない」
などです。
こういうのをダブルバインドといいます。

ダブル−バインド
〖名〗(二重拘束の意)相反する二つのメッセージを同時に受けて、即座に反応を求められる場合のような身動きのとれない状態。たとえば、母親が子供に対して口では「愛してる」と言いながら嫌悪の表情を示した場合の、子供のどちらを信じていいのかわからない精神状態をいう。文化人類学者のグレゴリー=ベートソンが1950年代に提示した概念。(小学館 精選版日本国語辞典)

考えて見ると、親鸞会在籍時の高森会長の「教え」は、このダブルバインドの連続でした。代表的なものが「宿善」です。「宿善がなければ救われないから、真剣に求めよ」と聞かされて「聴聞、勤行、お布施」に邁進すると、「宿善が積み重なって助かると思うのは間違い」と来ます。
また「真剣に聞け、正座して聞け、正座せずに聞いて救われた人はいない」と聞いて、一日正座をして真剣に聞いていると「真剣に聞いたら助かると思うのは自惚れだ」と来ます。
まとめて言えば、右に行けと言われていたことに従っていると、ある日には左に行けと言われます。それを一年のうちに何回も繰り返しているうちに、親鸞会会員の一年間は過ぎていきます。いま振り返れば、恒例行事のようなものです。


しかし、当の会員にとってはたまったものではありません。なにせ「500年に一度の善知識が仰ること」ですから、間違いがあるはずがありません。どう考えても、以前と反対の話を聞かされた時が会員を続けるかどうかのメンタルテストになります。以前の私はこう考えていました。

「高森会長は私の思い違いを正す為に、敢えて反対のことを言われているのだ。高森会長の真意を聞き間違えた私が悪いのだ」としていました。


しかし、考えて見るとおかしなことです。なぜなら、親鸞会は一応「浄土真宗」を看板に掲げている団体ですから、その教義は「浄土真宗」から逸脱しては、看板倒れに成ってしまいます。にもかかわらず、高森会長の話が、定期的に右に行ったり左に行ったりするのはなぜでしょうか?
可能性としては二つしかありません。

高森会長の話が時々反対のことをいう理由

  1. 浄土真宗の教義はそのように「右へ行け」「左に行け」というように矛盾したものである。
  2. 高森会長が日ごろ言っている教義が真宗教義と真反対である。そのためたまに、まともに真宗教義の話をすると、矛盾していると感じる。


ここまで読まれた会員の方に正解をいいます。答えは「2」です。
少しでもネットで親鸞会教義を調べた方なら分かると思いますが、浄土真宗では「善をしたら救いが早くなる。救いの足しになる。獲信と良い関係がある」というものはありません。にも関わらず、明文化するかどうかはさておき、活動の現場で会員が感じるのは「善はしないよりした方が早く救われる」ということです。それに対して親鸞聖人も蓮如上人も、「善で救われるとか、救いが早くなることはない」とハッキリ言われています。
ですから、日ごろ高森会長がいうところの「これが本当の親鸞聖人の教え」そのものが、「親鸞聖人の教えの真逆」であり。たまにいう「日ごろと違うこと」こそが、「本当の浄土真宗」です。
どうか、会員の方は、高森会長がたまにする変わった話こそ真宗の教えだと知って下さい。そのたまにしかしない真宗の教えを聞くことの大いなる労力の無駄に気づいて下さい。
親鸞会では「有り難い話」は、親鸞会以外ではいつもされている話です。

高森会長がたまにまともなことをいうのは、たまにまともなことを言って会員に「高森会長の言っていることは真宗である」と信じ込ませるためのボーズに過ぎません。私が会員であったときを振り返れば、まともな真宗教義の話をするのは、年間数回あったかどうかです。

親鸞会の「絶対の幸福」に真宗教義上、絶対になれないたった一つの理由(顕正新聞平成29年5月15日号論説より)

f:id:yamamoya:20170521053823p:plain親鸞会の機関紙である顕正新聞平成29年5月15日号を読みました。以下、思ったことを書きます。


今回は、特に論説の内容に関して書きたいことがあります。それは「絶対の幸福」について書いてあったからです。親鸞会に在籍された方ならご存知のとおりですが、親鸞会では「阿弥陀仏の救い=絶対の幸福」と定義しています。
「絶対の幸福」自体は、言葉としてかなり力を持っているので、親鸞会では新規勧誘に使っています。私もその言葉に魅力を感じて、親鸞会に入会しました。
しかし、親鸞会が標榜する「絶対の幸福」は、浄土真宗の信心と異なっているのが問題です。仮に「絶対の幸福」があるとしても、その身になれるであれば、私も特に意見することはありません。それでも、親鸞会がいう「絶対の幸福」は真宗の教義では絶対になれない幸福なのです。


今回は「親鸞会がいう絶対の幸福には、真宗の教えでは絶対になれない」ことについて書きます。
結論から言うと、そんなことを浄土真宗ではいわれないないからです。これがそのたった一つの理由です。


では、以下に「絶対の幸福」の定義を顕正新聞の論説から見ていきます。

親鸞会の「絶対の幸福」とはそもそもどんなものか?

親鸞会では「絶対の幸福=二種深信」と定義します。しかし、この等式が成立するには、親鸞会がいう「二種深信」の定義が真宗教義にあったものであるというのが大前提です。
しかし、親鸞会の「二種深信の定義」は真宗教義上は間違っています。以下、顕正新聞の論説から紹介します。

 そんな途方もない『絶対の幸福』を知ることは、生涯懸けての最大事である。その無上の幸せを、仏法の言葉で「二種深信」といわれている。「二種」とは、機(自己」と法(本願)の二つをいい、「深信」とは、ツユチリほどの疑いもなくなったことをいう。弥陀に救われた絶対の幸福になったとは、「機」と「法」の二つがハッキリすることなのである。
 まず「機」とは、罪悪にまみれた自己であり、自分は助かる縁なき極悪人だったと疑い晴れたことを『機の深信』という。
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

まずここで、「罪悪にまみれた自己であり、自分は助かる縁なき極悪人だったと疑い晴れたこと」が機の深信だと言っていますが、ここがまず間違いです。

正確にいうと、どれだけ頑張っても自力で浄土へ往生できるようなものではないというのが、機の深信です。自分が『極悪人と疑い晴れる』ことではありません。

 聖人が『歎異抄』で、
『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。』
(いずれの善行もできぬ親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである)
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

ここの歎異抄の現代語訳には、普通の人はかなり違和感を覚えると思います。
それは「いずれの行も及び難き身」が「いずれの善行もできぬ」としている点です。「及び難き」とは、ある状態まで到達できないというのが普通の読み方です。しかし、親鸞会では「いずれの行も及び難き身」を「善ができない極悪人」と言い換えるところが悪質です。本来は「浄土往生できるような善が満足にできない者」という意味ですから、大きく違います。

「堕ちるに間違いない』と「助かるに間違いない」が同時に疑い晴れ、死ぬまで相続するのだから、一切の人智を超えている。
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

このあたりが、親鸞会の「絶対の幸福」定義の最も顕著にあらわれている表現です。
以前の親鸞会では、この表現は多用されていました。この言葉通りであるとするならば、普通の人にはまず理解できない話です。

しかし、これは本来の二種深信とは異なります。
本来は「自分の力ではとても浄土往生できない私であるから、阿弥陀仏の本願力によるしかない。阿弥陀仏の本願力にまかせれば、間違いなく浄土に往生する」というものです。こう聞けば、親鸞会会員の方も「人智を超えた」ものとは思えないのではないでしょうか。
言い換えれば、自分の力ではどうしてもできないことを、まかせよという方にまかせたから、必ず出来ると言っているようなものです。実際にその身になるかどうかは、置いとけば誰でも分かる話では無いでしょうか?

「不可思議・不可称・不可説」ではなく、「お前は何を言っているんだ?」が親鸞会の「絶対の幸福」

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この想像することも、言うことも、説くこともできない「不可思議・不可称・不可説」の世界を、どう説けば正しく伝わるか。釈迦はじめ七高僧親鸞覚如蓮如上人、歴代の善知識方のご苦労は、その一点に集中されていた。
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

仏の智慧からすれば、そのすべてを凡夫で言うことはできないということであって、理屈が全く通じない話ではありません。
上記にあげた、二種深信の説明は「そういうものか」くらいには分かる人も多いのではないかと思います。それに対して、「堕ちるに間違いない』と「助かるに間違いない」が同時に疑い晴れると聞けば、そもそも何のことか分かりません。しかし、常人で理解得不能なことを分かるのが「善知識」(獲信した高森顕徹会長)という図式が親鸞会会員の共通認識です。この傾向は特にに長年親鸞会にいる人、とりわけ講師歴25年以上の講師に顕著です。また実際に私も、「お前は何を言っているんだ?」の常人では理解不能な体験をすることが信心決定だと思っていました。


しかし、実際は違います。真宗の信心とは、言い替えると「当たり前のこと」を「当たり前」と聞き入れることです。
繰り返しになりますが、自力で浄土往生ができない凡夫が、生死を離れるには「阿弥陀仏の本願力によるしかない」のは理屈としては分かる事と思います。しかし、「そうはいっても自分の力で少しはなにかしなければ」とひとえに本願力にまかせることができないのが、いわゆる「はからい」「疑い」「分別心」といわれるものです。


ここまで読まれた方には分かられると思いますが、真宗の信心とは「難信」ではあっても、「お前は何を言っているんだ?」ではないということです。仮に、親鸞会の言うところの「絶対の幸福」になろうとすれば、「罪悪にまみれた自己」に疑い晴れなければなりません。そうなると、聴聞を重ねると「罪悪にまみれた自己」がわかるということになります。そのため、親鸞会会員の多くは、「罪悪にまみれた自己」を知る為に富山の親鸞会館に足を運んでいることになります。しかし、考えて見れば、「自分の知らない悪に気がつく」という体験はおそらく多くの人は経験しないことです。そんなものは、時代劇の大岡越前でたまにあるくらいのものです。多くの凡夫(普通の人)は、自分の悪に気がつくということはありません。こう私が言うのは、親鸞会の「講師部合宿」で多くの講師が、「会の規約に反した(会の中では悪い)」ことを散々指摘されても、「申し訳ございませんでした」と心から反省した場面を見たことが殆どないことに起因します。
しかし、凡夫でも実生活で分かることはあります。それは「自分の力ではとてもできないことがある」と受け入れることです。人生でもそういうことは様々あります。殊に浄土往生に関しては、とても自力ではできるものではありません。阿弥陀仏は、自力ではとても浄土往生できないものだからこそ、私にまかせよと呼びかけられています。そのよびかけを、そのまま聞き入れるのが真宗の信心です。

繰り返しになりますが、理屈としては全く理解出来るのが真宗の信心です。それを受け入れるかどうかが、私の問題ということです。
親鸞会のいう「絶対の幸福」には、少なくとも「真宗の教え」ではなれません。仮になったという人がいれば、「親鸞会教義」の成就者ということになるでしょう。しかし、そんな人は高森顕徹会長以外にいないのが、今の親鸞会です。

参照 顕正新聞平成29年5月15日号論説全文

 釈迦一代の教えは、阿弥陀仏の本願(お約束)以外にない。本師本仏の阿弥陀如来の本願ただ一つ、弟子である釈迦が生涯、教えられたのが仏法である。その仏法を命の限り伝えられた親鸞聖人も、弥陀の本願宣布が全てだった。
 弥陀は「どんな人も必ず絶対の幸福に救う」と、命を懸けて誓われている。その誓願に救い摂られ、永久に変わらぬ絶対の幸福になることこそ、人生の目的なのである。
“絶対の幸福になるために生まれてきたのだから、早くその身になってくれよ” 
 この他、釈尊の勧めも、聖人の御勧化もなかった。釈迦の教法を書き残した七千余巻の経典は、「絶対の幸福」一つを解説されたものであり、聖人の主著『教行信証』六巻も、その讃嘆で一貫している。
 仏法は、全人類が求めてやまぬ「絶対の幸福」一つ説かれたものなのである。それはいかなる幸福か、釈尊の大雄弁は四十五年に及んだが、百千万劫でも説き尽くせないと告白されている。数多の著作を残された聖人も、とどのつまりは「不可説」と記され、説くことはできぬと嘆じられた。
 そんな途方もない『絶対の幸福』を知ることは、生涯懸けての最大事である。その無上の幸せを、仏法の言葉で「二種深信」といわれている。「二種」とは、機(自己」と法(本願)の二つをいい、「深信」とは、ツユチリほどの疑いもなくなったことをいう。弥陀に救われた絶対の幸福になったとは、「機」と「法」の二つがハッキリすることなのである。
 まず「機」とは、罪悪にまみれた自己であり、自分は助かる縁なき極悪人だったと疑い晴れたことを『機の深信』という。
 聖人が『歎異抄』で、
『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。』
(いずれの善行もできぬ親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである)
と仰ったのは、「機の深信」の告白である。
 次に「法」とは、そんな者を必ず助けると誓われた、阿弥陀仏の本願のことである。その弥陀の本願に疑い晴れたのが『法の深信』であり、それを『歎異抄』では、こう表白されている。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」
(弥陀が五劫という長い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、全く親鸞一人を助けんがためだった)
 この「機の深信」と「法の深信」を「機法二種深信」、略して「二種深信」というのである。
「堕ちるに間違いない』と「助かるに間違いない」が同時に疑い晴れ、死ぬまで相続するのだから、一切の人智を超えている。
 一端なりとも例えるなら、十トンの石を、それを浮かす力のある大船に乗せれば、十トンのまま向こう岸に渡せる。弥陀に救われても煩悩の巨魁で『堕ちるに間違いなし」の実態は少しも変わらないが、本館の大船に乗せられて、「必ず浄土へ往ける」のである。その大安心は、どんなことがあっても微動だにしない「絶対の幸福」であり、この世の喜びとは比較にならない。
 この想像することも、言うことも、説くこともできない「不可思議・不可称・不可説」の世界を、どう説けば正しく伝わるか。釈迦はじめ七高僧親鸞覚如蓮如上人、歴代の善知識方のご苦労は、その一点に集中されていた。
 どんな人も、親鸞聖人の教えを聞けば、必ず絶対の幸福になれる。そこまで聞き抜き、弥陀如来と師主知識の、広大なご恩徳に報いる身となろう。(P)
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

高森顕徹会長が突然「法に依りて、人に依らざれ」と言い始めた背景を考える。

少し前に、高森顕徹会長が話の中で「法に依りて、人に依らざれ」の釈尊のお言葉を通して話をしたそうです。
どのような内容であったかは、すでに他の方のブログで言及されているのでそちらをごらん下さい。

hiun.cocolog-nifty.com
shingikensho.blog12.fc2.com


今回のエントリーは、その「法に依りて、人に依らざれ」のご文を、高森顕徹会長が出したことの意味について考えたことを書いていきます。
そもそもこの「法に依りて、人に依らざれ」は、仏教を学ぶ人に取っては非常に有名なお言葉ですが、親鸞会発行の教学聖典の1号から7号には掲載されていません。それだけ親鸞会にとっては都合は悪いものです。

結論から言いますと、高森顕徹会長が「法に依りて、人に依らざれ」というご文を出すのは、今迄の自身のやり方を間違いだったと認めるいわゆる敗北宣言です。なぜなら、私の知る限り高森顕徹会長の主張してきたことは「人(高森顕徹会長)に依りて、法(お聖教の内容→なぜなら会員読めないから一人で読むと間違えるの意味)に依らざれ」で一貫してきたからです。
私の記憶している範囲では、とある講師が高森顕徹会長以外の真宗の本を読んだり、親鸞会で用いている法蔵館真宗聖典に載っていない七祖聖教を読んだということで糾弾されたことがありました。そのころから、親鸞会講師の間では、「会長の著作以外の本を読んではならない」は共通認識として共有されることになりました。しかし、これは大変危険な考えです、読めるかどうかはさておき、お聖教を全く自分で読む努力もせず(最近では目にもしていません)、高森顕徹会長の話をする内容が「本当の親鸞聖人の教えだ」と思うことは、正しく「人に依りて、法に依らざれ」の状態です。


なぜなら、親鸞会会員にとって「高森顕徹会長が説くところの浄土真宗の教えが正しい」の保証は「だって高森顕徹会長が正しいと言っているから」しかないからです。そのため、親鸞会会員では無い人(学者や元会員)がどれだけお聖教(法)を根拠に高森顕徹会長の話を批判しても耳に入りません。

そんな状況が長く続いているなかで、高森顕徹会長が「法に依りて、人に依らざれ」のご文を出したと言う点に、高森顕徹会長の心中に大きな変化があったのだろうと思います。それは、ここ数年の親鸞会は「高森顕徹会長亡き後」を想定しての体制作りに右往左往していることにあらわれています。


一例をあげると、アニメ映画「なぜ生きる」への傾斜がその一つです。映画を中心として、その解説という形で各地の講師が話をする形式は、高森顕徹会長が法話をしなくなった後を想定してのものと思います。また、各地に会館を造り続けるのも、結果としては「富山の親鸞会館になにがなんでも毎月行く」という「高森顕徹会長ありき」の状況からなんとか転向したいという、高森顕徹会長を除く運営側の意図が感じられます。


実際問題として、私も親鸞会にいたころに思っていたことですが、「高森顕徹会長の法話が行われなくなった時、富山県親鸞会館に行く理由はなんだろう?」ということがあります。また、高森顕徹会長が亡くなるまでは頑張ると思っている会員も多くいます。「500年に一度の蓮如上人以来の善知識」を自認していた高森顕徹会長からすれば、いよいよ自身がいなくなった後を考えると、「法に依りて、人に依らざれ」とでも言わざるを得ない現状があります。

今迄何十年と「高森顕徹会長から話を聞かないと救われない」とか「高森顕徹会長しか真仮の水際を説ける人はいない」と言ってきた親鸞会としては、「法に依りて、人に依らざれ」はいわゆる真逆の話ということになります。高森顕徹会長の心を代弁すると「もう私(高森顕徹会長)の法話を聞けば誰でも助かるとは言えなくなりました」という宣言です。


そもそもの話として、真宗の法話とは、どんな人がどんなことを話をするのかを、親鸞会会員の方に知って頂きたいと思います。真宗の法話とは、何か突出したカリスマ布教使が、トップクラスの教学と魔法のような話術を用いなければできないようなものではありません。
一例として、以下の文章を紹介します。

ある時、妙好人源左に村の人がこの次の説教者を誰にしようかと相談した時、彼は答えて「誰でもよい、ただそのお説教のなかに『お前を助ける』という一句があれば、それでよい」といった。
「人に依らず法に依る」という考えもあるが、真宗の説教はまさにそれである。プロテスタントが、主として「話す人」に、その説教を依存しているのと対蹠的だといってよい。(柳宗悦 妙好人論集 P78)

柳宗悦 妙好人論集 (岩波文庫)

柳宗悦 妙好人論集 (岩波文庫)

妙好人の源左さんが言われていますが、「お前を助ける」(法)が大事なのであって、誰が話している(人)が大事なのではありません。


ここまで読まれた親鸞会会員の方は、ご自身の胸に手を当てて考えて見て下さい。
富山の親鸞会館に足を運んでいたのは、「親鸞聖人の教え(法)|を聞きたかったのでしょうか?それとも「高森顕徹会長の話を聞きたかった(人)」を聞きたかったのでしょうか?

最近の高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)の話に全く感動しない人にむけて書いた記事

最近の親鸞会の話が、映画「なぜ生きる」に関係したことばかりです。

これを聞くと親鸞会会員で熱心な方は「同じ話を聞くことが大事なのだ」と言われると思います。

「同じ話を聞くことが大事なのだ」については、私も異論はありません。南無阿弥陀仏のいわれを聞かせていただけるのであれば、それこそ有り難いと思います。しかし、その「同じこと」があまりにも多くの会員が聞きたい話ではなさそうなので、今回まとめてみることにしました。
なぜなら、親鸞会の会員の方は、常に未来を見ているためか、過去にどんな話があったかについてはあまり関心がないようです。だからこうしてまとめた形にでもしないと、どんな話があったのかさえも曖昧になってしまいがちです。こう書いている私も親鸞会にいたころは、例えば今なら5月の降誕会に向けてどうやって参詣目標を達成するかに頭が一杯で、一ヶ月前の話の内容についてあれこれ考えることはありませんでした。

そこで、ここ最近の高森顕徹会長の話の内容を振り返ってみたいと思います。

2017年02月04日
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります。」とは、どう変わるのでしょうか?についての話

2017年02月12日
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるります。」とは、どう変わるのでしょうか?についての話

2017年02月26日
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」についての話

2017年03月05日
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるります。」とは、どう変わるのでしょうか?についての話

2017年03月12日青年・学生大会
「映画『なぜ生きる』の中の了顕は、なぜ仏法を聞くようになったのか」について
御文章「白骨の章」からの話

2017年03月19日
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」についての話

2017年04月9日親鸞会館法話
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか」についての話

2017年4月23日講師部講義
映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」

まとめますと、3月12日の青年・学生大会での白骨の章について話した以外は(これもアニメ映画「なぜ生きる」についての話ですが)以下の二つです。

  1. 映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか」についての話
  2. 映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」


一つ目については、親鸞会会員にとって、特に聞きたい話ではありません。なぜなら、今迄何度もいわゆる「縦の線」(信の一念)で不可称不可説不可思議の体験をすると聞いているからです。親鸞会会員にとっては、「ガラリと変わる」のは「救われた後」の話であって、聞きたいのは「救われるにはどうしたらいいのか?」「救われるとはどういうことか?」ではないでしょうか?
個人的な記憶をたどると、私は「それ」を聞きたくて富山に足を運んでいました。いつかはそれを聞けるのではないかと期待をしていたからです。

二つ目について書きます。
映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」について何度も話をしていますが、話した内容からすると、本願のいわれを話しているとは言えず、全く意味がない話といえます。
なぜかといえば、南無阿弥陀仏阿弥陀仏の方から私に向かって差し向けられる(本願力回向)の話がないからです。
親鸞会会員の皆さんに少し記憶を紐解いて頂きたいと思います。高森顕徹会長が、阿弥陀仏の本願の話をするときは、どんな話だったでしょうか?
阿弥陀仏は命がけなんだぞ!!」で終わる話がほとんどではなかったでしょうか?事実ここ最近の話はそのような話でした。

高森顕徹会長の「阿弥陀仏は命がけなんだぞ!!」で終わる話は親鸞会会員にとっては「だから聞いている貴方も命がけになれ」「命がけになってないから助からないのだ」という話になってしまいます。かつて私もそのような話を聞いて「本当の命がけ」になれない自分は助かることはなのかな?とも思っていました。

しかし、私よりずっと先に高森顕徹会長の話を聞いて、かつ真面目に「求道」(親鸞会における活動)をしている人が阿弥陀仏に救われていないのが親鸞会の現状です。

そうなった場合、考えられるパターンは二つしかありません。

  1. 私の聞き方が間違っている(聞く側の責任)
  2. 説いている方が間違っている(説く側の責任)


ここで、多くの親鸞会会員は「私の聞き方が間違っている」と考えます。しかし、本当にそうでしょうか?よくよく思い出して見て下さい。高森顕徹会長の話に矛盾はなかったでしょうか?またその矛盾を「深い御心」ですませて来てはいないでしょうか?また、高森顕徹会長が声高に「本願寺(伝統教団)は間違い」ということに対して、一度でも伝統教団の話を聞いたり、本を読んだことは有るでしょうか?


少なくとも私は、親鸞会を除名されるまでは、そんな機会はありませんでした。


高森顕徹会長が親鸞聖人の教えとして正しい」という根拠が「高森顕徹会長がそう言っているから」の矛盾にそろそろ気がついてもいいのではないでしょうか?


真面目な会員の方なら、ここ最近の高森顕徹会長の話のメモはとっているかと思います。人によっては聴聞の記録をとっている人もいるかも知れません。可能ならば、ここ最近のメモを読み返して見て下さい。
ハッキリ言って、そのメモを読み返しても何の感慨もないのではないでしょうか?なぜなら、高森顕徹会長の話の中に、貴方が知りたいことがないからです。人は、自分が知りたいと思わない話について情動を動かされることはありません。貴方が、高森顕徹会長の話を聞いて心を動かされることがないのは、貴方が悪いのではなく、高森顕徹会長の話に問題があるからではないか?と少し疑問を持って頂ければ幸いです。


最後に、親鸞会のような善知識が絶対という考えを、真宗では「知識帰命(善知識だのみ)」といいます。それについて現親鸞会会員の人は抵抗があると思いますが、以下の文章を読んで頂きたいと思います。知識帰命について、これほど親鸞会会員にわかるように書かれた文章はないからです。

閉鎖的な信仰集団を形成していくものとして、覚如上人や蓮如上人が極力批判された異義に知識帰命(善知識だのみ)という信仰形態があります。それは善知識(先生)といわれる特定の人物が、自分は、外見は凡夫であるが、内実は浄土から出現してきた還相の菩薩であって、本体は仏そのものであるといい、阿弥陀仏に帰依するといっても目に見えないから、現身の仏である善知識に帰命すれば必ず浄土に生まれさせるというのです。このように善知識に身も心もささげて絶対的に服従することを誓わせる異義なのです。ですから一度その集団に入ると生涯そこから脱出することは許されず、脱出しようとするものは、この世ではさまざまな災難が降りかかり、死後には地獄におちて永劫の苦しみを受けると脅迫し、そればかりか実際にリンチを加えることもありました。親鸞聖人の流れを汲むと自称する門徒集団の一部に、念仏者の尊厳を踏みにじるような卑劣な異義集団があったのです。
私どもは、私を拝めという人を絶対に拝んでは成りません。ただ己を空しくして、如来のみ前に跪く人だけを真の善知識と仰ぐべきです。すべての人を如来の御子と信じて、あらゆる人に深い敬意を払っておられる人をこそあがめるべきなのです。(聖典セミナー 口伝鈔P102)

聖典セミナー 口伝鈔

聖典セミナー 口伝鈔

親鸞会における忖度と二種深信は「二つの心が同時に起きる」ものではない件(親鸞会機関紙顕正新聞平成29年4月15日号論説)

宗教法人浄土真宗親鸞会高森顕徹会長)の機関紙顕正新聞平成29年4月15日号を読みました。今回は岡山会館の落慶とその座談会の内容が主なものでした。


論説にまとめた記事が掲載されていたので、それを読んで思ったことを書きます。題名は「『他力の信心を獲得す』とは」でした。
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親鸞会では、信心を強調し(最近はそれも話しに出てこなくなりましたが)伝統教団に対して「信心を説かないのは間違いだ」と批判してきました。そして、「二種深信が立たねば真実の信心ではない」と主張します。


確かに、他力信心のすがたを示されたのが二種深信です。ですが、親鸞会の会員の多くは、二種深信について「二つの心が同時に起きる」ものと理解をしています。私も、以前はそのように理解をしていました。
そこで、今回の論説には以下のように書かれています。全体の中の最期六分の一を抜粋して紹介します。

では、何がハッキリするのか。他力の信を獲て明らかになるのは、二つのことである。
信心獲得すると、「私は煩悩にまみれた、金輪際、助かる縁なき極悪人だった」と、真実の自己の姿に疑い晴れると同時に、そんのものを必ず絶対の幸福に救うと誓われた「弥陀の本願」まことだったと疑い晴れる。
この二つが明らかに知らされる「他力の信心」を頂くと、永久に変わらぬ「絶対の幸福」に生かされる。その身になることこそ、古今東西、求めてやまない「なぜ生きる」の答えなのである。(顕正新聞平成29年4月15日号論説より)

親鸞会と縁のなかった人がこの文章を読むと、それほど疑問に思わないかも知れませんが、高森顕徹会長から話を聞いている会員は「二つの心が同時に起きる」という前提でこの文章を読んでいます。もちろん書いている人も同じ理解だと思います。


二種深信について浄土真宗辞典から紹介します。今回は、該当する辞書部分が長いので関係するところを抜粋します。

にしゅじんしん 二種深信
(略)この二種の深信は他力信心のすがたを示し、二種一具の関係にあって、別々のものでもなく、一つの信心の両面をあらわしている。なお、二種の心が並び起こるものである(二心並起“ニシンビョウキ”)としたり、前後関係(前後起)とする異安心に対し、安心論題に「二種深信」)が設けられている。

ここでいう「二種の心が並び起こる(二心並起)」が親鸞会会員の多くの理解です。論説でいうと「真実の自己の姿に疑い晴れる」と「弥陀の本願まことだったと疑い晴れる」の二つの心が同時に起こるという理解です。


私が親鸞会にいたころは、高森顕徹会長からこの二種深信の解説を聞く時には「地獄一定と極楽一定の自己が同時に知らされる」と言っていました。その後、種々の批判を受けて上記の論説の内容に変更してきましたが、「二心並起ではない」との説明を会員にしたと言う話は未だ聞いたことがありません。


二種深信とは、一つの信心の姿を機と法に開いていわれたものであって、その内容は一つのことを言われているものです。しかし、この論説からも分かることですが、「真実の自己」と「弥陀の本願」の二つの事が知らされると二つの心が同時に起きるのが親鸞会でいう二種深信です。


元々は、自分の姿が知らされるといっても、自力ではどうにもならないところに、自力をたのむ心がなくなり、本願はそういうものを救うと知らされるところに、本願にまかせた状態になるのです。ですから、二つの心が起きるということはなく、説明上は「一つには」「二つには」とあっても一つのことを言われたものです。


「真実の自己がまだまだ知らされないから救われない」「自惚れているから救われない」と会員が、自分自身で会長の教えを忖度して自分を追い込んでいるのが親鸞会の実情です。

親鸞会における忖度

そんたく【忖度】
〖名〗(「忖」も「度」もはかるの意)他人の心中やその考えなどを推し量ること。推量。推測。推察。(精選版 日本国語大辞典

森友学園問題で、報道で一時よく聞かれた忖度という言葉は、親鸞会によく当てはまるものだと思いました。外部からの批判に対して高森顕徹会長はよく「私はそんなこと言っていない」と言います。それは半分正解で、半分間違いです。


なぜなら、今回の二種深信の説明でも、高森顕徹会長は上記の論説にあるような話はしても、「二心並起は間違いだ」という話はしません。それを聞いた会員は「二つの心が同時に起きるのか」と忖度します。それを外部から批判されると会長は「私は言っていない」「会員の聞き間違いだ」と言います。しかし、正確に言えば「私は(誤解のないような話は)言っていない」です。とはいえ、会の中で絶対的存在である会長が、自信をもって「説き切る」訳ですから、会員はよもや「説明していない部分がある」とは夢にも思いません。聞いた範囲から教えも忖度するのが習慣として身についています。


その中でも、どうしても矛盾する内容に関しては、会長が先回りしてまた「救われたらわかること」「進めば分かる」と言うので、会員また「救われない私があれこれと小賢しいことを尋ねるものではない」と忖度して活動に邁進しています。
外部から見て「なぜ親鸞会会員は高森顕徹会長の話を聞いて疑問に思わないのか?」と思う人も多いと思います。疑問は起きるのですが、「そう思うのは自分が未熟だから」と忖度して、まともに会長の教えに向き合わないからです。


各地の会館で今後も落慶座談が行われていますが、もしこのエントリーを読まれた会員で、質問する機会のある方は、今回の内容を尋ねて見て下さい。種々疑問を抱えたまま、活動だけするのが阿弥陀仏の救いへ向かっていると思うのは間違いです。


ただ今救う法を聞いて救われて下さい。

「追い詰められないと救われない」ように親鸞会会員が考える理由(顕正新聞平成29年3月15日号論説より)

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顕正新聞(宗教法人浄土真宗親鸞会の機関紙)平成29年3月15日号の論説(「弥陀の願心を聞く一つ」)を読みました。内容は、最近高森顕徹会長が話した内容をまとめたものですが、親鸞会における阿弥陀仏とその救済についてとても解りやすく書いてあったのでエントリーを書きます。

一部引用では、どういうことが書かれているか親鸞会会員でない人には分かりにくいと思いましたので、文末に全文を転載しています。気になった方は、そちらをご覧下さい。

今回の内容は、平成29年2月に行われた「茨城つくば会館」落慶座談会で高森会長が話したことを要約したもののようです。

特に親鸞会らしいと感じたのは、以下の部分です。

 ここで「摂取」と言われる「摂」はただ「取る」のではなく、「逃げ回るものを追いかけ、逃げ場のなくなったところを救い摂る」という意味がある。それが弥陀の御心だからである。
 親鸞聖人は弥陀の誓願を、人生の苦海に沈む私たちを乗せて極楽浄土まで楽しく渡してくださる「大船」と道破されている。その譬えでいうなら、逃げ続ける私たちを、願船が追い詰め、最後は眼前まで突進して、救い上げてくださるのである。(顕正新聞平成29年3月15日号論説)

摂取についてこのように解説しています。もちろん、そういう意味もあるのでこれ一つを取り上げて間違いだとは言えないのではないかと考える人もあると思います。

こちらのブログにも摂取について紹介されています。
tokuyoshimine.hatenablog.com

しかし、親鸞会にいた人間としてこういう話を聞いた会員は「『逃げ場のなくなったところ』まで私は追い詰められていないから救われないのだ」と考えるだろうと想像出来ます。そして、「まだまだ余裕のある私は追い詰められていない」とか「自分で求めているつもりになっているのは自惚れだ。まだ追い詰められていない」と考えます。

その証拠に、今回の論説の後半にはこう書かれています。

「私は乗りたいと思っている」「真剣に求めている」とうぬぼれているのは、わが身知らずも甚だしい。それを聖人は『正信偈』に、「邪見・憍慢の悪衆生(うぬぼれいっぱいの極悪人)は信楽受持する(大船に乗ずる)こと甚だもって難し」と仰っているのである。(顕正新聞平成29年3月15日号論説)

「助かりたい」とか「真剣に求めている」というのは、本当は求める心もないのに自惚れているのであり、そういう者は助からないと親鸞会会員の多くは理解をしています。

では、どうすればいいのか?

その弥陀の御心(願心)を、よく聞くことが肝要である。(顕正新聞平成29年3月15日号論説)

と、文章を読むと特に変に思われない人もあると思います。しかし、親鸞会会員「弥陀の願心を聞く」とは「高森会長の話を聞く」ことと同義語になっています。

結果として、毎月の親鸞会館(富山県射水市)での高森会長の法話には必ず参詣し、テレビ座談会、各地の会館の落慶座談会、人によっては講師部講義に参加することが肝要であるということになります。

そこまでして、懸命に足を運んだ高森会長の法話や座談会でどれだけ「弥陀の願心」が説かれているでしょうか?少し前では、ほとんどが因果の道理の話だった時もありました。映画「なぜ生きる」が完成すれば、セリフの解説、了顕がどうして仏法を聞くようになったかなど、午前午後と話があってもどれだけ弥陀の願心の話があったでしょうか?参加されている会員の方ならよくご存知のことと思います。

「初めての人の為に因果の道理の話がされている」などという説明が親鸞会の中ではよくされますが、初めての人だからこそ弥陀の願心の話がないのはおかしいです。     


追い詰められていないと救われないと聞かされた会員は、度重なるお布施や毎月の富山参詣で経済的精神的に追い詰められているのが現状です。それを「苦しい」と思うのは、「自惚れだ」と釘を刺されれば、下を向いて歯を食いしばって会長の勧め通りの活動(会長の話を聞く)以外にありません。また、追い詰められているのは自分が正しい道を歩んでいるからだと考えてしまいます。どうして、こう言えるのかといえば私もかつてはそう考えていたからです。

親鸞会の講師部員は、経済的精神的に追い詰められている状態が「正しい求道の姿」であり、逆に追い詰められていない状態、余裕の有る状態、楽な状態にあると「正しい道を外れている」と考えます。

しかし、親鸞聖人は阿弥陀仏は何も追いかけるばかりではないと書かれています。摂取について、最後にご文を紹介します。

最初は、和讃の「摂取」の左訓からです。

【左訓】「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(異本)

https://goo.gl/IEGlLM

次は、一念多念証文より。

摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。

https://goo.gl/mwGtP6

追いかけるばかりではなく「迎へとる」と言われています。

ただ今救うの仰せを、その通りとお受けする人は迎えとって下さいます。逃げるは救いの役に立つと考えるのではなく、本願の仰せをそのまま聞いて救われて下さい。また、「弥陀の願心を聞く一つ(論説)」なのですから、弥陀の願心がない話を聞きに苦労をする必要はありません。

参考までに 顕正新聞平成29年3月15日号 論説 全文

「弥陀の願心を聞く一つ」
「『弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり』 と信じて『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり。」(『歎異抄』第一章)
 有名な『歎異抄』書き出しの「弥陀の誓願」とは、「すべての人を必ず絶対幸福に救う」と言う阿弥陀仏の本願(お約束)のことである。弥陀の本願に助けていただくと、少しも変わらぬ、死ぬまで続く幸福になることを、「摂取不捨の利益」にあずかると表現されている。
 ここで「摂取」と言われる「摂」はただ「取る」のではなく、「逃げ回るものを追いかけ、逃げ場のなくなったところを救い摂る」という意味がある。それが弥陀の御心だからである。
 親鸞聖人は弥陀の誓願を、人生の苦海に沈む私たちを乗せて極楽浄土まで楽しく渡してくださる「大船」と道破されている。その譬えでいうなら、逃げ続ける私たちを、願船が追い詰め、最後は眼前まで突進して、救い上げてくださるのである。
 弥陀のお慈悲で大船に乗せていただくと、必ず浄土へ往ける「往生一定」の大安心になり、その歓喜は永久に変わらない。この無上の幸福になるためにに人間に生まれてきたのだから、弥陀は私たちをなんとか大船に乗せようと、追いかけてくださっているのである。
 ところが私たちは、近くに浮いている生きがいの丸太や板切れを求めることに心を奪われ、大船に「乗ろう」という気はさらになく、逃げに逃げ回っている。
「それでは人間は、苦しむために生きることになる」と、なおさら哀れに思し召す弥陀は、そんな者を追いかけ追いかけ、衆生済度に心休まれる時は一刻もないのである。
 そう聞くと、早く大船に乗りたいと真剣に求めている人は、なぜ自分が「逃げ回っている」と言われるのか、不審に思うだろう。だがそれは、阿弥陀仏がどんな者のために本願を建ててくだされたのか、その御心(願心)が分からないからである。
 例えるなら、こうもいえよう。庭の池の鯉を、湖に放してやろうと思った飼い主が、網で救おうとすると、鯉は死に物狂いで逃げ回る。捕まったら殺されると思い込んでいるのだ。いよいよ逃げ場がなくなって観念した鯉が網にかかり、湖に解放されて初めて、こんな広大で自由な世界に出そうとしてくれたのかと、感激するようなものである。
「助けよう」と思う人間と、「殺される」と逃げ回る鯉とでは心が反対なのは、境界が全く違うからだ。まして人間と阿弥陀仏では、無限の隔たりがあるから、「逃げている」自覚もなしに、命がけの弥陀の願心の疑い、御胸に五寸釘を打ちつける、恐ろしいことを思い続けているのである。
 弥陀は古今東西すべての人間を、欲や怒り、妬みそねみの煩悩の塊で、まことのカケラもない者と見抜かれている。十方衆生(すべての人)には、真実を見る目もなければ聞く耳もない。まことの阿弥陀仏の造られた「大悲の願船」は真実の船だから、私たちには見えないし、信じる心もなければ、「乗りたい」という心もない。
 そんな者だからこそ阿弥陀仏は、かかる煩悩具足の衆生を救うと言う本願を建立され、大船を造ってくださったのに、「私は乗りたいと思っている」「真剣に求めている」とうぬぼれているのは、わが身知らずも甚だしい。それを聖人は『正信偈』に、「邪見・憍慢の悪衆生(うぬぼれいっぱいの極悪人)は信楽受持する(大船に乗ずる)こと甚だもって難し」と仰っているのである。
「助かりたい」心は微塵もない我々だからこそ、阿弥陀仏のほうから、「助けさせてくれよ
」「任せてくれよ」と手を突いていておられるのだ。その弥陀の御心(願心)を、よく聞くことが肝要である。

 大悲の願船に乗せていただいた一念に弥陀の広大なお慈悲が知らされ感泣、懺悔させられる。その一端を歌ったのが、「信心数え歌」である。
 四ツとせ
 能く能く御慈悲を聞いて見りゃ、
 助くる弥陀が手を下げて、
 任せてくれよの仰せとは、
 ほんに今迄知らなんだ。
    (F)

親鸞会のアニメ映画「なぜ生きる」への傾斜とその影響を考える

現在親鸞会では映画「なぜ生きる‐蓮如上人と吉崎炎上‐」に全力を傾けています。昨年5月の完成以来、全国での映画館上映のあと、公式HPでは掲載されていないながら、各地の公民館などで映画上映が続いています。中には寺で上映会が行われるところもあるそうです。
nazeikiru-eiga.com

とはいえそれだけならば、過去に親鸞会で行われてた「イナヅマ作戦(本願寺なぜ答えぬの頒布)」や「光作戦(アニメ世界の光親鸞聖人シリーズの頒布)」とそれほど変わりません。しかし、今回の特徴は、映画「なぜ生きる」の扱いが、かつての著書やアニメより重いことです。言い換えれば、映画「なぜ生きる」が、お聖教より上の扱いをするようになっています。
その証拠に、映画「なぜ生きる」が公開されて以降、高森顕徹会長の座談会は全て「映画なぜ生きるの中の○○というセリフの意味は何でしょうか?」というものになりました。
それに答えるのは、映画の脚本を作成した高森顕徹会長です。その質問にどう答えたとしても、作者の答えが正解となります。たとえ、その回答が親鸞聖人のいわれなかったことであったとしてもです。
そこで、この映画「なぜ生きる」完成にあたって、親鸞会の中での大きな教義的な優先順位が変わったことが分かります。


映画完成前
お聖教>高森顕徹会長の言葉

映画完成後
映画(高森顕徹会長の言葉)>お聖教
これから分かる事は、親鸞会ではいつの間にか、お聖教(親鸞聖人の書かれたもの)よりも、映画「なぜ生きる」(高森顕徹会長の書いたもの)の方が権威が高いことになっています。
このようにしたのは、誰でもない高森顕徹会長ですが、その理由を想像するのは簡単です。
ここから遠くない将来に、高森顕徹会長が会員の前で毎月何回も話をすることは難しくなります。そうなった時に、親鸞会講師の誰が親鸞会館での法話やテレビ座談会で多くの会員の前で話をすることになります。
しかし、ここで大きな問題があります。それは会員の多くはよく知っていることですが、現会長の代わりに話ができる人がいないという問題です。


なぜなら、親鸞会講師は高森顕徹会長から「このご文はこういう意味だ」と聞いた以外に、自分の目と頭でお聖教を読んだことがないからです。そのため、高森顕徹会長が解説したご文以外のお聖教に関しては、まったく答えることもできません。また、高森顕徹会長が解説した部分に関しては、仮にどれだけ間違っていたとしても、それを認めようとはしません。これでは、「浄土真宗の正統」を看板に掲げる「宗教法人浄土真宗親鸞会」としては、まさに看板倒れになってしまいます。座談会はもちろん、法話もまともに開催できるかどうか甚だ疑問です。高森顕徹会長が会長の座をいつまでも譲らないのも、本人の性格以上に親鸞会の現状がそのような形になっているからです。


しかし、映画「なぜ生きる」の解説を、高森顕徹会長が話をしなくなった後に親鸞会講師が話をするとなったらどうでしょう。
仮にどんな解説(真宗教義的には疑問がある解説)をしたとしても、「脚本を書いた高森顕徹会長がこういわれていた」ということで親鸞会の中では正当性を保つことができます。とはいえ、これは考えて見るとおかしな話です。
浄土真宗の法話ということであれば、あくまでその根拠は親鸞聖人が書かれたものになければ成りません。親鸞聖人の教えはこうです、その根拠は「映画なぜ生きるです」では、話が通じません。しかし、その話が通じないことをしつつあるのが今の親鸞会です。
浄土真宗親鸞会」の看板を掲げて「親鸞会館」で法話や座談会を行い、そこで話をしていることは「これが本当の親鸞聖人のみ教えです」と言いつつ、その根拠を尋ねられると「映画なぜ生きるにこうあるから」と言っています。 


つまり、親鸞会では「親鸞聖人の教え」の根拠が「高森顕徹会長の作った『映画なぜ生きる』」にあるということです。はたしてこれを、浄土真宗の団体と言えるでしょうか?
キリスト教系の新宗教では、聖書に書かれていることの本当の意味はこの「教祖」の書いた本に書かれていると言っているのと大差はありません。
また、それらのキリスト教系の新宗教を信じている人は、「自分こそ本当のキリスト教を信じているもの」と言っています。それって、親鸞会の言っていることとよく似ていませんか?


外部からの批判を逃れ、自らの正当性を守るために行き着いたのが「根拠は映画『なぜ生きる』(脚本 高森顕徹会長)」です。しかし、会員歴の長い方はこれについて思い当たることがあるのではないでしょうか?
たとえば、教義的な疑問で、かつ高森顕徹会長が法話で言及しなかったことを、担当講師(支部長)に質問したとき、ほぼ100%「高森先生に聞いてきます」と言われたことないでしょうか?少なくとも、私が親鸞会講師部員だったころの講師部講義の質問は「会員からこんなことを聞かれたのですがどう答えたらいいでしょうか?」というのが大半でした。そうして、高森顕徹会長から回答されて初めて担当講師は、会員の教義的質問に答えられるという状況でした。
しかし、将来を考えると高森顕徹会長がそうやって回答出来る時間も限られてきます。そうなると、とるべき手段はそもそも質問がでる範囲を絞ることになります。最初にも書きましたが、最近の親鸞会の座談会や法話は映画「なぜ生きる」の内容についてです。機関紙を見る限りでも、もう質問することがなくなったのか、同じ内容が繰り返されている印象です。それもそのはず、映画「なぜ生きる」の蓮如上人のセリフと言っても文字数にすればそれほど多くある訳ではありません。まして、会員にとって知りたい部分は限られています。


未来の親鸞会を考えて見ると、会員は映画「なぜ生きる」の内容からしか質問を出せず、回答する親鸞会講師も過去の高森顕徹会長の回答をもってきて話をするだけという、長年の会員以外は聞くに堪えない話になることは目に見えています。
そうなると、高森顕徹会長が引退後に今の親鸞会を存続させるための映画「なぜ生きる」への傾斜が、皮肉なことに親鸞会そのものに止めを指すことになります。それもそのはずで、高森顕徹会長をそもそも知らない(あまり知らない)今後の入会者からすれば、「これが浄土真宗の教えです!根拠は映画『なぜ生きる』」と言われても、かつてのように「これぞ本当の浄土真宗」と思う人はありません。


「一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。」(御一代記聞書)
数年前の支部長会議で高森顕徹会長が、「信がなくても布教は出来る」と参加した講師部員に話をしたのが、親鸞会の終わりの始まりだったのだと今は思います。
親鸞会講師の方へ、映画なぜ生きるを見ることよりも、手元のお聖教を拝読することをお勧めします。