親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「捨てものは「自力の心」ただ一つ」の論説(顕正新聞平成29年8月1日号)を読んで思ったこと

顕正新聞平成29年8月1日号を読みました。一面と論説から読んで思ったことを書きます。

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一面は、シネマ学院の施工業者へのインタビューでした。どれだけ高機能な映像設備なのかが詳しく説明してありますが、まるでよい施設で視聴すると映画「なぜ生きる」の内容が正しい真宗になるかのような記事でした。

映画『なぜ生きる』の上映に特化した施設なので、その素晴らしさを最大限に引き出せる設備といえるでしょう。
(略)
一般の映画館を超えた、最高レベルの施設と考えていいと思います。
映像も音響も、日常の体験を超えた「超体験」を完成目標としているので、注文は厳しいですがすごくやりがいのある仕事ですね。
顕正新聞平成29年8月1日号1面 シネマ学院設計施工業者に聞く)

一般の映画館より更に高機能な音響施設で造られているようですが、だからといって同朋の里に上映専門施設を建てる必要は全く感じません。これまで親鸞会ではいろいろと理由をつけては、箱物を造ってきました。


例えば、親鸞会館(二千畳の正本堂)完成後の地下道は、雪の中でも駐車場から会館まで楽に会員が移動できるようにといったものでした。実情は、親鸞会館と駐車場の間に公道があり、行事日に多くの会員が横断するのが地元の住民から通行の邪魔だとの意見があったためです。そのような実情は会員には一切説明なく「会長先生が雪の中を歩く会員さんの姿を見て、参詣者が怪我をしないようにということで地下道を提案してくださった」ということになっていました。


その地下道も当時の会員の間でも、「本当に必要なのか」との声がありましたが、雨や雪の日に濡れないという実用面は多少あったのでなんとなく納得する人もいました。
その後、信心の沙汰をする同朋の里、その中にできたコンビニ、食堂、大浴場、宿泊施設等々を建設してきました。どれも、外部から見れば「どうして必要なのか」と思うようなものばかりです。それでも、いろいろ理由をつけて建設してきました。


しかし、今回のシネマ学院ばかりは、会員に対しても言い訳が立ちません。
まず、この映画「なぜ生きる」は、真宗の教えを多くの人に弘めるために作成したはずのものですから、富山県親鸞会の施設内で専門上映館があることはその目的にまったく叶いません。
加えて、現在でも地元の会場やシネマバスで上映をしている(できる)映画を、わざわざ別に上映館をつくる必要はありません。
この紙面から分かる事は映画『なぜ生きる』が最高レベルの映像、音響で見ることができることしかありません。それが果たして、会員からお布施を集めてまでしなければならないことでしょうか?

今回のシネマ学院でよくわかることは、親鸞会の箱物は「必要だから」建てているものはもはやないということです。「建てねばならないから建てている」というのが実情のようです。その理由について親鸞会は一切説明はありませんが、いずれにしろそれらの箱物の建設費用は会員が負担しなければなりません。


このような会員からお布施を募る時に、顕正新聞の論説はいつも似たような話を書きます。いわゆる「善の勧め」です。ここ最近の論説では、外部からの批判を気にしてかそれについての記事は書いてきませんでしたが、いざ箱物を建てる段になると、元通りの状態にもどります。それが親鸞会の本質といって間違いはありません。

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「雑行」の体は諸善万行だから、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ、やめよ」と誤解して、善の勧めを排斥するものが浄土真宗には非常に多いのである。
とんでもない誤りだ。
諸善に努めねば善い果報は来ない。阿弥陀仏の本願を疑って、自分の行った善を弥陀の救いに役立たせようとする「自力の心」が悪いから、雑行と嫌われ、捨てよ、と言われるのである。
顕正新聞平成29年8月1日号論説より抜粋)

これだけ読んで納得する人は、あまり多くないと思います。これを納得しているのは、論説を書いている人くらいではないかと思います。

細かくは書きませんが、「雑行、雑修、自力の心をふり捨てて」の領解文が前述の文章の前に出てきます。当然、阿弥陀仏に救われる話、一大事の後生の話が書かれている流れにも関わらず「諸善に努めねば善い果報は来ない」と突然文脈にまったく関係ない文章が入ってきます。この文章は、親鸞会が雑行の話をするときには必ずといっていいほど出てきます。しかし、繰り返しになりますが、阿弥陀仏の救いと全く関係ない話です。


つまり、この文章(諸善に努めねば善い果報は来ない)が一番今回の論説でいいたいことだということです。また、高森会長が一番いいたいことでもあります。言い換えれば、「お布施を出さねば善い果報は来ない、だからお布施を出しなさい」です。


ここまで読まれた親鸞会会員の方には思い当たるところがあるのではないでしょうか?
親鸞会で「雑行」の話を聞いた時、心に何が残ってきたでしょうか?
私が記憶している範囲では、大体以下のものでした。
「雑行捨てねばならないが、諸善をするなということではない、むしろやらないと善果はこないから頑張ろう」
「自力の心は捨てねばならないが、諸善は捨ててはならない」

阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏を聞く一つなのですが、「聞くか聞かざるか」の話が、いつの間にか「善をするか捨てるか」の話にすりかわっています。南無阿弥陀仏で往生するかしないかの話が、善果が来るか来ないかの話になっています。


結果として、親鸞会会員が常に考えていることはどうすれば善果がくるような善をすることができるかに留まったままです。
どうすれば、富山の行事に参加できるか、どうすれば推進されるお布施の金額を用意することができるか、どうすれば参詣目標に届くか。そのためには誰に声をかければいいだろうか。

そうやって、阿弥陀仏の救いと自分の善を切り離せない考えを自力の心といいます。捨てねばならないのが自力の心と論説でいうのならば、阿弥陀仏の救いと善を関係づけるような記事を掲載する親鸞会こそ捨てねばなりません。2017年08月06日(日)は親鸞会館で会員追悼法要ですが、これまでに熱心に親鸞会のいうことに従って来た人が、もし声を出せたらどんな事を語られるのか、これをご縁に我が身に引き当てて考えて見て下さい。

以前、ブログにも書きましたが、以前ある会員の方がなくなる前にこう仰っていたことを耳にしました。
その方は、大変熱心な活動を続け、親鸞会の勧めるお布施にも何時も積極的に参加していました。高齢となり、亡くなる前に「これまで五千万円財施したけど、獲信できなかった……」と言われました。
こういう話をすると、高森会長はじめとして、親鸞会の講師は「お布施をしたら助かるなどということは、一度もいった事がない!聞き間違いだ」と言ってきました。本人を目の前にしてもこんなことが言えるでしょうか?本人を目の前にして言わなくても、そういうことを口にすれば言ったも同然です。

しかし、それは聞き間違いでも何も無く、親鸞会の教えを「正確に」聞けばそうなります。
自力の心を捨てる前に、間違った教え捨てて下さい。南無阿弥陀仏は必ずただ今救って下さいます。

「シネマ学院9月末完成」(顕正新聞より)を読んで思ったこと

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顕正新聞平成29年7月15日号より)
顕正新聞宗教法人浄土真宗親鸞会の機関紙)2017年7月15日号を読みました。
今回一面に掲載されているのは、タイトルにも書きましたが「シネマ学院(同朋の里)9月末完成 映画『なぜ生きる』から親鸞聖人の教えを学ぶ」でした。
以前から、シネマ学院という建物ができる話は聞いていましたが、いよいよ完成が近づいてきたようです。
具体的にどのような用途で使うものかが、今回の顕正新聞でやっと分かるようになりました。

上映室には、約9.8メートル×5.6メートルのスクリーンと175席が設けられる。上映後は、映画のご解説を、ビデオ聴聞できる。
場所は同朋の里・F館と親鸞会館(浄信の間)などで、希望に応じて参加できるよう準備中だ。(1面より)

シネマ学院は「なぜ生きる」専用の映画館だそうですが、同朋の里でも親鸞会館でも映画上映することも可能なことを考えると、「箱物を建ててお布施を募る為に建てた」という以外には考えられないものです。

会にとっても会員にとっても「最高レベルの映像・音響でなぜ生きるを見ることができる」ことがそれほど大事なことだとは思えません。そんな映像や音響に拘りをもっている会員は少数派でしょう。

では、会員にとって「シネマ学院が大事な施設」となるのは「上映後のビデオ聴聞高森顕徹会長により映画解説)」以外にはありません。映画公開以来ずっと続いている高森顕徹会長の映画の内容に関する質問に対しての回答がビデオで見ることができるというのは、熱心な会員にとってはお布施を出す動機になるかもしれません。

こういう親鸞会の現状を見ると、以前から予想されていたことがいよいよ現実になってきたと感じます。それは、高森顕徹会長が引退すると、今と同じ形の親鸞会は無くなってしまうだろうということです。
なぜなら、親鸞会は良くも悪くも高森顕徹会長の個人事業のような団体です。特に教義については、仮にお聖教にないことでも「高森顕徹会長がこうだ」といえば、そのようになってしまうのが今までの親鸞会でした。その為、高森顕徹会長が居なくなった後の親鸞会には、何を以て「親鸞会の教義(親鸞会がいうところの本当の親鸞聖人の教え)」が正しいものかを判断できる人がいなくなります。そうなると、根拠となるのは高森顕徹会長の著作、映画、及び過去の法話や座談会のビデオしかありません。
また、高森顕徹会長が引退すれば、会員にとっては富山の親鸞会館や同朋の里に行く理由はなくなってしまいます。


そこで、会長引退後を見据えて、それでも富山に会員が集まる理由として「高森顕徹会長のビデオ解説が聴聞できますよ」としたのがシネマ学院だと思います。未来の親鸞会は如何に会員を富山に定期的に集めるかに全てを傾注することでしょうが、それは一体なんのためでしょうか?

しかし、それが続くのも長年高森顕徹会長について来た会員が元気な間であって、未来の親鸞会会員にとって、何度も同じ映画と解説録画を見るために富山に行く人は少なくなるでしょう。


親鸞会は、映画と解説ビデオを教義の聖典とするのではなく、看板に掲げた「浄土真宗」が嘘でないなら親鸞聖人の書かれたお聖教に基づいて聴聞、布教をするべきです。

今までの教義間違いを「なかったこと」にしようとする高森会長のアニメ映画偏重

7月2日(日)にネット中継での高森会長の話がありました。
話の内容は、以下のブログ記事に紹介されていますが、アニメ映画「なぜ生きる」のセリフについての話でした。
shingikensho.blog12.fc2.com

前回の当ブログのエントリーで、アニメ映画「なぜ生きる」の話がずっと続いている理由を書きました。
shinrankaidakkai.hatenablog.com

今回は、それからまた考えたことを書きます。

前回のエントリーでは、高森顕徹会長がアニメ映画の話ばかり理由を、親鸞会聖典にすることを決めたからだと書きました。
それに加えて考えた理由は、このアニメ映画「なぜ生きる」のみを親鸞会聖典として、それ以外の著作や映像は「なかったこと」にしようとしているのではないかということです。

その理由は、これまでも同じようなことをしてきたからです。

都合が悪くなると「なかったこと」にしてきた親鸞会の歴史の一部を紹介

その1 会報

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以前親鸞会会員むけに会長が書いた「会報」がありました。私が、親鸞会に入会した平成5年の時点ですでに「もうすぐ絶版になる」と聞き、買いそろえました。その後、予定通り「会報」は在庫がなくなり次第絶版になりました。会報は当時「現代の教行信証」「真宗の教えが全て書かれている」と会員にはアナウンスされていました。そのため、そんな大事な本がなぜ絶版になるのか誰もが不思議に思っていました。しかしその後、その会報の内容のかなりの部分が他人の著作からの剽窃であることが分かり、絶版にしたのも納得しました。
(参照)会報1〜5の目次
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(全部で5冊なのですか、なぜか半分近くが「善知識」というのが特徴です)

その2 本願寺なぜ答えぬ

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本願寺派と「宿善」について教義論争をした結果をまとめもので、高森顕徹会長の著作です。
会員向けには、「本願寺派に完全勝利した」と宣伝していましたし、出版当時は「イナヅマ作戦」と称して戸別訪問で各地の寺や真宗門徒に売り歩いていました。
しかし、これもその後出版停止になりました。もちろんその理由は会員には案内されませんでした。
これも本当の理由は、ネット上に本願寺派の反論文章の完全版が公開されたことにより、「なぜ答えぬ」で一部だけ引用して如何にも「本願寺に勝った」かのように加工していただけだという嘘がバレてしまったからです。もちろん、熱心な会員以外が読めば、そんな印象操作も空しくどう読んでも親鸞会が勝ったようには読めない本です。
これも「絶版」にすることで「なかった」ことにしています。今年入会した会員は、この本の存在も知らないと思います。
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少なくとも機関紙では、ここ最近善の勧めを書かなくなってます。これだけ声高に主張したことは、親鸞会では「なかったこと」になっているようです。または、別の世界線の話のようです。


「なぜ生きる」(一万年堂出版)出版の目的

それ以外にも、過去の著作が剽窃だらけであることが、ネット上で明るみになると、それらのことを「なかったこと」にするために、高森顕徹会長の著作として初めて剽窃がない(とされている)「なぜ生きる」を出版しました。
ところが、この「なぜ生きる」は、内容が真宗教義からいって大変問題があり、ネット上では大いに批判を受けることになります。それに反論する形で「なぜ生きる2」を出版しましたが、またまた教義上問題があり批判を受けます。

映画制作の目的も、過去を「なかったこと」にするため?

そこで高森顕徹会長は、著作を出すことを諦めて、ソフト化しない限りあまり批判を受けない(受けたら修正できる)劇場公開のアニメ映画制作にとりかかったのではないかと思います。(なにせ映画館で上映している映像がネットに流れれば「映画泥棒」として訴えることができます。)また、シネマ学院を同朋の里に建設することを考えると、一般向けのソフト販売はしない可能性が高いです。

本は一度出版すれば、内容を修正することはほぼ不可能になります。また、本の文章が証拠として今まで散々批判をうけてきました。そこで、現在修正作業を続けているアニメ映画が完成または、会長が修正作業ができなくなった段階で、高森顕徹会長の著作物はアニメ映画「なぜ生きる」だけを残して全て絶版になると予想されます。

高森顕徹会長の目線で考えて見ると、親鸞会結成25周年頃に、自らを会員に「蓮如上人以来の善知識」と呼ばせて、その後会館を各地に会館を建てている当時は、自らの説くところの「本当の親鸞聖人のみ教え」がこれほど批判されることは夢にも思っていなかったことでしょう。

今まで出した著作を全部なかったことにして、今度こそ批判を受けないようなものを残したいという思いで映画の修正をしているのが今の高森顕徹会長です。「火の雨も 親鸞学徒受けて立つ」と勇ましく言っていたのも遠い過去になったようです。
ここ最近の顕正新聞論説に出ている最近の高森会長の話の要約も、「こう言えばネットでも批判されないだろう」という一心で話をしている姿が目に浮かぶようです。

最後に高森会長へ

自らの名誉の為に話をしたり、作品を造るのではなく、そんな貴方を信じている会員の為に法を伝える努力をして下さい。何か深い御心があって映画「なぜ生きる」の話をつづけているのだろうと信じている会員の多くに同情致します。

高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)が、アニメ映画「なぜ生きる」の話ばかりをし続ける理由を考える

2017年06月25日に親鸞会館で高森顕徹会長の話がありました。すでに他のブログでも言及されていますが、アニメ映画「なぜ生きる」の中の蓮如上人のお言葉の意味についての質問に答えるというものだったそうです。
hiun.cocolog-nifty.com

shingikensho.blog12.fc2.com
また、8月の親鸞会館での追悼法要の演題は、白骨の章に決まりました。これもまた、アニメ映画「なぜ生きる」に出てくる話です。

なぜアニメ映画「なぜ生きる」の話が続くのか?

昨年5月にアニメ映画「なぜ生きる」が公開されてより、高森顕徹会長の話の大半(質問に答える形式では全て)は映画に関するものばかりです。(正確に言えば、アニメ映画制作が始まった公開1年前より難度海の話がずっと続いていました)なぜ、このように映画の話ばかりをするのかについて考えて見ました。

結論から言えば、高森顕徹会長がこのアニメ映画「なぜ生きる」を、親鸞会にとっての聖典にすることに決めたからです。


以前も、それについてこのブログで言及しましたが、高森顕徹会長はいよいよ本気でそうしているようです。私がそう思ったきっかけは、今年の5月にアニメ映画「なぜ生きる」の修正版が公開されたことを耳にしたからです。5月に富山県高岡市でアニメ映画「なぜ生きる」が再び映画館上映されました。その際に、100箇所以上の修正を加えたものが公開されたとのことです。セリフも増えたり、変更されたりしていました。言って見れば「なぜ生きる2017」が公開された訳です。

その時制作しているものの話をするのが高森顕徹会長

親鸞会会員を長く続けている人ならば分かると思いますが、高森顕徹会長は何か書籍やアニメを作っている時は、それに関する話をするという特徴があります。
かつて、チューリップ企画の「世界の光親鸞聖人シリーズ」が制作されていた時期は、それぞれのアニメの内容に関する話(例えば、第4部では無明の闇、第5部では歎異抄2章)を繰り返ししています。
映画「なぜ生きる2017」が公開されたことを聞いて、ずっとアニメのセリフについての質問ばかりを受け付けそれに答えていた理由が分かりました。それは、その質問の部分を中心としたアニメ映画のセリフの修正をずっとしていたからです。その結果100箇所以上修正した映画が公開されました。高森顕徹会長からすれば、この映画「なぜ生きる」はまだ未完成ということなのでしょう。そうすれば、映画公開後1年を過ぎても、DVDなどのソフト販売をはじめないのも納得がいきます。

映画「なぜ生きる」は永遠に完成しない

現在も映画「なぜ生きる」についての話を続けているということは、映画の修正をずっと続けているのでしょう。今後予想されることは、来年高森顕徹会長が健在であれば、映画「なぜ生きる2018」が公開されることと思います。その後も「2019」「2020」と高森顕徹会長が健在な間は続く事でしょう。そしてその修正は、高森顕徹会長が生きている間終わらないと思います。つまり、映画「なぜ生きる」は、会長の頭の中では永遠に完成しないのです。
このようなことを高森顕徹会長がするのも、親鸞聖人がその主著である「教行信証」を、終生書き直し続けられたことに倣っているのだということは、会員ならば想像できることと思います。そこから分かる事は、高森顕徹会長は本気で、映画「なぜ生きる」を宗教法人浄土真宗親鸞会聖典と決めたということです。
ですから、今後高森顕徹会長がアニメ映画「なぜ生きる」を離れた話をすることはないと思われます。


ここ最近の話の内容を伝え聞く限りは、会員も常にアニメ映画のセリフの解説であることに思うことがある人も多いようです。「次はアニメのセリフ以外の話を聞けるかも」「次こそ、南無阿弥陀仏のいわれを聞けるかも」という方は、その希望が叶うことはない可能性が高いです。
はやく、親鸞会以外で法話を聞かれることをお勧めします。

「高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)がたまにまともな真宗教義をいう問題」の背景について

顕正新聞平成29年6月1日号論説を読みました。以下、思ったことを書きます。
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(略)
阿弥陀仏は、大悲の願船を見る目もなく、船長の声を聞く耳も持たぬ逆謗・闡提の者を目当てに、「必ず乗せて絶対の幸福に救い摂り、極楽浄土へ渡す」と誓われている。大悲の願船は私目掛けて突っ込んでくるのだ。そして必ず、苦しみの海から引き上げ乗せて下されるのである。
修行も学問も要らない。「弥陀の願心に疑心あることなし」と聞く一つである。
大悲の願船に乗ずれば、光明の広海に浮かぶ人生が開かれ、広大な仏恩を知らされるから、報謝の念仏称える身に、早くなりなさいよと、蓮如上人は仰せなのである。(顕正新聞平成29年6月1日号論説より)

阿弥陀仏が「絶対の幸福に救い摂り」といっている部分は、相変わらず親鸞会用語の定義が曖昧なのでよく分かりません。しかし、どうも「絶対の幸福に救い摂り、極楽浄土へ渡す」という文脈からすると、親鸞会の定義する「絶対の幸福=現生正定聚」のようです。
「修行も学問も要らない。「弥陀の願心に疑心あることなし」と聞く一つである。」とここだけ読むと、「親鸞会もまともなことを言っているではないか」と思われるかもしれません。しかし、このようなことを一貫していわないところが、親鸞会の特徴です。


表題について結論を先に書くと、高森会長が会員をつなぎ止めるための技術としかいいようがありません。


私が在籍していたころでも、似たようなことは何度もありました。
一例を揚げると、「聞く一つの救いだけれど、聞いておれば助かると思うのは間違いだ。」
阿弥陀仏の救いは無条件だが、無条件が無条件と知らされるまで真剣にならねばならない」
「他力が他力と知らされるまで、自力一杯求めねばならない」
などです。
こういうのをダブルバインドといいます。

ダブル−バインド
〖名〗(二重拘束の意)相反する二つのメッセージを同時に受けて、即座に反応を求められる場合のような身動きのとれない状態。たとえば、母親が子供に対して口では「愛してる」と言いながら嫌悪の表情を示した場合の、子供のどちらを信じていいのかわからない精神状態をいう。文化人類学者のグレゴリー=ベートソンが1950年代に提示した概念。(小学館 精選版日本国語辞典)

考えて見ると、親鸞会在籍時の高森会長の「教え」は、このダブルバインドの連続でした。代表的なものが「宿善」です。「宿善がなければ救われないから、真剣に求めよ」と聞かされて「聴聞、勤行、お布施」に邁進すると、「宿善が積み重なって助かると思うのは間違い」と来ます。
また「真剣に聞け、正座して聞け、正座せずに聞いて救われた人はいない」と聞いて、一日正座をして真剣に聞いていると「真剣に聞いたら助かると思うのは自惚れだ」と来ます。
まとめて言えば、右に行けと言われていたことに従っていると、ある日には左に行けと言われます。それを一年のうちに何回も繰り返しているうちに、親鸞会会員の一年間は過ぎていきます。いま振り返れば、恒例行事のようなものです。


しかし、当の会員にとってはたまったものではありません。なにせ「500年に一度の善知識が仰ること」ですから、間違いがあるはずがありません。どう考えても、以前と反対の話を聞かされた時が会員を続けるかどうかのメンタルテストになります。以前の私はこう考えていました。

「高森会長は私の思い違いを正す為に、敢えて反対のことを言われているのだ。高森会長の真意を聞き間違えた私が悪いのだ」としていました。


しかし、考えて見るとおかしなことです。なぜなら、親鸞会は一応「浄土真宗」を看板に掲げている団体ですから、その教義は「浄土真宗」から逸脱しては、看板倒れに成ってしまいます。にもかかわらず、高森会長の話が、定期的に右に行ったり左に行ったりするのはなぜでしょうか?
可能性としては二つしかありません。

高森会長の話が時々反対のことをいう理由

  1. 浄土真宗の教義はそのように「右へ行け」「左に行け」というように矛盾したものである。
  2. 高森会長が日ごろ言っている教義が真宗教義と真反対である。そのためたまに、まともに真宗教義の話をすると、矛盾していると感じる。


ここまで読まれた会員の方に正解をいいます。答えは「2」です。
少しでもネットで親鸞会教義を調べた方なら分かると思いますが、浄土真宗では「善をしたら救いが早くなる。救いの足しになる。獲信と良い関係がある」というものはありません。にも関わらず、明文化するかどうかはさておき、活動の現場で会員が感じるのは「善はしないよりした方が早く救われる」ということです。それに対して親鸞聖人も蓮如上人も、「善で救われるとか、救いが早くなることはない」とハッキリ言われています。
ですから、日ごろ高森会長がいうところの「これが本当の親鸞聖人の教え」そのものが、「親鸞聖人の教えの真逆」であり。たまにいう「日ごろと違うこと」こそが、「本当の浄土真宗」です。
どうか、会員の方は、高森会長がたまにする変わった話こそ真宗の教えだと知って下さい。そのたまにしかしない真宗の教えを聞くことの大いなる労力の無駄に気づいて下さい。
親鸞会では「有り難い話」は、親鸞会以外ではいつもされている話です。

高森会長がたまにまともなことをいうのは、たまにまともなことを言って会員に「高森会長の言っていることは真宗である」と信じ込ませるためのボーズに過ぎません。私が会員であったときを振り返れば、まともな真宗教義の話をするのは、年間数回あったかどうかです。

親鸞会の「絶対の幸福」に真宗教義上、絶対になれないたった一つの理由(顕正新聞平成29年5月15日号論説より)

f:id:yamamoya:20170521053823p:plain親鸞会の機関紙である顕正新聞平成29年5月15日号を読みました。以下、思ったことを書きます。


今回は、特に論説の内容に関して書きたいことがあります。それは「絶対の幸福」について書いてあったからです。親鸞会に在籍された方ならご存知のとおりですが、親鸞会では「阿弥陀仏の救い=絶対の幸福」と定義しています。
「絶対の幸福」自体は、言葉としてかなり力を持っているので、親鸞会では新規勧誘に使っています。私もその言葉に魅力を感じて、親鸞会に入会しました。
しかし、親鸞会が標榜する「絶対の幸福」は、浄土真宗の信心と異なっているのが問題です。仮に「絶対の幸福」があるとしても、その身になれるであれば、私も特に意見することはありません。それでも、親鸞会がいう「絶対の幸福」は真宗の教義では絶対になれない幸福なのです。


今回は「親鸞会がいう絶対の幸福には、真宗の教えでは絶対になれない」ことについて書きます。
結論から言うと、そんなことを浄土真宗ではいわれないないからです。これがそのたった一つの理由です。


では、以下に「絶対の幸福」の定義を顕正新聞の論説から見ていきます。

親鸞会の「絶対の幸福」とはそもそもどんなものか?

親鸞会では「絶対の幸福=二種深信」と定義します。しかし、この等式が成立するには、親鸞会がいう「二種深信」の定義が真宗教義にあったものであるというのが大前提です。
しかし、親鸞会の「二種深信の定義」は真宗教義上は間違っています。以下、顕正新聞の論説から紹介します。

 そんな途方もない『絶対の幸福』を知ることは、生涯懸けての最大事である。その無上の幸せを、仏法の言葉で「二種深信」といわれている。「二種」とは、機(自己」と法(本願)の二つをいい、「深信」とは、ツユチリほどの疑いもなくなったことをいう。弥陀に救われた絶対の幸福になったとは、「機」と「法」の二つがハッキリすることなのである。
 まず「機」とは、罪悪にまみれた自己であり、自分は助かる縁なき極悪人だったと疑い晴れたことを『機の深信』という。
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

まずここで、「罪悪にまみれた自己であり、自分は助かる縁なき極悪人だったと疑い晴れたこと」が機の深信だと言っていますが、ここがまず間違いです。

正確にいうと、どれだけ頑張っても自力で浄土へ往生できるようなものではないというのが、機の深信です。自分が『極悪人と疑い晴れる』ことではありません。

 聖人が『歎異抄』で、
『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。』
(いずれの善行もできぬ親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである)
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

ここの歎異抄の現代語訳には、普通の人はかなり違和感を覚えると思います。
それは「いずれの行も及び難き身」が「いずれの善行もできぬ」としている点です。「及び難き」とは、ある状態まで到達できないというのが普通の読み方です。しかし、親鸞会では「いずれの行も及び難き身」を「善ができない極悪人」と言い換えるところが悪質です。本来は「浄土往生できるような善が満足にできない者」という意味ですから、大きく違います。

「堕ちるに間違いない』と「助かるに間違いない」が同時に疑い晴れ、死ぬまで相続するのだから、一切の人智を超えている。
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

このあたりが、親鸞会の「絶対の幸福」定義の最も顕著にあらわれている表現です。
以前の親鸞会では、この表現は多用されていました。この言葉通りであるとするならば、普通の人にはまず理解できない話です。

しかし、これは本来の二種深信とは異なります。
本来は「自分の力ではとても浄土往生できない私であるから、阿弥陀仏の本願力によるしかない。阿弥陀仏の本願力にまかせれば、間違いなく浄土に往生する」というものです。こう聞けば、親鸞会会員の方も「人智を超えた」ものとは思えないのではないでしょうか。
言い換えれば、自分の力ではどうしてもできないことを、まかせよという方にまかせたから、必ず出来ると言っているようなものです。実際にその身になるかどうかは、置いとけば誰でも分かる話では無いでしょうか?

「不可思議・不可称・不可説」ではなく、「お前は何を言っているんだ?」が親鸞会の「絶対の幸福」

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この想像することも、言うことも、説くこともできない「不可思議・不可称・不可説」の世界を、どう説けば正しく伝わるか。釈迦はじめ七高僧親鸞覚如蓮如上人、歴代の善知識方のご苦労は、その一点に集中されていた。
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

仏の智慧からすれば、そのすべてを凡夫で言うことはできないということであって、理屈が全く通じない話ではありません。
上記にあげた、二種深信の説明は「そういうものか」くらいには分かる人も多いのではないかと思います。それに対して、「堕ちるに間違いない』と「助かるに間違いない」が同時に疑い晴れると聞けば、そもそも何のことか分かりません。しかし、常人で理解得不能なことを分かるのが「善知識」(獲信した高森顕徹会長)という図式が親鸞会会員の共通認識です。この傾向は特にに長年親鸞会にいる人、とりわけ講師歴25年以上の講師に顕著です。また実際に私も、「お前は何を言っているんだ?」の常人では理解不能な体験をすることが信心決定だと思っていました。


しかし、実際は違います。真宗の信心とは、言い替えると「当たり前のこと」を「当たり前」と聞き入れることです。
繰り返しになりますが、自力で浄土往生ができない凡夫が、生死を離れるには「阿弥陀仏の本願力によるしかない」のは理屈としては分かる事と思います。しかし、「そうはいっても自分の力で少しはなにかしなければ」とひとえに本願力にまかせることができないのが、いわゆる「はからい」「疑い」「分別心」といわれるものです。


ここまで読まれた方には分かられると思いますが、真宗の信心とは「難信」ではあっても、「お前は何を言っているんだ?」ではないということです。仮に、親鸞会の言うところの「絶対の幸福」になろうとすれば、「罪悪にまみれた自己」に疑い晴れなければなりません。そうなると、聴聞を重ねると「罪悪にまみれた自己」がわかるということになります。そのため、親鸞会会員の多くは、「罪悪にまみれた自己」を知る為に富山の親鸞会館に足を運んでいることになります。しかし、考えて見れば、「自分の知らない悪に気がつく」という体験はおそらく多くの人は経験しないことです。そんなものは、時代劇の大岡越前でたまにあるくらいのものです。多くの凡夫(普通の人)は、自分の悪に気がつくということはありません。こう私が言うのは、親鸞会の「講師部合宿」で多くの講師が、「会の規約に反した(会の中では悪い)」ことを散々指摘されても、「申し訳ございませんでした」と心から反省した場面を見たことが殆どないことに起因します。
しかし、凡夫でも実生活で分かることはあります。それは「自分の力ではとてもできないことがある」と受け入れることです。人生でもそういうことは様々あります。殊に浄土往生に関しては、とても自力ではできるものではありません。阿弥陀仏は、自力ではとても浄土往生できないものだからこそ、私にまかせよと呼びかけられています。そのよびかけを、そのまま聞き入れるのが真宗の信心です。

繰り返しになりますが、理屈としては全く理解出来るのが真宗の信心です。それを受け入れるかどうかが、私の問題ということです。
親鸞会のいう「絶対の幸福」には、少なくとも「真宗の教え」ではなれません。仮になったという人がいれば、「親鸞会教義」の成就者ということになるでしょう。しかし、そんな人は高森顕徹会長以外にいないのが、今の親鸞会です。

参照 顕正新聞平成29年5月15日号論説全文

 釈迦一代の教えは、阿弥陀仏の本願(お約束)以外にない。本師本仏の阿弥陀如来の本願ただ一つ、弟子である釈迦が生涯、教えられたのが仏法である。その仏法を命の限り伝えられた親鸞聖人も、弥陀の本願宣布が全てだった。
 弥陀は「どんな人も必ず絶対の幸福に救う」と、命を懸けて誓われている。その誓願に救い摂られ、永久に変わらぬ絶対の幸福になることこそ、人生の目的なのである。
“絶対の幸福になるために生まれてきたのだから、早くその身になってくれよ” 
 この他、釈尊の勧めも、聖人の御勧化もなかった。釈迦の教法を書き残した七千余巻の経典は、「絶対の幸福」一つを解説されたものであり、聖人の主著『教行信証』六巻も、その讃嘆で一貫している。
 仏法は、全人類が求めてやまぬ「絶対の幸福」一つ説かれたものなのである。それはいかなる幸福か、釈尊の大雄弁は四十五年に及んだが、百千万劫でも説き尽くせないと告白されている。数多の著作を残された聖人も、とどのつまりは「不可説」と記され、説くことはできぬと嘆じられた。
 そんな途方もない『絶対の幸福』を知ることは、生涯懸けての最大事である。その無上の幸せを、仏法の言葉で「二種深信」といわれている。「二種」とは、機(自己」と法(本願)の二つをいい、「深信」とは、ツユチリほどの疑いもなくなったことをいう。弥陀に救われた絶対の幸福になったとは、「機」と「法」の二つがハッキリすることなのである。
 まず「機」とは、罪悪にまみれた自己であり、自分は助かる縁なき極悪人だったと疑い晴れたことを『機の深信』という。
 聖人が『歎異抄』で、
『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。』
(いずれの善行もできぬ親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである)
と仰ったのは、「機の深信」の告白である。
 次に「法」とは、そんな者を必ず助けると誓われた、阿弥陀仏の本願のことである。その弥陀の本願に疑い晴れたのが『法の深信』であり、それを『歎異抄』では、こう表白されている。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」
(弥陀が五劫という長い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、全く親鸞一人を助けんがためだった)
 この「機の深信」と「法の深信」を「機法二種深信」、略して「二種深信」というのである。
「堕ちるに間違いない』と「助かるに間違いない」が同時に疑い晴れ、死ぬまで相続するのだから、一切の人智を超えている。
 一端なりとも例えるなら、十トンの石を、それを浮かす力のある大船に乗せれば、十トンのまま向こう岸に渡せる。弥陀に救われても煩悩の巨魁で『堕ちるに間違いなし」の実態は少しも変わらないが、本館の大船に乗せられて、「必ず浄土へ往ける」のである。その大安心は、どんなことがあっても微動だにしない「絶対の幸福」であり、この世の喜びとは比較にならない。
 この想像することも、言うことも、説くこともできない「不可思議・不可称・不可説」の世界を、どう説けば正しく伝わるか。釈迦はじめ七高僧親鸞覚如蓮如上人、歴代の善知識方のご苦労は、その一点に集中されていた。
 どんな人も、親鸞聖人の教えを聞けば、必ず絶対の幸福になれる。そこまで聞き抜き、弥陀如来と師主知識の、広大なご恩徳に報いる身となろう。(P)
親鸞会機関紙 顕正新聞平成29年5月15日号論説)

高森顕徹会長が突然「法に依りて、人に依らざれ」と言い始めた背景を考える。

少し前に、高森顕徹会長が話の中で「法に依りて、人に依らざれ」の釈尊のお言葉を通して話をしたそうです。
どのような内容であったかは、すでに他の方のブログで言及されているのでそちらをごらん下さい。

hiun.cocolog-nifty.com
shingikensho.blog12.fc2.com


今回のエントリーは、その「法に依りて、人に依らざれ」のご文を、高森顕徹会長が出したことの意味について考えたことを書いていきます。
そもそもこの「法に依りて、人に依らざれ」は、仏教を学ぶ人に取っては非常に有名なお言葉ですが、親鸞会発行の教学聖典の1号から7号には掲載されていません。それだけ親鸞会にとっては都合は悪いものです。

結論から言いますと、高森顕徹会長が「法に依りて、人に依らざれ」というご文を出すのは、今迄の自身のやり方を間違いだったと認めるいわゆる敗北宣言です。なぜなら、私の知る限り高森顕徹会長の主張してきたことは「人(高森顕徹会長)に依りて、法(お聖教の内容→なぜなら会員読めないから一人で読むと間違えるの意味)に依らざれ」で一貫してきたからです。
私の記憶している範囲では、とある講師が高森顕徹会長以外の真宗の本を読んだり、親鸞会で用いている法蔵館真宗聖典に載っていない七祖聖教を読んだということで糾弾されたことがありました。そのころから、親鸞会講師の間では、「会長の著作以外の本を読んではならない」は共通認識として共有されることになりました。しかし、これは大変危険な考えです、読めるかどうかはさておき、お聖教を全く自分で読む努力もせず(最近では目にもしていません)、高森顕徹会長の話をする内容が「本当の親鸞聖人の教えだ」と思うことは、正しく「人に依りて、法に依らざれ」の状態です。


なぜなら、親鸞会会員にとって「高森顕徹会長が説くところの浄土真宗の教えが正しい」の保証は「だって高森顕徹会長が正しいと言っているから」しかないからです。そのため、親鸞会会員では無い人(学者や元会員)がどれだけお聖教(法)を根拠に高森顕徹会長の話を批判しても耳に入りません。

そんな状況が長く続いているなかで、高森顕徹会長が「法に依りて、人に依らざれ」のご文を出したと言う点に、高森顕徹会長の心中に大きな変化があったのだろうと思います。それは、ここ数年の親鸞会は「高森顕徹会長亡き後」を想定しての体制作りに右往左往していることにあらわれています。


一例をあげると、アニメ映画「なぜ生きる」への傾斜がその一つです。映画を中心として、その解説という形で各地の講師が話をする形式は、高森顕徹会長が法話をしなくなった後を想定してのものと思います。また、各地に会館を造り続けるのも、結果としては「富山の親鸞会館になにがなんでも毎月行く」という「高森顕徹会長ありき」の状況からなんとか転向したいという、高森顕徹会長を除く運営側の意図が感じられます。


実際問題として、私も親鸞会にいたころに思っていたことですが、「高森顕徹会長の法話が行われなくなった時、富山県親鸞会館に行く理由はなんだろう?」ということがあります。また、高森顕徹会長が亡くなるまでは頑張ると思っている会員も多くいます。「500年に一度の蓮如上人以来の善知識」を自認していた高森顕徹会長からすれば、いよいよ自身がいなくなった後を考えると、「法に依りて、人に依らざれ」とでも言わざるを得ない現状があります。

今迄何十年と「高森顕徹会長から話を聞かないと救われない」とか「高森顕徹会長しか真仮の水際を説ける人はいない」と言ってきた親鸞会としては、「法に依りて、人に依らざれ」はいわゆる真逆の話ということになります。高森顕徹会長の心を代弁すると「もう私(高森顕徹会長)の法話を聞けば誰でも助かるとは言えなくなりました」という宣言です。


そもそもの話として、真宗の法話とは、どんな人がどんなことを話をするのかを、親鸞会会員の方に知って頂きたいと思います。真宗の法話とは、何か突出したカリスマ布教使が、トップクラスの教学と魔法のような話術を用いなければできないようなものではありません。
一例として、以下の文章を紹介します。

ある時、妙好人源左に村の人がこの次の説教者を誰にしようかと相談した時、彼は答えて「誰でもよい、ただそのお説教のなかに『お前を助ける』という一句があれば、それでよい」といった。
「人に依らず法に依る」という考えもあるが、真宗の説教はまさにそれである。プロテスタントが、主として「話す人」に、その説教を依存しているのと対蹠的だといってよい。(柳宗悦 妙好人論集 P78)

柳宗悦 妙好人論集 (岩波文庫)

柳宗悦 妙好人論集 (岩波文庫)

妙好人の源左さんが言われていますが、「お前を助ける」(法)が大事なのであって、誰が話している(人)が大事なのではありません。


ここまで読まれた親鸞会会員の方は、ご自身の胸に手を当てて考えて見て下さい。
富山の親鸞会館に足を運んでいたのは、「親鸞聖人の教え(法)|を聞きたかったのでしょうか?それとも「高森顕徹会長の話を聞きたかった(人)」を聞きたかったのでしょうか?