親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森会長の話を必死に取り繕う顕正新聞論説(平成29年12月15日号を読んで)

顕正新聞平成29年12月15日号読みました。
以下気になったところを書いていきます。
今回の論説は、平成29年11月26日の高森会長の話の内容を要約したもののようです。
実際の高森会長の話については、他の方のブログで言及されているのでそちらをご欄下さい。

高森会長の話を忠実に要約するはずの「論説」ですが、今回はそうはなっていないようです。というのは、他のブログで言及されたような高森会長の「阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられてないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない」について一言も書いていなかったからです。さすがに親鸞会弘宣局としては、明らかに親鸞聖人のみ教えに反する高森会長の発言は、そのまま載せることはできなかったようです。その点では、弘宣局のみなさんの「本当の親鸞聖人のみ教えを明らかにする」という心意気は感じました。

以下、気になった部分を引用します。全文は以下の画像からご覧ください。
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 まさしく、弥陀の本願は「聞く一つで、どんな人も絶対の幸福に救う」大誓願がなのである。
 他宗教の「祈れ」「信じよ」とは、隔絶している。我々が「どうすれば」と考える余地など全くない。救いはただ「弥陀の本願を聞く一つ」である。
 ゆえに善知識方の教導も一貫して、「本願を聞け」とゆるぎない。
二千畳をはじめ、各地の法城は、「本願に疑心あることなし」まで、聞きひらくために建立されたものである。
親鸞聖人の教えが、「聞の宗教」と言われるのは、「一実、円満の真教、真宗のこれなり」の本願成就文の教えだからである。


今回の論説を読んで、親鸞会弘宣局が高森会長が話した内容について長い言い訳を読んでいるような感じがいたしました。実際に「阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられてないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない」と言うのは、相当印象の強い言葉なので、論説を書いた人がそれを聞いていないと言う事は考えられません。


ここで一般紙ならば、内閣の言った発言についていろいろと苦言を呈するところでありますが、顕正新聞はそのようなメディアではないのでそれは期待できません。


それよりも、高森会長が親鸞聖人に教えに反したことを言ってしまったことについて「違うんです。本当に言いたかった事はこういうことなんだよ」と言うことを一生懸命会員に書いたのがこの顕正新聞の論説だと思います。


おそらくこの顕正新聞の論説は、各地の支部の会合で集まって読まれたのではないかと思います。親鸞会はこのように高森会長が口を滑らせて間違ったことを堂々と言った場合なかったこととしてきました。

ただ今回の高森会長の話について火消しに躍起になるあまり、却って高森会長の話の特徴を色濃く反映したのが今回の論説であるとも言えます。といいますのは、今回は聞くことが大事だということをものすごく強調して書いているのですが、この短い文章の中でどれだけ読んでも聞くことが大事と言う以外に何をきいたらいいのかと言うことについては全く書かれていないからです。

例えば、論説の中に以下のように書かれています。

その本願成就もに、皆の救いは「聞其名号 信心歓喜」と明らかである。
顕正新聞論説より)

しかし、論説でその後、上記の文を解説したのが、以下のものです。

まさしく、弥陀の本願は「聞く一つで、どんな人も絶対の幸福に救う」大誓願なのである。
顕正新聞論説より)

となっています。
読まれた方はわかると思いますが、「聞其名号」が「聞く一つで」になっております。ここが親鸞会の特徴のよく表れているところだと思います

その結論としては、

「本願に疑心あることなし」まで聞きひらくために建立されたものである。

とあるのですが、ではどうすれば「本願に疑心あることなし」まで聞きひらくことができるのかについて、何を聞くのかということについては何も書かれていないのはこの論説と高森会長の話の特徴です。


つまり高森会長の話は、本願を聞けとは言いますが、何を聞くのかについては一切触れないと言うことです。
その意味で、高森会長の言いたいことがより明らかになったのが今回の論説だと思います。

前回のエントリーのコメントへの返信

常夏さんのコメントについて、遅くなりましたが、返信します。
コメント欄に書こうとしましたが、長くなったのでエントリーに書きます。
常夏さんへ、コメント有り難うございました。

自力の心=死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心」でないのはわかります。
では、イコール(そのもの、同じもの)ではなく、自力の心の症状(?)としてならどうでしょうか。
つまり、「自力の心がある人は、死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心がある」も間違いですか。
(常夏さんのコメントより)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

多くの親鸞会会員は、そのように解釈をすることによって高森会長の話を正しいものとしています。私もかつてそうだったのでよくわかります。
上記に関しては、つまり「自力の心」について「死んだらどうなるかハッキリしない後生くらい心」だと定義されたお聖教のご文がないという一点で、私は間違いだと言っています。
阿弥陀仏に救われてなくてなければ、それこそ後生と聞いても「どうなるかハッキリしない」のはよくわかります。しかし、エントリーにも書きましたが、だからといってそれを「自力の心」というのは、定義として間違いだと言っています。

阿弥陀仏の本願を疑っている心がない(無疑心)=死んだらどうなるかハッキリする後生明るい心」
も、イコールでないのはわかりますが、阿弥陀仏の本願に疑いがなくなれば死んだらどうなるかハッキリするのではないですか。(常夏さんのコメントより)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

これもエントリーに書きましたが、私の方でハッキリするのではなく、法の上では明らかだということです。

阿弥陀仏の本願は「私を必ず浄土に生まれさせる」というお誓いですから、これに疑いがないとは、私の浄土往生に疑いがないことでしょう。お浄土がどんなところかはわからなくても。
だから逆に言えば自力の心(阿弥陀仏の本願を疑う心)があるうちは往生は定まりませんから、症状の一つとして後生ハッキリしない心として表れる、と思っています。(常夏さんのコメントより)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

これについては、私の智慧の分際では、例え救われても「後生ハッキリ」という智慧はありません。ただ、本願の仰せはその通りと受け止めているだけです。

このエントリーの趣旨は、顕正新聞の論説が自力の心=後生暗い心そのものだと書いてあるのが間違いだということでしょうか。
私は論説を読んで、自力の心=後生暗い心と書いてあるとは思いませんでした。
自覚できる症状として挙げた補足説明というか・・・(常夏さんのコメントより)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

私はそうは読んでおりません。そこでエントリーを書きました。
といいますのは、親鸞会は教義にないことをいうときに、教義にあっている話を混ぜ込んでいるからです。
今回で言えば、

私たちの曠劫流転の元凶こそが、自力の心なのだ。それは、死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心であり、阿弥陀仏の本願を疑っている心である。(記事より)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

の部分です。
曠劫流転の元凶→自力の心はいいとしても、自力の心が「死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心」であるという根拠はありません、それを補う為に「阿弥陀仏の本願を疑っている心」と重ねて書いてあたかも、自力の心=「死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心」と書いているところが問題だと感じました。

それとも問題はそっちじゃなくて「阿弥陀仏の本願に疑いがなくなれば死んだらどうなるかハッキリする」という認識のほうですか。(常夏さんのコメントより)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/12/05/163018

その点は問題だと思います。

私もそのように思っていました。

「私たちの曠劫流転の元凶こそが、自力の心なのだ。それは、死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心であり、阿弥陀仏の本願を疑っている心である。」(顕正新聞平成29年12月1日号論説より)が間違いな理由

顕正新聞平成29年12月1日号を読みました。以下思ったことを書きます。
今回も、論説について書きます。
全文は、以下の画像を読んで頂ければ分かりますが、今回もタイトル「加茂河に捨てて魚に与うべし」と、内容が一致しない論説となっていました。この論説については、何度も書いていますが会員以外の読者が読めばどう感じるかという意見を書いています。
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今回の論説で気になったのは以下の部分です。

私たちの曠劫流転の元凶こそが、自力の心なのだ。それは、死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心であり、阿弥陀仏の本願を疑っている心である。
この自力の心が、南無阿弥陀仏の名号を頂いた一念に殺され、永久の迷いの打ち止めがなされるのだ。
同時に絶対の幸福にガラリと生まれ変わって往くから、「即得往生」といわれれる。(略)

(K)

このあたりに、高森会長の話術といいますか、教義のすり替えがよく現れています。
まず「曠劫流転の元凶こそが、自力の心なのだ」としながら、その定義が「死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心であり、阿弥陀仏の本願を疑っている心」だとしています。
自力の心とは、「阿弥陀仏の本願を疑っている心」ではあっても「死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心」ではありません。そこを、二つ同時に並べているあたりが、いかにも高森会長らしい言い方です。

なぜこの二つは同時にならべることが出来ないかということについて、単純にご文を用いずに日本語として説明をします。

  • 自力の心がない=阿弥陀仏の本願を疑っている心がない(無疑心)

となります。

しかし、

  • 自力の心=死んだらどうなるかハッキリしない後生暗い心

とすると

  • 自力の心がない=死んだらどうなるかハッキリする後生明るい心

となります。


そうなると、以下の等式は成り立つでしょうか?
阿弥陀仏の本願を疑っている心がない(無疑心)=死んだらどうなるかハッキリする後生明るい心

私も親鸞会にいたのでよく分かりますが、これが成り立つと思うからこそ、こんな論説も堂々と書くことができるのです。


こういう書きかたをすると、論説の作者や親鸞会会員の方もよくわからないと思いますので、また、別の説明をしてみたいと思います。

阿弥陀仏の本願を疑っている心がない(無疑心)」と「死んだらどうなるかハッキリする後生明るい心」はイコールにならない理由

まず「阿弥陀仏の本願を疑っている心がない(無疑心)」とは、本願が中心となり、本願に誓われている通りの内容に私の思いを挟む余地がないということです。
それに対して「死んだらどうなるかハッキリする後生明るい心」は、あくまで「私がハッキリした」ということが中心の話となり、「後生どうなるか」「死んだらどうなるか」は「私がハッキリしたかどうか」が問題になっています。

あくまで、「無疑心」とは、「私がハッキリしたかどうか」が問題ではありません。「本願まこと」が聞き入れられるかどうかなのです。ここまで書いて分からない親鸞会会員の方も多いと思いますが、よくよく読んで見て下さい。

映画「なぜ生きる」の「苦しみの人生がガラリと変わる」について質問しても意味がない理由 (2017年11月12日高森顕徹会長座談会より)

2017年11月12日(日)は、親鸞会館で高森会長のアニメ座談会が行われました。高森会長の体調から、以前の法話形式から座談会形式になったそうです。法話形式というのは、高森会長が親鸞会教誨服を来て一つの演題について朝昼と基本的に立って話をするというものです。それに対して座談会形式というのは、ワイシャツにジャケット着用で演題中央に机を置き、イスに座って話をするというものです。


アニメ座談会というのは、アニメ映画「なぜ生きる」についての質問に答えるというものです。その質問は、アニメ映画のセリフに限定されています。
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映画「なぜ生きる」オフィシャルサイトより)


今回の質問は、以下のものでした。

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか(42ページ)」

ここでページ数が出てきますが、これはアニメ映画「なぜ生きる」のシナリオブックのものです。アニメ映画が完成してより、親鸞会ではこのシナリオブックがお聖教のように扱われ、熱心な会員はそれにあちこち線を引いたり沢山の書き込みをしています。


そこで、現在親鸞会会員の方ならよく御存知のことですが、映画「なぜ生きる」についての質問は、シナリオのなかの3箇所から4箇所の部分だけに質問を何度も繰り返して現在に至ります。今回の質問部分も、すでに何回も座談会の質問で出ている内容です。ここまで読まれた親鸞会会員でない方は、「なぜ同じ箇所を何度も質問をするのだろうか?」「質問について高森顕徹会長が回答を十分にしていないからではないか?」と思われることでしょう。それは御尤もな感想です。


例えば、国会で同じ疑惑について何度も野党から質問が繰り返されていますが、なぜそうなるかと言えば、与党が質問に答えていないからです。もし回答をしていれば、それを踏まえて「ではさきほどの答弁でいわれたことについて、○○はどういうことでしょうか?」と質問が変わっていきます。


それと同じことが、高森顕徹会長のアニメ座談会では繰り返されています。何度も同じ質問が出ているのは、それまでの質問に会員が納得をしていない証拠です。もちろん熱心な会員は、質問に対する高森顕徹会長の回答について分からないことがあっても、「自分の聞きかたが悪い」と思う人もあると思います。しかし、それは大きな間違いです。会員によっては、九州や北海道から富山に来て高森会長の話を聞こうという気持ちの人に「聞きかたが悪い」ということは考えられません。単純に高森会長が回答をしていないだけです。


しかし、今回の質問に関しては、高森顕徹会長の回答にも問題は多いですが、そもそもの話としてこの質問が浄土真宗の質問にならないというのが大事なところです。


といいますのは、会員の方は映画「なぜ生きる」の内容が、浄土真宗の教えと違うということは夢にも思っていない前提で質問を出しておられます。ところが、私だけでなく親鸞会以外の人から見るとこの映画「なぜ生きる」の内容は浄土真宗の教えと異なるところが多くあります。ですから、今回の座談会の質問も正しくは以下のようになります。

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」とは浄土真宗の教えと異なるのではないでしょうか?

この「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」が、間違いだという出発点に立たないと、これが正しいという前提での高森顕徹会長の話を何回聞いても納得できるはずはありません。なぜなら、「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」ということは、常々高森顕徹会長が言っている「正しい親鸞聖人のみ教え」ではないからです。


これについて、少し詳しく書いていきます。
まず「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」とは、どういうことだと親鸞会会員の方は理解しておられるでしょうか?


少しずつ言葉を置き換えて書いて見ます。
阿弥陀仏に救われると、私の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」
とは、どういうことでしょうか?


ここで、苦しみの人生の苦しみとは何でしょうか?人間関係の苦しみであったり、病気の苦しみ、経済的な苦しみなどなどが、日常の実感ではないでしょうか?ここで「無明の闇」とか「後生くらい心」と言い出す親鸞会会員の方があるかも知れませんが、よくよく考えて見て下さい。実感として「それ」で苦しみの人生となってるでしょうか?むしろ、それが自覚できないと親鸞会では教えているのではないでしょうか?
そこで、実感としていろいろある「苦しみの人生」が「幸せな人生にガラリと変わる」と聞くと、前述した「人間関係の苦しみ」「病気の苦しみ」「経済的な苦しみ」がなくなって「人間関係がよくなる」「病気が治る」「経済的に恵まれる」となります。


ですから、「阿弥陀仏に救われると、私の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」とは、言い替えると
阿弥陀仏に救われると、私の人間関係の苦しみは、ガラリとよくなる」
阿弥陀仏に救われると、私の病気は、ガラリと治る」
阿弥陀仏に救われると、私の経済的な苦しみは、経済的に恵まれるようにガラリと変わる」と言っているに過ぎません。


仏教の言葉で言い替えるなら
阿弥陀仏に救われると、煩悩で苦しむ人生は、煩悩のない人生にガラリと変わる」
と言っているのと同じです。


こう書き替えるとさすがに親鸞会会員の方も「それはおかしい」「それは親鸞聖人の教えと違う」と分かられるのではないでしょうか?しかし、アニメ映画「なぜ生きる」のセリフはそういうことを言っているのです。


阿弥陀仏に救われても煩悩は変わりません。煩悩具足の凡夫は死ぬまで変わりません。そこは、親鸞会会員の方でも

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P693)

https://goo.gl/AvmWj5

という親鸞聖人のお言葉は聞いた事があると思いますが、その通りなのです。


言い換えれば、死ぬまで「人間関係の苦しみ」や「病の苦しみ」「経済的な苦しみ」は、いろいろあっても続きます。少なくとも阿弥陀仏に救われた刹那に「ガラリと変わる」ことはありません。何も変わりません。
その変わらないものを、あたかも「ガラリと変わる」かのようにいくらこじつけた所で、それが真実でない以上、親鸞会会員が納得しないのは当然のことです。


過去の私もそうでしたが、「後生暗い心が明るくなる」とか「地獄一定が往生一定に」などと言葉は聞いていても、私が思い描いた「阿弥陀仏に救われた世界」は、映画「なぜ生きる」のセリフのように「あらゆる苦しみがガラリとなくってしまう世界」としか思っていませんでした。考えていることは、親鸞会会員の人が忌み嫌っている現世利益宗教と何も変わりません。

(103)
外道・梵士・尼乾志に
 こころはかはらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり
正像末和讃103 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P618)

https://goo.gl/hG9nnW

こう書くと「不可称不可説不可思議の世界なんだから凡夫にわかるはずがない」という会員の方もあると思います。しかし、心で思っている「絶対の幸福」は、「ものすごい現世利益」のように考えてはいないでしょうか?


親鸞聖人がいわれるように煩悩具足の私というのは「臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」であります。苦しみの人生は、ある意味何も変わりません。その変わらないままが、往生浄土への歩む人生に転換させらていたというのが浄土真宗の救いです。ですから「阿弥陀仏に救われると、私の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」が意味するところの、「煩悩がなくなる」「苦しみが無くなる」といったようなことはありませんので、それについて高森顕徹会長に「浄土真宗の教えとしての回答」を質問しても、仮に100回座談会で聞いても答えは出てきません。なぜなら、そんなものは浄土真宗の救いにないからです。


浄土真宗の教えにないこと」を会員が質問し、高森顕徹会長が「浄土真宗の教えにあるかのように長い言い訳(詭弁)」をしているのですから、「浄土真宗の教えについての座談会」としては全く意味をなしません。


もし機会があれば、アニメ座談会で、前述したように「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは浄土真宗の教えと異なるのではないでしょうか?」と質問をしてみて下さい。きっと、みなさんの誤解も解けると思います。

高森会長のただ一つの願いは「皆々信心決定あれかし」なのか?(顕正新聞平成29年11月1日号論説を読んで)

顕正新聞平成29年11月1日号を読みました。以下、思ったことを書きます。
今回は、大阪会館が完成したことと、10月に行われた報恩講での弁論大会の内容が主な記事でした。論説は、報恩講での高森会長の話のまとめとなっていました。
論説の内容について、これから書いていきます。

タイトルは、ただ一つの願い「皆々、信心決定あれかし」 でした。
感想を最初に書きますと、「シネマ学院を建てた長い言い訳を2日間かけてした」ということです。なぜそう感じたのかというと、中身(救い)がないからです。

全文は、以下に画像を紹介ので読みたい方はそちらを御覧下さい。
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平成29年10月に行われた親鸞会館での報恩講の演題は「蓮如上人のご遺言」でした。 この論説も、

「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
   (御文章4帖目15通)
蓮如上人の御遺言だ。
遺言は重いものである。蓮如上人が常に私たちに願っていられた「信心決定」とは、一体、どんなことであろうか。(顕正新聞平成29年11月1日号 論説より抜粋)

と、冒頭から書いてあるので、親鸞会報恩講での高森会長の話の要約であることは会員ならすぐわかります。

しかし、この論説全体をみても、信心決定の身にどうしたらなれるのかについては、ほとんど書かれていません。
書いてあるのは、「信心には決定がある」ということのみです。

それについて書かれている箇所を紹介します。

だが、蓮如上人はここで「信心決定あれかし」といわれている。決定する信心があるのだ。決定とは、ゴールであり完成と言ってもよかろう。
(略)
しかし、親鸞聖人や蓮如上人の教えられている信心は、完成のある信心である。
(略)
南無阿弥陀仏を頂いたことを、信心決定とも、信心獲得とも言われるのだ。
(略)
親鸞聖人90年のご苦労も、蓮如上人85年のご布教も、このたびシネマ学院が建設された目的もただ一つ。
善知識方の願いは、偏に「皆々信心決定あれかし」以外にないのである。(K)
(同上)

この抜粋でも分かる事ですが、今回の論説(高森会長の話)は、まとめると以下のようになります。

  1. 信心には決定がある。完成が有る。
  2. それは南無阿弥陀仏を頂いたことである。
  3. そのために親鸞聖人、蓮如上人は布教されました。
  4. シネマ学院が出来たのも、みなさんに信心決定あれかしのためです。

ということです。

まとめると、分かる事ですが、今回の高森会長の話は、一言で言うこと「なぜシネマ学院をつくらねばならなかったのか」という理由について、全く別の話を持ってきて、それらしく話をしているということです。
親鸞会を出た人間からすると、また親鸞会会員でない人間からすると「シネマ学院を建設する目的はなんだろう?」ということについて明確な理由は何もありません。

それに対して高森会長は「皆々信心決定あれかしの気持ちでつくったのですよ」と会員に言っています。しかし、これには大きな矛盾があります。
その一つは、みなさんが信心決定するために建てたシネマ学院(なぜ生きる上映専門映画館)ならば、高森会長が話をするよりも、そちらで映画「なぜ生きる」を見たほうがいいということになります。

もう一つは、この論説ではさすがにカットしてある部分ですが、今回の報恩講で高森会長は最後に、どうすれば信心決定できるかについて、論説の最初にあげた蓮如上人の御文章から「宿善まかせ」だから、「宿善を厚くするためには、『聞法』だ」と言ったとのことです。親鸞会会員にとって「聞法」とは、「高森会長の話を聞きに富山に足を運ぶ」こと以外にありません。

結局のところ、「今日こそ信心決定の身に救われたい」と、「世界20カ国」から会員が参詣した場で高森会長が言ったことは「高森会長の話を聞け」でした。これは、親鸞会で熱心に活動されている方には今一つピンとこない話かもしれません。
そこで、別の話で例えると、とある病気にかかった患者が「あの医者なら自分の病気を治す方法を教えてくれる」と思って遠路も厭わずその医者のところに駆けつけると、その医者が一言「病気を治すには、この病院にまた来て下さい」と言っているのと同じです。

これは、病気と医者の話で例えると分かりやすいおかしな状況ですが、高森会長が語っていることはいつもこの構造なのです。

  1. あなたは大変な病気にかかっています。
  2. いますぐ処置をしないと大変なことになります。
  3. その病気を治す方法は私しか知りません。
  4. だから私の話を聞きに来なさい。
  5. 会員が高森会長の話を聞きに行く
  6. 1〜4の話を聞く
  7. 5にある高森会長の話を聞きに行く

(以下6−7の無限ループ)

私が在籍したときも振り返るとこんな状態でした。

今回の報恩講の話も、「皆さんに信心決定してもらいたい」「そのためにシネマ学院を建てました」「信心決定したかったらまた、私の話を聞きに来て下さい」以外にはなかったということです。
勿論、「どうしても高森会長の話を直接聞きたい」という方なら、話を聞いただけで満足するかもしれません。しかし、この論説にあるように「信心決定あれかし」が高森会長の本心ならば、聞きに来た人が信心決定せずに帰ることについて何も言及しないのはおかしなことです。

「また聞きにきてくれたらそれでいい」という気持ちで話をしているのか、「なんとかこの場で救われて欲しい」と思っているかは、長年聞いてきた人ならなんとなくわかるのではないでしょうか?

ここまで記事を読まれた会員の方は、よくよく自分の心に手を当てて考えて見て下さい。
貴方が親鸞会に居続ける理由はなんでしょうか?
きっと、いろいろありながらも居心地がよいからではないかと思います。もちろん、いい人も多いのでその気持ちも分かります。ただ、その居心地のよさというのは、「誰も救われていない」ことから来る連帯意識ではないでしょうか?
「皆救われていない」「だから高森会長の話を聞くしかない」「私はそれでいいんだ」としていないでしょうか?私はかつてそう考えていました。

「後生はひとりひとりのしのぎ」という言葉は親鸞会会員の方は何度も耳にしてきたと思います。「みんな救われていないのだから」とか「多くの人は真宗の教えを知らないのだから」というところに、腰をかけるのは大変な間違いです。

貴方が救われないと、貴方の為に本願を建てられた阿弥陀仏の本願が反故になってしまいます。
ただ今救う本願にただ今救われて下さい。

高森会長の話はなぜ分かったようで分からないのかを顕正新聞論説から解説(顕正新聞平成29年10月15日号を読んで)

宗教法人浄土真宗親鸞会富山県射水市)には、親鸞会館があり毎月1回高森会長の法話が行われています。そこには、全国から会員が会長の話を聞く為に足を運んでいます。私もかつては、親鸞会館に足を運んでいました。

高森会長の話の内容は、大きく分けると二つあります。

  1. 分かったようで分からない話。
  2. 途中で終わり、続きは次回という話。

今回は、1番目の「分かったようで分からない話」について書きます。
分かったようで分からない話というのは、仏教の話を聞いた人の中にはしばしば聞かれる感想です。それはなぜかと言えば、例えば仏教でいう「空」の解説で「有でも無でもない」と聞けば、多くの人はそう思います。そういう所から「仏教の教えは深いものだ」とか「凡夫の智慧では分からない」と思ったりもします。
しかし、高森会長の話にはそれは当てはまりません。前述の「空」の説明ならば、きちんと説明はされた上で分かりませんが、高森会長の話は説明が説明になっていない話をしているからです。言い替えると、「何を言っているか論理的に分からない話」をしているので会員にとっては「分かったようで分からない話」になります。とはいえ、それは会員やこれから会員になろうという人にとってのことで、一般の多くの人が聞くと「何をこの人は言っているのか分からない」話になっているのが高森会長の話です。

今回は、その例として顕正新聞の論説から一部引用して解説をします。
親鸞会の機関紙である顕正新聞は、毎月二回(1日と15日)発行されています。その中で「論説」は、最近の高森会長の法話、座談会、講師部講義などで語った内容を要約したものがほとんどです。いわば、会員に推奨されている「聴聞録」の要約を親鸞会が公式にしているようなものです。限られた文章でまとめられているだけに、高森会長がどのような話を、どういう展開でしているのかがよく分かります。

しかし、この「論説」は顕正新聞の中でもあまり読まれない記事になっています。その理由として私が親鸞会にいたころは親鸞会弘宣局では、「文字ばかりで写真がない記事は読まれない」というように捉えられていました。その後、親鸞会を辞めて、また現在でもそうですが、論説が読まれない理由はそれ以外にあると思っています。
その一番の理由は「何が書いてあるか分からないから」です。もちろん日本語で書いてあるので、音読することはできるのですが、論説の多くは読んでも何が書いてあるかわかりません。そのため、会員も読まなくなっしまいます。なぜ読んでも分からないかは、前にも書いた通り高森会長の話が「ちょっと何を言っているかよく分からない」からです。その話を要約した論説は、やはり「ちょっと何を言っているかよく分からない」記事になります。
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以下、顕正新聞平成29年10月15日号論説「全人類の希望の灯炬」から抜粋して解説をします。

「難思の弘誓は難度の海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」(教行信証総序)世界の光と仰がれる親鸞聖人のみ教えを一言で表現した言葉が平生業成である。
(略)
親鸞聖人の主著『教行信証』はまさに平生業成の書であり、それが冒頭の一説に、ズバリ明言されている。
(略)
弥陀の大船に載せられると同時に、無明の闇が晴れて、明るく楽しい絶対の幸福に生かされるのである。
ここで親鸞聖人は、古今東西の人類の苦悩の根元を、無明の闇と断言されている。
無明の闇とは何か。後生(来世)暗い心であり、死んだらどうなるか、ハッキリしない心である。
(略)
死を眼前にして、果たしてどんな希望がありうるか。
(略)
ただ絶望あるのみ。
しかし親鸞聖人は、弥陀の光明だけが、苦悩の根元である無明の闇を破り、絶対の幸福にする智慧の太陽だと断言されている。
この無明の闇さえ晴れれば、いつ死んでも往生一定、光明輝く浄土に生まれ仏になれることがハッキリするのだ。
天に二日なし。
阿弥陀仏の本願(光明)開顕された親鸞聖人のみ教えは、まさに人類の真の希望の灯炬なのである。(K)

全文を御覧になりたい方は、画像を参照して下さい。

こうして論説をさらに抜粋して読んで頂くとわかると思いますが、平生業成の話なのか、無明の闇の話なのか、親鸞聖人は「人類の希望の灯炬」といいたい話なのかがよく分かりません。
普通の話というのは、言いたいことと、その理由が書いてあります。ところが、今回に限らず論説はだいたいのところ、最初に書いてあることと、最後に書いてあることがつながらないものがおおいです。その証拠に、文章の全体に「なぜなら」「というのは」「つまり」「よって」などというような接続詞が殆どありません。つながっているかどうかよく分からない短文の羅列というのが正直な印象です。ですから、一段落だけなら文章として読めるものが、前後のつながりなく幾つも羅列されると、一体なんの文章なのかがわからない状態です。

実は、高森会長の話というのはこのような構成になっています。一つのたとえ話や、出してきた語句の説明だけを聞くと、それ自体間違っていないような気がしますが、全体として話がつながっていないので「分かったようで分からない」「ちょっと何言っているか分からない」という話になってしまいます。

顕正新聞の論説は、よくも悪くも高森会長の話をそのまま要約して編集をしないので、結果としてと高森会長の話の「分かったようで分からない」を見事に文字化しています。

ここまで書いた記事を読まれた親鸞会会員には「そんなことはない。高森先生の話はとても分かりやすい。」とか「真実を説き切っておられるのは高森先生だけだ」と言われる方もあると思います。私も、以前はそう思っていた頃があるのでお気持ちはよく分かります。
しかし、高森会長は「ちょっと何言っているか分からない」話を、「とても分かりやすい」話だと思わせるだけの技術をもっています。そのため熱心な会員ほど、会長の意図する通りに信じていまいます。ですが、よくよく思い出してみて下さい。聞いている時は「よく分かった」と思っても、一度法話が終わると「一体何の話だったのか?」と思ったことはなかったでしょうか?


信心の沙汰をしましょうと支部の会員で法話の後に集まってみても、「どの順番で話が進んだか」「どんな根拠が出たか」「あの語句の説明はどうだったか」という記憶の答え合わせに終始したことはないでしょうか?
しかも、どれだけその記憶を正確に文字に残してみても「結局何の話だったのかが記録に残っても心に残らない」ということはなかったでしょうか?


とどのつまり「また高森会長の話を聞きなさい」「必死で活動しなさい」以外に、何の話だったのかは心に残らないことが多いのが実感ではないでしょうか?

私が会員の頃は、「何の話だったのかよく分からない」ことがあった時は「自分が真剣に聞いていないからだ」と、自分の責任だと思っていました。また、一般に高齢者と言われる年代の会員の方が「私は高森先生の話を聞いても、聞いてる時は頷いているんだけど、話が終わると頭から抜けてしまうんです」と言われるのを、「体力的に富山まで長距離移動をして一日話を聞くのが難しいのだから無理もない」と思っていました。
しかし、それはここまで書いてきた通りで、「何の話だったか残らない」のは、聞いている人の真剣さや体力の問題ではなく、単に高森会長の話がよく分からないからです。


突き詰めれば、高森会長自身に「分かってもらいたいこと」がないからということになります。
今回の論説で言えば、繰り返しになりますが、平生業成がいいたいのか、苦悩の根元の話がいいたいのか、親鸞聖人は「人類の希望の灯炬」と言いたいのかが不明です。
仮に平生業成の話なのだとしても、「ではどうすれば平生業成の身に救われるのか」の話がありません。
「苦悩の根元」だとしても、無明の闇を破るのが阿弥陀仏の力だということは書いてありますが、結局どういうことで無明の闇が破れるのかという話がありません。
親鸞聖人は「人類の希望の灯炬」だと言いたいとしても、それまでの前述の記載が意味がわからないので、なぜそうなるのかがわかりません。


言ってしまえば、スローガンはあっても実態がない、話はあっても救いはない、教えがあるようで語句説明のみで自分にとっての救いがないというのが高森会長の話です。


結論としては「分かったようで分からない」どころではなく、「救いがあるようで救いがない」のが高森会長の話です。
「高森会長の話がよく分からない」という会員の方は、真面目に高森会長の話を聞いている証拠です。「よく分かる」と言う人は、いわゆる「得手に法を聞いている」人です。
「最初はよく分かる話だと思っていたけれど、最近の高森会長の話はよく分からない」と感じられている会員の方は、高森会長の話を正確に聞いた結果なので、もう親鸞会を離れる時が来たと思って間違いありません。

阿弥陀仏の本願は、親鸞会以外で聞くことはできます。ただ今救う法をただ今救う法と聞いて救われて下さい。

アニメ学院や「ご解説ビデオ」よりも「あなたの白道」を読むのが会員にとって本当の報恩講(顕正新聞平成29年10月1日号を読んで)

顕正新聞平成29年10月1日号を読みました。以下思った事を書きます。
今回は、台湾会館落慶座談会が一面でした。また、大阪会館が落慶間近という記事も目立ちます。
とはいえ、やはり今回もシネマ学院の記事が掲載されていました。
10月の報恩講に向けて、準備を続けているそうです。

今回の顕正新聞記事を見る限りは、「シネマ学院」はただ「高画質、音響もいい映画『なぜ生きる』をみることができる施設」のようです。そこで、今回の顕正新聞の記事を見ると本当に(未来の)会員に勧めたいのは「ご解説ビデオ」のようです。

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同上 希望者に「ご解説ビデオ」

「ご解説ビデオ」といっても、これまでの「ビデオ法話」ではなく、これまでの高森顕徹会長のアニメ映画「なぜ生きる」解説をまとめたもののようです。

以下、顕正新聞より抜粋します。

○「難思の弘誓は難度の海を度する大船」とは?
など。いずれも高森先生の二千畳のご法話やテレビ座談会をまとめたものである。
シネマ学院向かいにあるF館、または親鸞会館本館の「浄信の間」で上映され、時間はテーマによって異なっている(30分と90分)
映画では、私たちの人生が海に例えられている。それがなぜ分からねば、大船に載せられる救いも分からない。映画を基本から理解するために、どうしても知っておきたい大事な内容が凝縮されている「ご解説ビデオ」である。(L)

ここで分かる事は、高森顕徹会長の作成した映画「なぜ生きる」は「ご解説ビデオ」を見ないと分からない作品だということです。

それはなぜかと言えば、極めて内輪の人にしか分からない説明、場面表示で描かれた映画だからです。私も、映画「なぜ生きる」を見て思ったことは、「内容の善し悪しは置いておいても、会員以外には分かりにくいだろうな」でした。

そこを「ご解説ビデオ」によって「こんなに深い教えなのだ」といいたいのだと思います。しかし、私は直接聞いてはいませんが、参加した人の「高森顕徹会長の映画『なぜ生きる』のご解説」はあまり評判がよくありません。

私個人として、それも無理もないことだと思いました。
なぜなら、あの映画「なぜ生きる」を見て、心の底から感動した人はいないと思っているからです。では、どうしてそう言えるかといえば、詳しい理由は最近公開された嶋田さん(元親鸞会講師部員)の「あなたの白道」に言いたいことは殆ど書かれていますのでそちらを御覧下さい。


blog.livedoor.jp
(全部で6章構成で、現在4章まで公開されています)




ただ私の個人的な会員時代の経験を振り返ると、親鸞会に入会した当初は「これが浄土真宗の教えなのか。」という驚きも感動もありましたが、しばらくするとそういう感動もなくなって行きました。
それから長い間、「自分は素晴らしい教えを聞いている」と周りからも言われ、また人にも言っているうちに自分が感動していると思い込んでいる状態が続いていたのだと思います。「法を聞いて有り難いな」といった意味での「感動」は、今振り返るとなかったのだと思います。「このまま死んだら後生だぞ」という気持ちは、「法を聞いた感動」とはまた別物です。頭も心も、あまり働いていない状態でした。

本当に伝えたいことのある話、また法話の内容で言えば、南無阿弥陀仏について説かれる話には何か感ずるところは、現在親鸞会会員の方にもまだあります。10月7日8日は、親鸞会館で報恩講だそうですが、一度「あなたの白道」読んでください。