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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「難度海を度する大船」の厳存と「その乗り方」が、宝くじが当たるコツを言っているような違和感について(親鸞会機関紙顕正新聞平成29年1月1日号より)

顕正新聞 親鸞会機関誌より

前回のエントリーにも書きましたが、親鸞会機関紙顕正新聞平成29年1月1日号の年頭所感(高森顕徹会長)にある以下の文章について、書きます。

親鸞聖人の「教行信証」には「難度海を度する大船」の厳存と、「その乗り方」以外に記されてはいない。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2017/01/01/075142

この表現は、親鸞会会員には耳なじみのあるものです。平成13年に発刊された「なぜ生きる」からずっと高森顕徹会長が使い続けている表現だからです。
なぜ生きる
しかし、「難度海を度する大船の厳存」はいいとしても、「その乗り方」というのには、大変な違和感があります。なぜなら、映画「なぜ生きる」の表現で言えば、難度海に溺れているのが私たちで、それを助ける船が「難度海を度する大船」とすると、「船がなぜ出来たか」「船はどうして造られたか」「船はどうやって溺れている人を助けようとしているか」が書かれているのが教行信証だからです。どこにも「乗り方」は書かれていません。「乗った」とか「乗ったらこうなった」という内容はあっても「私の乗り方」はどこにもありません。
それは、海上保安庁がどうやって海難事故にあった人を救助するかを書かれた文章の中に、「救助のされ方」が記載されていないのと同じです。


このような説明では、納得されない親鸞会会員の方も多いと思います。そこで、この表現の違和感に似たものを、先日NHK Eテレ放送「ねほりんぱほりん」から「1億円当選者まとめ」で見つけたので紹介します。


こんな番組です。
www4.nhk.or.jp

「顔出しNGの訳ありゲストはブタに、
聞き手の山里亮太とYOUはモグラの人形にふんすることで
「そんなこと聞いちゃっていいの~?」
という話を“ねほりはほり”聞き出す新感覚のトークショー。
作りに作り込んだEテレお得意の人形劇と、
聞いたこともないような人生の“裏話”が合体した
人形劇×赤裸々トークをお楽しみください!(NHK番組情報より)

そこで、過去に宝くじで1億円当選した人が登場する回で、当選するコツを当選者が語っていました。
そこからいくつか紹介します。
www.nhk.or.jp

【山里】何かこう、当せんにつながる、そういうのあったりするんですか?

【ユキコ】日ごろの行いが一番大事なことで

家の近所にゴミが落ちてたりとか、落ち葉が散らかってたりした時に、

ま、拾ったりとか、あるいは、倒れた自転車をちょっとこうね、普通に…

【YOU】わかるわー。

【ユキコ】立て直すとか。

http://www.nhk.or.jp/nehorin-blog/100/257542.html

【ユキコ】後は、ご老人の方が道を聞かれる時とかもあるんですけれども、

親切にわかりやすく、道案内をして差し上げるですとか。

【山里】はあ。

【ユキコ】ちょっとした本当の親切なんですけども。

【YOU】そーかー。

【ユキコ】まあ、いろいろみなさん、やってらっしゃると思うんですけれども、

私は自分をですね、信じるということですよね。

必ず当たる強い気持ちで買いに行かなければ。

【YOU】へぇ~

【山里】へぇ~、精神論なんだぁ。

http://www.nhk.or.jp/nehorin-blog/100/257542.html

ここで当選者が語っているのは宝くじの「当て方」です。「日ごろの行い」「親切にする」「必ず当たる強い気持ちで買いに行く」と言っていますが、これで当たると皆さん思われるでしょうか?親鸞会会員の多くの方は、宝くじを買うこともないでしょうから「そんなことで当たる筈がない」と思われると思います。
では、なぜ「そんなことで当たる筈がない」と思われるのでしょうか?それは、これらのコツと宝くじ当選は何も関係がないからです。実際に、宝くじに当たるかどうかは、買ったかどうかであって買う前の行為には関係しません。

しかし、親鸞会会員の方が、難度海を度する大船に乗るための乗り方として「日ごろの行い」「親切にする」「必ず乗る強い気持ちで高森顕徹会長の話を聞きに行く」を心がけているのではないでしょうか?

「こういうことをしていればいつか助かるのではいだろうか?」
「強い気持ちで法座に臨まねば」と思っているのは、宝くじのあたるコツを心がけている人と何もかわりません。宝くじならコツといいますが、宝くじが当たるような気持ちでそれを阿弥陀仏の救いにもっていくと、自力と親鸞聖人はいわれます。

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。 (一念多念証文)

https://goo.gl/njfyWA

この自力は、ここでいえば「精神論」であって、実際のところ阿弥陀仏が私を助けるに当たっては関係がありません。なぜなら阿弥陀仏は、自分の力で難度海をわたることが出来ないものを助けるのであって、日ごろの行いや精神論を持っている人だけを助けることはないからです。


もちろん宝くじと違い、阿弥陀仏の救いは、私を助けようと働いて下さいます。それに対して宝くじは、私に当てようと働いたりはしません。

阿弥陀仏は、私を助けるために働いておられます。私の方では、その乗り方はありません。もし、そんな乗り方があるという話を聞いた時は、上記の宝くじの当たるコツと比べて見て下さい。言葉を変えたところで「大船の乗り方」というのは、親鸞会自身が否定し続ける「助かるコツ」と意味は同じです。「助かるコツなんてない!」と強弁する人もあるでしょうが、その実は宝くじ当選者の「精神論」と変わらないことに気がついて下さい。それこそ「助かるコツ」以外のなにものでもありません。


南無阿弥陀仏の救いに「助かるコツ」はありません。ただ今救う本願に、ただ今救われます。

平成29年親鸞会機関紙顕正新聞・年頭所感「大悲の願船に乗じ難度海を普く照らそう」(高森顕徹会長)を読んで思ったこと。

顕正新聞 親鸞会機関誌より

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宗教法人浄土真宗親鸞会機関紙「顕正新聞」平成29年1月1日号一面より。福井県の吉崎御坊(親鸞会)からの写真。※細かい事ですが、これだけ大きな写真を載せるのなら、説明が必要です。)

年頭所感は「高森顕徹会長から会員への年賀状」

親鸞会会員にとって、顕正新聞1月1日号はいつもの機関紙とは異なります。なぜなら、この1月1日号には高森顕徹会長直々の文章「年頭所感」が掲載されるからです。法話や座談会、一万年堂出版の著作以外に、高森顕徹会長が文章で会員に何かを発信することはこの年頭所感以外には基本的にありません。そのためこの年頭所感は「高森顕徹会長からの年賀状」ということで、会員は封筒に入れて配布された顕正新聞は、1月1日まで開封してはいけないことに成っています。
私も会員だった当時は、1月1日に封をされた茶封筒を恭しく開封して毎年の年頭所感を読んでいました。それだけでなく、高森顕徹会長の年頭所感に関しては講師部員は「覚える」ことが指示されており、何回も読んで記憶をしていました。年初めの「初聞法会」(富山県親鸞会館で開催)の前日に行われる新春大会では、その年頭所感を覚えた会員が高森顕徹会長の前で暗誦するというのが一つの恒例となっていました。


それだけにこの高森顕徹会長の年頭所感は、その一年の親鸞会の方針を会長自らが発信するものとして、重要視されていました。ところが、高森顕徹会長が平成13年に「なぜ生きる」を発行して以降は、ほぼ一万年堂出版での会長の著作の一部を転載する形になっていました。しかし、今年に関しては珍しく著作からの転載ではない形式になっていました。とはいえ、その内容を一言で言えば、いよいよ余裕がなくなり内向きになって来た親鸞会の内情を示すものでした。以下、それについて書いて行きます。

「難度海を度する大船」の厳存と、「その乗り方」?

冒頭から

親鸞聖人の「教行信証」には「難度海を度する大船」の厳存と、「その乗り方」以外に記されてはいない。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

とありますが、これは間違いです。正しくは、「難度海を度する大船に阿弥陀仏がどうやって私を乗せるかの乗せ方」が記されているのが教行信証です。
そのため

あの大船にどうすれば、乗せてもらえるのか。人類の最も知りたいこの問いに、答えられたのが親鸞聖人である。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

というのも間違いです。

聞法は「命かけて聞け」(年頭所感の小見出し

その後続く年頭所感は、とにかく「命かけて聞け」で貫かれています。

たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、そのなか押して南無阿弥陀仏のいわれを聞く人は、永久に変わらぬ幸せに救われるのである。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

とありますが、この年頭所感には「南無阿弥陀仏のいわれ」はどこにも書かれていません。「南無阿弥陀仏のいわれ」の語はこの一箇所だけです。

無常と罪悪を凝視して(年頭所感の小見出し

そして

“無常と罪悪にせめ立てられて、仏法は聞きなさいよ”と教誨された道綽禅師の例えである。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

と「命がけで」とは「無常と罪悪にせめ立てられて聞く」ことだとしています。現状として自身の無常(年齢によるもの)と罪悪(法を曲げること)に全く目を向けない会長が、「南無阿弥陀仏のいわれ」も言わずに「聞きなさいよ」と言っても説得力はまるでありません。


会長のお見舞いは「聞法」とはいいません。

最後は、以下の文章で今年の「年頭所感」は終わっています。

それを蓮如上人は、こう教えられている。
「誰のひとも、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」(白骨の章)
今日までの無事が、明日の安全を保証してくれないことを肝に銘じて、真剣な聞法に身を投じ、大悲の願船に乗じて、難度の海を遍く照らす、輝く親鸞学徒の年に生きよう。(顕正新聞平成29年1月1日号「年頭所感_高森顕徹会長」より)

ここでは「阿弥陀仏を深くたのみ」も「念仏申す」も全く説明がありません。ただ「今日までの無事が、明日の安全を保証してくれないこと」(ここでは後生の一大事)しか説明がないのが、高森顕徹会長の話の特徴が顕れています。それで「難度の海を遍く照らす、輝く親鸞学徒」なんでしょうか?むしろ、自身が築き上げた親鸞会が「今日までの無事が、明日の安全を保証してくれない」ことを不安に思い、「命かけて聞け(命かけて親鸞会館に来い)」としているのが、今年の高森顕徹会長の会員へのメッセージです。

まとめ

会長を安心させるために親鸞会館に命かけて来いというのが、今年の年頭所感の骨子のようですが、この記事を読まれた会員の方に申し上げます。貴方は「会長を安心させるため」に会館に足を運んでいるのでしょうか?それとも「自身の後生の一大事をこころにかけて」足を運んでいるのでしょうか?

前者は、会長の見舞いか介護です。後者は聞法となりますが、肝心の「法」がなければ「聞法」ではなく「聞『よくわからない話』」にしかなりません。


長年の会員からすれば、親鸞会館に足を運ぶのは「会長が元気かどうかの見舞い」になっているのでしょうが、それを「命かけて見舞いに来い」と言っているのが高森顕徹会長です。そのため、それに嫌気が差して会を辞める人も増えているのではないかと思います。
少なくとも、「ワシを見舞え」「命かけて見舞え」と言う人は、「善知識」ではありません。「阿弥陀仏をふかくたのめ」と「南無阿弥陀仏のいわれ」を勧める人が善知識です。
年も改まり、親鸞会館の初聞法会に行く人もあるでしょうが、年明け早々お見舞いのために足を運ぶのでしょうか?(お見舞いそのものが悪いとはいいません)それとも法を聞きたいのでしょうか?年始に考えてみて下さい。
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「新宗教」興亡史(別冊宝島)−信者たちに聞いた!この宗教の「年間費用」掲載の親鸞会記事を読んで思ったこと

「新宗教」興亡史 (別冊宝島 2523)

「新宗教」興亡史 (別冊宝島 2523)

新宗教」興亡史(別冊宝島)に親鸞会についての記事が掲載されていたので紹介します。

このムック本は、現代の代表的な新宗教団体の現状についていろいろと書かれています。その中で、多くの有力教団(信者数)の中で親鸞会が取り上げられていたのは、「3章『信者』と『教祖サマ』」のなかの「信者たちに聞いた!この宗教の『年間費用』」でした。他に紹介されていたのは、幸福の科学創価学会真如苑、世界平和統一家庭連合でした。それらと比較してみると、親鸞会という団体がどういうものかがよく顕れていました。

比較の為に、真如苑親鸞会の記事の一部を紹介します。
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年間総額も違いますが、特徴は何に多くの費用がかかっているかです。

上記の表からわかることは、親鸞会会員が会員として出している費用の大部分が、親鸞会館での高森顕徹会長の法話を聞く為の交通費、ご法礼、お布施となっています。これは、他の団体に比べて特徴的なことです。


ここから分かることは、親鸞会は知識帰命の団体だということです。「教えが大事」といいながら、つまるところ「高森顕徹会長」の話を聞かねばならないのが大前提となっています。だからこそ、親鸞会会員の多くは「高森先生の話」を聞く為に会員を続けています。ですから、親鸞会に長く在籍していると、経済的な負担のなかで、「○○お布施」に負担を感じることはあっても、本部参詣に関する経費は「あって当然」のこととなり「なかったこと」になってしまいます。


しかし、特に近年高森顕徹会長の話の質が低下していることから、そこまでして富山の本部に参詣すること自体に疑問を感じている会員も相当数いるのではないかと思います。この記事を読まれている会員の方にお聞きします。貴方が、富山の親鸞会館まで足を運んで「本当に行って良かった」と思ったのはいつが最後でしょうか?行かねばならないから行っていると思ってはいないでしょうか?


法話とは、文字通り「法」の話です。「法」とは、阿弥陀仏の本願であり、仏願の生起本末であり、南無阿弥陀仏のことです。難度海の話をするのが法話ではありません。因果の道理の話をひたすらするのが法話ではありません。船の話といっても、「船がある。以上」では法話ではありません。本願のいわれ、南無阿弥陀仏のいわれを聞くのが法話です。親鸞会会員の方は、本当に親鸞会館で「法話」を聞かれていますか?法話を聞くのを聴聞といいますから、法話でない話をいくら聞いても聴聞とはいいません。「仏法は聴聞に極まる」を貫くのであれば、法を聞く場に足を運んで下さい。今の親鸞会館で「法話」がされているかどうかは、貴方が自分の心に尋ねてみて下さい。

脱会者の辞めた理由の変化が表す親鸞会の現状

昨年から今年にかけて親鸞会を脱会された方が以前より多くなったように感じています。もちろん実数はわかりませんが、私に来る問い合わせの数はここ五年をみると明らかに増えています。
最近脱会理由が変化してきたことを知りましたので、そこから見える親鸞会の現状について書いて行きます。

これまでの脱会理由「お布施、人集めに耐えられない」

それらの人に脱会を決心した理由を聞くと、地元の会館を建てるにあたって多額の「お布施」の負担に耐えられなくなったとか、入会人数を増やす為に入会のハードルを下げてとにかく人集めが激しくなったからというものが多かったです。そこで会への不審が高まったところで、親鸞会教義の誤りを知り脱会するというものです。私も最近までは、それが理由だと思っていました。しかし、それだけでは最近の脱会者の問い合わせの増加は説明し切ることにはなりません。
なぜなら「多額のお布施」と「人集め活動の大変さ」は親鸞会の二枚看板といってもいいくらい以前からあることです。以前の正本堂建立も、目標を達成する為に各地で大変な募財活動*1は激しく行われていましたし、入会目標や親鸞会館の参詣入目標を達成するための活動も大変でした。また親鸞会教義が浄土真宗と違うことも以前からも変わりません。
それにも関わらず、最近脱会する人が増えているのだろうかと思っているところ、ある脱会された方から聞いた話が腑に落ちました。

最近の脱会理由「高森顕徹会長の話の質が落ちたから」

その理由は「高森顕徹会長の話の質が落ちたから」というものです。
昨年より映画「なぜ生きる」の制作が始まり、高森顕徹会長の話は「なぜ生きる」一色になりました。
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話は、映画「なぜ生きる」の「難度海」の話と、「大船がある」の話ばかりになったそうです。ここまで聞くと、元会員の多くは「それは前もそうだった」と思われると思います。しかし、内容はほとんどシナリオを朗読するように同じとなれば、以前とは違います。加えて、話そのものが途中で終わったり、座談会では問いと答えが明らかに違う話をしてみたりということが増えてきています。
以前は、同じ話であっても「次も聞きに行こう」という気持ちになるような話をする技術を高森会長はもっていました。だからこそ、多くの会員と「同じ話」と思いながらも、たまに出てくる会長の「真宗らしい」話を聞きにいきました。時々でてくる「本願のいわれらしい話」を期待して参詣していました。
しかし、昨年から高森会長の話は、その期待にこたえるような話は出来なくなりました。元々真宗の本来の話が極く少ないのが高森会長の話の特徴です。それを「人を引き付ける話をする技術」でなんとか法話の体裁をとって多くの会員を引き止めていたのが親鸞会です。

親鸞会に留まる理由がなくなった。

その技術が維持できなくなった現在、親鸞会館に話を聞きに行っても、「真宗でもない」「意味の分からない」「救いもない」話しか聞けません。多額のお布施や、激しい人集め活動を続けて来た会員が、会員を続けている最大の理由は「高森顕徹会長の話が聞ける」です。その最後の砦がなくなってしまっては、最早親鸞会に留まる理由はなくなりました。
最近の脱会者の問い合わせが増えた背景にあったのは「高森会長の話の質が落ちた」でした。「高森会長の話す力」一つで出来上がり、維持されているのが親鸞会です。それでも、現状は高森会長が話をしていますが、本当に話をしなく成った時は、親鸞会はいまの状態では存在しなくなります。
それでも高森会長と一緒にいたい人は、会に留まるのも自由です。しかし、浄土真宗の教えを聞きたい、阿弥陀仏に救われたい、浄土に往生して成仏したい人は、速やかに脱会されることをお勧めします。

*1:お布施を会員から募る活動

映画「なぜ生きる」を百回みたら祝賀会・ラジオ朗読「なぜ生きる」が「浄土真宗親鸞会の時間」に変わった件

nazeikiru-eiga.com
映画「なぜ生きる」は、上映館を変えては9月10月も上映され続けています。上映が始まった映画館の地元会員は、土日が「映画鑑賞の日」となり、映画館に足を運んでいます。親鸞会のお膝元の「TOHOシネマズ高岡」は5月から、約半年近くロングラン上映をしています。

そうはいっても、さすがの会員も、4回、5回と映画館で覩て感動するには無理があるのが、この作品です。改めて映画「なぜ生きる」に描かれていることを、一言で言えば「何回でもこの映画を覩なさい」以外にありません。高森会長の意図に対して、まっすぐ従う会員は、その通りに何回も映画館に足を運んでいます。とはいえ、10回以上も覩るには「作品の内容を覩る」というよりは、「覩たという事実の積み重ね」に対する何らかの動機付けが必要です。そこで、親鸞会ではこの映画「なぜ生きる」を、100回覩たら(前売り券で言えば100枚使ったら)祝賀会に参加できるという企画を出しました。

例えば、一人で一回映画館に足を運んだら「一了顕」(こういう単位だそうです。了顕とは映画「なぜ生きる」の主人公の名前)、知人を一人誘って自分も映画館に行けば、「二了顕」、知人を9人誘って自分が映画館に行けば「十了顕」となります。そうして「百了顕」までいくと、温泉旅館で開かれる祝賀会の参加資格が得られるとのことです。その触れ込みで各支部の幹部会員は「百了顕」分の前売り券を百枚購入することを勧められていました。(一枚1400円ですから、14万円)しかし、そうやって「百了顕」を達成した会員であっても、祝賀会参加に関してはまた数万円の参加費を払うことになるのだ親鸞会です。


今回の「百了顕祝賀会」は、親鸞会からいえば、相当な「功労者」です。それに報いるのが、祝賀会です。そうなれば、参加費は会が負担するのが筋というものです。親鸞会では、一事が万事このように進んで行きます。例えば、私が親鸞会の支部長をしていたころ、「正本堂落慶法要」が行われました。正本堂建立に多額のお布施をした会員の方から「建立に布施したいわば施主が、落慶法要に5万円払わねばならないとはどういうことか?どれだけの思いをして多額の布施を無理して出したと思っているのか?普通は、招待してもおかしくないのではないか?」と言われたことを強く覚えています。当時も全く反論できませんでしたが、この方の言われることは正論です。いうなれば、自分が家を新築して新築祝いをしたとします。その新築祝いに、自分で「ご祝儀」を包むでしょうか?そういうおかしなことが親鸞会ではまかり通っているということです。


こうして映画「なぜ生きる」を親鸞会を挙げて猛プッシュしている親鸞会ですが、映画の中には「宗教法人浄土真宗親鸞会」の文字は出てきません。偽装勧誘に利用するのだろうと思っていましたが、最近変化がありました。


それは、ラジオで放送していた「なぜ生きる朗読版」の番組名が、「浄土真宗親鸞会の時間」に変わったことです。
www.shinrankai.or.jp
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今迄は、ラジオ放送を聞いても「浄土真宗親鸞会」の名前は出てこなかったのが、突然「浄土真宗親鸞会の時間」に変わりました。当面は、内容は以前と同じ「朗読版なぜ生きる」です。
www.10000nen.com


これを見るに、親鸞会が偽装勧誘を改めたのかといえば、おそらくそうではないと思います。親鸞会の情報がラジオ局の知るところとなり、番組名を変えざるを得なかったのでしょう。多くの人が御存知のように、ラジオ番組には、いろいろな宗教団体がその団体名を名乗っているものが複数あります。その意味から言えば、もともと親鸞会がその名前を隠してラジオ番組を始めなければならない理由は何もありません。それにも関わらず、親鸞会がその名前を隠したのは、高森会長が何かあった時に責任を取りたくないからです。


それにも関わらず、ラジオ番組も「浄土真宗親鸞会」の名前を出さなければならなくなった現在は、偽装勧誘がいよいよ時代に合わなくなった証拠です。ラジオだけでなく各地のアニメ上映会も「親鸞会」の名前を出して行うことを元会員として親鸞会に求めます。

雑誌「宗教問題」15号は「特集:親鸞会とは何か?」の紹介

宗教問題を取り扱う雑誌「宗教問題」15号の特集は、「親鸞会とは何か?」でした。

宗教問題15:親鸞会とは何か

宗教問題15:親鸞会とは何か

amazonでは、現在一時的に品切れですが、親鸞会会員の方には特に読んで頂きたい内容です。
高森顕徹会長のインタビュー記事も掲載されています。機関誌にも、ほぼインタビュー記事が掲載されることがない高森顕徹会長が出ているのに驚きました。

浄土真宗による念仏信仰が非常に盛んな北陸地方は、俗に「真宗王国」ともされる地域です。その北陸・富山県に本拠を置く新宗教団体「浄土真宗親鸞会」は、決して長い歴史を持つわけでも巨大な規模を持つわけでもないながら、伝統仏教宗派と厳しく対立し、“原理主義教団"とさえ呼ばれて来た“活発な"教団です。2016年、その親鸞会は会員とされる人物のの参院選出馬や伝統教団寺院の取得、また映画の全国上映など、ほかに見られないほどの勢いでその活動を活性化させました。この北陸の教団に、いま何が起きているのか。宗教の視点から社会をえぐる“宗教ジャーナリズム誌"として、この親鸞会を徹底フューチャーしました。

宗教問題Vol.15 目次

特集 親鸞会とは何か
真宗王国・北陸に屹立する“親鸞原理主義教団"の現在……本誌編集部
ルポ・親鸞会本部探訪……小川寛大
親鸞会会員が見た高森会長中心の“問題教団"の姿……宮田秀成
インタビュー 私が対峙した35年前の親鸞会……紅楳英顕
「私たちはなぜ親鸞会を辞めたか」……古川琢也
参院選に出た親鸞会会員"のかたくなで不可解な取材拒否……岩本太郎
親鸞会の伝統仏教寺院取得は本当に“乗っ取り行為"だったのか……本誌編集部
アニメ映画『なぜ生きる』は盛り上がりに欠ける凡作だった………古谷経衡

https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%97%E6%95%99%E5%95%8F%E9%A1%8C15-%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/dp/4990852648

私も原稿を書いています。
複数記事がありますが、このブログを御覧になっている会員の方にはアニメ映画『なぜ生きる』の記事は、会の中と外での映画についての温度差を知る上で一度読まれることをお勧めします。

映画「なぜ生きる」の感想(4)「なぜ生きる」は「親鸞聖人教え」と違うたった一つの理由

映画「なぜ生きる」の感想も4回目となりました。
以前のエントリーでも書きましたが、親鸞会では「映画『なぜ生きる―蓮如上人と吉崎炎上―』」が聖典となり、各地の親鸞会講師が行う勉強会もそれ一色です。いかに映画を見る為に劇場に足を運ぶ人を増やそうかと、シナリオブックの輪読と解説をしています。
こういうことから「なぜ生きる」が、親鸞会教義の中心になったことは疑いありません。
私も親鸞会にいたころは、「親鸞聖人の教えは全て『なぜ生きる』に書かれている」と聞かされていました。
そこで親鸞会を離れた後、「なぜ生きる」に書かれている内容のどこがおかしかったのかについて何回かブログに書いたこともあります。
現在、本の内容のここがおかしい、このご文の解説はおかしいというのは、ネット上には沢山出ています。しかし今回は、個別のことよりも、そもそも「なぜ生きる」のタイトルが表す意味と親鸞聖人の教えは本当に関係があるのかについて書きます。

結論からいうと「なぜ生きる」のタイトルと親鸞聖人の教えは全く違います。言い替えると、親鸞聖人は「なぜ生きる」を教えられた方ではありません。


こう聞くと、親鸞会会員の方は驚きます。なぜなら、いつのまにか親鸞会では「なぜ生きる=親鸞聖人の教え」となっているからです。以前の大会スローガンにもそれは端的に出ています。
「なぜ生きる 開顕一つに命を燃やす 親鸞学徒の使命果そう」
これは、「なぜ生きる」を多くの人に明らかにするのが、親鸞聖人の教えを聞いている者の使命だと言っています。平成13年に「なぜ生きる」が出版されてから、親鸞会は「なぜ生きる」一色になりました。


では「なぜ生きる」とは、なんなのでしょうか?映画「なぜ生きる」シナリオブックより引用します。
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『なぜ生きる』の答えを知れば、勉強も仕事も「このためだ」と目的がハッキリしますから、すべての行為が意味を持ち、心から充実した人生になります。病気がつらくても、人間関係に落ち込んでも、競争に敗れても、「大目的を果たすため、乗り越えなければ!」と“生きる力”がわいてくるのです。(映画「なぜ生きる」パンフレットP9ー著者から映画に寄せて 精神科医 明橋大二

これを読んで、違和感を感じないでしょうか?
とはいえ、かくいう私も以前は違和感を感じていませんでしたので、大上段に構えていうつもりはありません。


上記の文章の内容は、私が大学入学時に、親鸞会から勧誘された時に聞いた話であり、また、私も偽装勧誘で多くの人に言ってきた言葉です。


でもこれって、親鸞聖人の教えでしょうか?
親鸞聖人の教えは、病気に例えると「病気は治ります。治す医者も、薬も完成しています」というものです。それに対して親鸞会の「なぜ生きる」は「病気になったことにも意味があります」です。苦しみと言い換えれば、親鸞聖人の教えは「苦しみの解決」であり、親鸞会は「苦しみに意味を与える」というものです。


そもそもの話として、親鸞会会員は、「苦しみから救われる」ことを望んで親鸞会に入ったのでしょうか?それよりも「苦しまねばならない理由を知りたい」という人が多いように感じます。

どのみち苦しみの人生ならば、意味のあることで苦しみたいという諦めが親鸞会会員を活動にかりたてる動機になっています。別の言い方をすれば「どうせ死ぬのになぜ生きる?」と考え、死ぬ意味を見つけた人たちの集まりが、現在の親鸞会です。


これでは、最初から救われることを求めていないのですから、親鸞会会員に「救われた」という人があまりいないのも当然です。ですから、「救われない人生にせめて意味を見いだしたい(見いだした)」人は、救いがあると言っても耳を貸しません。なぜなら、本人が救いを求めていないからです。その「救われない人生にせめて意味を見つけた」結果が、「高森顕徹会長のいう親鸞聖人のみ教えを全人類に徹底する」です。


その具体的行動が、現在の映画『なぜ生きる』を一人でも多くの人にの活動です。


しかし、親鸞聖人の主張は一貫して「難度海を度する大船がある」ことであって、「難度海を度する大船があるから、あなたの人生には意味がある」とか「難度海を度する大船があるから、親鸞会の活動に邁進せよ」ではありません。
病気で言えば医者の仕事は病気を治すことであり病気を治した後のその人のさまざまな苦しみまで救うと言うものではありません。そこから分かるように、「苦しみの解決(病気の治療)」と「苦しみに意味を与える(病気になったことに意味を与える)」は違うことが分かります。


阿弥陀仏の救いは、「お前を浄土に往生させて、仏にする」ものです 。その身に救われたならば、「なぜ生きる」は大した問題ではなくなります。

結論

親鸞会高森顕徹会長)の教えは「(こんな苦しい人生)なぜ生きる?それは、阿弥陀仏に救われるためだ!」です。
それに対して親鸞聖人の教えは、「阿弥陀仏に救われて、浄土往生が定まれば、『なぜ生きる』なんて考える必要もない問題です。」

「なぜ生きるが大事」の親鸞会に対して、「『なぜ生きる』が問題にならない救い」を教えられたのが親鸞聖人です。その意味では、親鸞会の教えは「浄土真宗」ではありません。やはり、宗教法人浄土真宗親鸞会の名前を変えるべきです。