親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

映画「なぜ生きる」の「苦しみの人生がガラリと変わる」について質問しても意味がない理由 (2017年11月12日高森顕徹会長座談会より)

2017年11月12日(日)は、親鸞会館で高森会長のアニメ座談会が行われました。高森会長の体調から、以前の法話形式から座談会形式になったそうです。法話形式というのは、高森会長が親鸞会教誨服を来て一つの演題について朝昼と基本的に立って話をするというものです。それに対して座談会形式というのは、ワイシャツにジャケット着用で演題中央に机を置き、イスに座って話をするというものです。


アニメ座談会というのは、アニメ映画「なぜ生きる」についての質問に答えるというものです。その質問は、アニメ映画のセリフに限定されています。
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映画「なぜ生きる」オフィシャルサイトより)


今回の質問は、以下のものでした。

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか(42ページ)」

ここでページ数が出てきますが、これはアニメ映画「なぜ生きる」のシナリオブックのものです。アニメ映画が完成してより、親鸞会ではこのシナリオブックがお聖教のように扱われ、熱心な会員はそれにあちこち線を引いたり沢山の書き込みをしています。


そこで、現在親鸞会会員の方ならよく御存知のことですが、映画「なぜ生きる」についての質問は、シナリオのなかの3箇所から4箇所の部分だけに質問を何度も繰り返して現在に至ります。今回の質問部分も、すでに何回も座談会の質問で出ている内容です。ここまで読まれた親鸞会会員でない方は、「なぜ同じ箇所を何度も質問をするのだろうか?」「質問について高森顕徹会長が回答を十分にしていないからではないか?」と思われることでしょう。それは御尤もな感想です。


例えば、国会で同じ疑惑について何度も野党から質問が繰り返されていますが、なぜそうなるかと言えば、与党が質問に答えていないからです。もし回答をしていれば、それを踏まえて「ではさきほどの答弁でいわれたことについて、○○はどういうことでしょうか?」と質問が変わっていきます。


それと同じことが、高森顕徹会長のアニメ座談会では繰り返されています。何度も同じ質問が出ているのは、それまでの質問に会員が納得をしていない証拠です。もちろん熱心な会員は、質問に対する高森顕徹会長の回答について分からないことがあっても、「自分の聞きかたが悪い」と思う人もあると思います。しかし、それは大きな間違いです。会員によっては、九州や北海道から富山に来て高森会長の話を聞こうという気持ちの人に「聞きかたが悪い」ということは考えられません。単純に高森会長が回答をしていないだけです。


しかし、今回の質問に関しては、高森顕徹会長の回答にも問題は多いですが、そもそもの話としてこの質問が浄土真宗の質問にならないというのが大事なところです。


といいますのは、会員の方は映画「なぜ生きる」の内容が、浄土真宗の教えと違うということは夢にも思っていない前提で質問を出しておられます。ところが、私だけでなく親鸞会以外の人から見るとこの映画「なぜ生きる」の内容は浄土真宗の教えと異なるところが多くあります。ですから、今回の座談会の質問も正しくは以下のようになります。

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」とは浄土真宗の教えと異なるのではないでしょうか?

この「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」が、間違いだという出発点に立たないと、これが正しいという前提での高森顕徹会長の話を何回聞いても納得できるはずはありません。なぜなら、「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」ということは、常々高森顕徹会長が言っている「正しい親鸞聖人のみ教え」ではないからです。


これについて、少し詳しく書いていきます。
まず「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」とは、どういうことだと親鸞会会員の方は理解しておられるでしょうか?


少しずつ言葉を置き換えて書いて見ます。
阿弥陀仏に救われると、私の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」
とは、どういうことでしょうか?


ここで、苦しみの人生の苦しみとは何でしょうか?人間関係の苦しみであったり、病気の苦しみ、経済的な苦しみなどなどが、日常の実感ではないでしょうか?ここで「無明の闇」とか「後生くらい心」と言い出す親鸞会会員の方があるかも知れませんが、よくよく考えて見て下さい。実感として「それ」で苦しみの人生となってるでしょうか?むしろ、それが自覚できないと親鸞会では教えているのではないでしょうか?
そこで、実感としていろいろある「苦しみの人生」が「幸せな人生にガラリと変わる」と聞くと、前述した「人間関係の苦しみ」「病気の苦しみ」「経済的な苦しみ」がなくなって「人間関係がよくなる」「病気が治る」「経済的に恵まれる」となります。


ですから、「阿弥陀仏に救われると、私の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」とは、言い替えると
阿弥陀仏に救われると、私の人間関係の苦しみは、ガラリとよくなる」
阿弥陀仏に救われると、私の病気は、ガラリと治る」
阿弥陀仏に救われると、私の経済的な苦しみは、経済的に恵まれるようにガラリと変わる」と言っているに過ぎません。


仏教の言葉で言い替えるなら
阿弥陀仏に救われると、煩悩で苦しむ人生は、煩悩のない人生にガラリと変わる」
と言っているのと同じです。


こう書き替えるとさすがに親鸞会会員の方も「それはおかしい」「それは親鸞聖人の教えと違う」と分かられるのではないでしょうか?しかし、アニメ映画「なぜ生きる」のセリフはそういうことを言っているのです。


阿弥陀仏に救われても煩悩は変わりません。煩悩具足の凡夫は死ぬまで変わりません。そこは、親鸞会会員の方でも

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P693)

https://goo.gl/AvmWj5

という親鸞聖人のお言葉は聞いた事があると思いますが、その通りなのです。


言い換えれば、死ぬまで「人間関係の苦しみ」や「病の苦しみ」「経済的な苦しみ」は、いろいろあっても続きます。少なくとも阿弥陀仏に救われた刹那に「ガラリと変わる」ことはありません。何も変わりません。
その変わらないものを、あたかも「ガラリと変わる」かのようにいくらこじつけた所で、それが真実でない以上、親鸞会会員が納得しないのは当然のことです。


過去の私もそうでしたが、「後生暗い心が明るくなる」とか「地獄一定が往生一定に」などと言葉は聞いていても、私が思い描いた「阿弥陀仏に救われた世界」は、映画「なぜ生きる」のセリフのように「あらゆる苦しみがガラリとなくってしまう世界」としか思っていませんでした。考えていることは、親鸞会会員の人が忌み嫌っている現世利益宗教と何も変わりません。

(103)
外道・梵士・尼乾志に
 こころはかはらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり
正像末和讃103 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P618)

https://goo.gl/hG9nnW

こう書くと「不可称不可説不可思議の世界なんだから凡夫にわかるはずがない」という会員の方もあると思います。しかし、心で思っている「絶対の幸福」は、「ものすごい現世利益」のように考えてはいないでしょうか?


親鸞聖人がいわれるように煩悩具足の私というのは「臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」であります。苦しみの人生は、ある意味何も変わりません。その変わらないままが、往生浄土への歩む人生に転換させらていたというのが浄土真宗の救いです。ですから「阿弥陀仏に救われると、私の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる」が意味するところの、「煩悩がなくなる」「苦しみが無くなる」といったようなことはありませんので、それについて高森顕徹会長に「浄土真宗の教えとしての回答」を質問しても、仮に100回座談会で聞いても答えは出てきません。なぜなら、そんなものは浄土真宗の救いにないからです。


浄土真宗の教えにないこと」を会員が質問し、高森顕徹会長が「浄土真宗の教えにあるかのように長い言い訳(詭弁)」をしているのですから、「浄土真宗の教えについての座談会」としては全く意味をなしません。


もし機会があれば、アニメ座談会で、前述したように「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは浄土真宗の教えと異なるのではないでしょうか?」と質問をしてみて下さい。きっと、みなさんの誤解も解けると思います。

高森会長のただ一つの願いは「皆々信心決定あれかし」なのか?(顕正新聞平成29年11月1日号論説を読んで)

顕正新聞平成29年11月1日号を読みました。以下、思ったことを書きます。
今回は、大阪会館が完成したことと、10月に行われた報恩講での弁論大会の内容が主な記事でした。論説は、報恩講での高森会長の話のまとめとなっていました。
論説の内容について、これから書いていきます。

タイトルは、ただ一つの願い「皆々、信心決定あれかし」 でした。
感想を最初に書きますと、「シネマ学院を建てた長い言い訳を2日間かけてした」ということです。なぜそう感じたのかというと、中身(救い)がないからです。

全文は、以下に画像を紹介ので読みたい方はそちらを御覧下さい。
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平成29年10月に行われた親鸞会館での報恩講の演題は「蓮如上人のご遺言」でした。 この論説も、

「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
   (御文章4帖目15通)
蓮如上人の御遺言だ。
遺言は重いものである。蓮如上人が常に私たちに願っていられた「信心決定」とは、一体、どんなことであろうか。(顕正新聞平成29年11月1日号 論説より抜粋)

と、冒頭から書いてあるので、親鸞会報恩講での高森会長の話の要約であることは会員ならすぐわかります。

しかし、この論説全体をみても、信心決定の身にどうしたらなれるのかについては、ほとんど書かれていません。
書いてあるのは、「信心には決定がある」ということのみです。

それについて書かれている箇所を紹介します。

だが、蓮如上人はここで「信心決定あれかし」といわれている。決定する信心があるのだ。決定とは、ゴールであり完成と言ってもよかろう。
(略)
しかし、親鸞聖人や蓮如上人の教えられている信心は、完成のある信心である。
(略)
南無阿弥陀仏を頂いたことを、信心決定とも、信心獲得とも言われるのだ。
(略)
親鸞聖人90年のご苦労も、蓮如上人85年のご布教も、このたびシネマ学院が建設された目的もただ一つ。
善知識方の願いは、偏に「皆々信心決定あれかし」以外にないのである。(K)
(同上)

この抜粋でも分かる事ですが、今回の論説(高森会長の話)は、まとめると以下のようになります。

  1. 信心には決定がある。完成が有る。
  2. それは南無阿弥陀仏を頂いたことである。
  3. そのために親鸞聖人、蓮如上人は布教されました。
  4. シネマ学院が出来たのも、みなさんに信心決定あれかしのためです。

ということです。

まとめると、分かる事ですが、今回の高森会長の話は、一言で言うこと「なぜシネマ学院をつくらねばならなかったのか」という理由について、全く別の話を持ってきて、それらしく話をしているということです。
親鸞会を出た人間からすると、また親鸞会会員でない人間からすると「シネマ学院を建設する目的はなんだろう?」ということについて明確な理由は何もありません。

それに対して高森会長は「皆々信心決定あれかしの気持ちでつくったのですよ」と会員に言っています。しかし、これには大きな矛盾があります。
その一つは、みなさんが信心決定するために建てたシネマ学院(なぜ生きる上映専門映画館)ならば、高森会長が話をするよりも、そちらで映画「なぜ生きる」を見たほうがいいということになります。

もう一つは、この論説ではさすがにカットしてある部分ですが、今回の報恩講で高森会長は最後に、どうすれば信心決定できるかについて、論説の最初にあげた蓮如上人の御文章から「宿善まかせ」だから、「宿善を厚くするためには、『聞法』だ」と言ったとのことです。親鸞会会員にとって「聞法」とは、「高森会長の話を聞きに富山に足を運ぶ」こと以外にありません。

結局のところ、「今日こそ信心決定の身に救われたい」と、「世界20カ国」から会員が参詣した場で高森会長が言ったことは「高森会長の話を聞け」でした。これは、親鸞会で熱心に活動されている方には今一つピンとこない話かもしれません。
そこで、別の話で例えると、とある病気にかかった患者が「あの医者なら自分の病気を治す方法を教えてくれる」と思って遠路も厭わずその医者のところに駆けつけると、その医者が一言「病気を治すには、この病院にまた来て下さい」と言っているのと同じです。

これは、病気と医者の話で例えると分かりやすいおかしな状況ですが、高森会長が語っていることはいつもこの構造なのです。

  1. あなたは大変な病気にかかっています。
  2. いますぐ処置をしないと大変なことになります。
  3. その病気を治す方法は私しか知りません。
  4. だから私の話を聞きに来なさい。
  5. 会員が高森会長の話を聞きに行く
  6. 1〜4の話を聞く
  7. 5にある高森会長の話を聞きに行く

(以下6−7の無限ループ)

私が在籍したときも振り返るとこんな状態でした。

今回の報恩講の話も、「皆さんに信心決定してもらいたい」「そのためにシネマ学院を建てました」「信心決定したかったらまた、私の話を聞きに来て下さい」以外にはなかったということです。
勿論、「どうしても高森会長の話を直接聞きたい」という方なら、話を聞いただけで満足するかもしれません。しかし、この論説にあるように「信心決定あれかし」が高森会長の本心ならば、聞きに来た人が信心決定せずに帰ることについて何も言及しないのはおかしなことです。

「また聞きにきてくれたらそれでいい」という気持ちで話をしているのか、「なんとかこの場で救われて欲しい」と思っているかは、長年聞いてきた人ならなんとなくわかるのではないでしょうか?

ここまで記事を読まれた会員の方は、よくよく自分の心に手を当てて考えて見て下さい。
貴方が親鸞会に居続ける理由はなんでしょうか?
きっと、いろいろありながらも居心地がよいからではないかと思います。もちろん、いい人も多いのでその気持ちも分かります。ただ、その居心地のよさというのは、「誰も救われていない」ことから来る連帯意識ではないでしょうか?
「皆救われていない」「だから高森会長の話を聞くしかない」「私はそれでいいんだ」としていないでしょうか?私はかつてそう考えていました。

「後生はひとりひとりのしのぎ」という言葉は親鸞会会員の方は何度も耳にしてきたと思います。「みんな救われていないのだから」とか「多くの人は真宗の教えを知らないのだから」というところに、腰をかけるのは大変な間違いです。

貴方が救われないと、貴方の為に本願を建てられた阿弥陀仏の本願が反故になってしまいます。
ただ今救う本願にただ今救われて下さい。

高森会長の話はなぜ分かったようで分からないのかを顕正新聞論説から解説(顕正新聞平成29年10月15日号を読んで)

宗教法人浄土真宗親鸞会富山県射水市)には、親鸞会館があり毎月1回高森会長の法話が行われています。そこには、全国から会員が会長の話を聞く為に足を運んでいます。私もかつては、親鸞会館に足を運んでいました。

高森会長の話の内容は、大きく分けると二つあります。

  1. 分かったようで分からない話。
  2. 途中で終わり、続きは次回という話。

今回は、1番目の「分かったようで分からない話」について書きます。
分かったようで分からない話というのは、仏教の話を聞いた人の中にはしばしば聞かれる感想です。それはなぜかと言えば、例えば仏教でいう「空」の解説で「有でも無でもない」と聞けば、多くの人はそう思います。そういう所から「仏教の教えは深いものだ」とか「凡夫の智慧では分からない」と思ったりもします。
しかし、高森会長の話にはそれは当てはまりません。前述の「空」の説明ならば、きちんと説明はされた上で分かりませんが、高森会長の話は説明が説明になっていない話をしているからです。言い替えると、「何を言っているか論理的に分からない話」をしているので会員にとっては「分かったようで分からない話」になります。とはいえ、それは会員やこれから会員になろうという人にとってのことで、一般の多くの人が聞くと「何をこの人は言っているのか分からない」話になっているのが高森会長の話です。

今回は、その例として顕正新聞の論説から一部引用して解説をします。
親鸞会の機関紙である顕正新聞は、毎月二回(1日と15日)発行されています。その中で「論説」は、最近の高森会長の法話、座談会、講師部講義などで語った内容を要約したものがほとんどです。いわば、会員に推奨されている「聴聞録」の要約を親鸞会が公式にしているようなものです。限られた文章でまとめられているだけに、高森会長がどのような話を、どういう展開でしているのかがよく分かります。

しかし、この「論説」は顕正新聞の中でもあまり読まれない記事になっています。その理由として私が親鸞会にいたころは親鸞会弘宣局では、「文字ばかりで写真がない記事は読まれない」というように捉えられていました。その後、親鸞会を辞めて、また現在でもそうですが、論説が読まれない理由はそれ以外にあると思っています。
その一番の理由は「何が書いてあるか分からないから」です。もちろん日本語で書いてあるので、音読することはできるのですが、論説の多くは読んでも何が書いてあるかわかりません。そのため、会員も読まなくなっしまいます。なぜ読んでも分からないかは、前にも書いた通り高森会長の話が「ちょっと何を言っているかよく分からない」からです。その話を要約した論説は、やはり「ちょっと何を言っているかよく分からない」記事になります。
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以下、顕正新聞平成29年10月15日号論説「全人類の希望の灯炬」から抜粋して解説をします。

「難思の弘誓は難度の海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」(教行信証総序)世界の光と仰がれる親鸞聖人のみ教えを一言で表現した言葉が平生業成である。
(略)
親鸞聖人の主著『教行信証』はまさに平生業成の書であり、それが冒頭の一説に、ズバリ明言されている。
(略)
弥陀の大船に載せられると同時に、無明の闇が晴れて、明るく楽しい絶対の幸福に生かされるのである。
ここで親鸞聖人は、古今東西の人類の苦悩の根元を、無明の闇と断言されている。
無明の闇とは何か。後生(来世)暗い心であり、死んだらどうなるか、ハッキリしない心である。
(略)
死を眼前にして、果たしてどんな希望がありうるか。
(略)
ただ絶望あるのみ。
しかし親鸞聖人は、弥陀の光明だけが、苦悩の根元である無明の闇を破り、絶対の幸福にする智慧の太陽だと断言されている。
この無明の闇さえ晴れれば、いつ死んでも往生一定、光明輝く浄土に生まれ仏になれることがハッキリするのだ。
天に二日なし。
阿弥陀仏の本願(光明)開顕された親鸞聖人のみ教えは、まさに人類の真の希望の灯炬なのである。(K)

全文を御覧になりたい方は、画像を参照して下さい。

こうして論説をさらに抜粋して読んで頂くとわかると思いますが、平生業成の話なのか、無明の闇の話なのか、親鸞聖人は「人類の希望の灯炬」といいたい話なのかがよく分かりません。
普通の話というのは、言いたいことと、その理由が書いてあります。ところが、今回に限らず論説はだいたいのところ、最初に書いてあることと、最後に書いてあることがつながらないものがおおいです。その証拠に、文章の全体に「なぜなら」「というのは」「つまり」「よって」などというような接続詞が殆どありません。つながっているかどうかよく分からない短文の羅列というのが正直な印象です。ですから、一段落だけなら文章として読めるものが、前後のつながりなく幾つも羅列されると、一体なんの文章なのかがわからない状態です。

実は、高森会長の話というのはこのような構成になっています。一つのたとえ話や、出してきた語句の説明だけを聞くと、それ自体間違っていないような気がしますが、全体として話がつながっていないので「分かったようで分からない」「ちょっと何言っているか分からない」という話になってしまいます。

顕正新聞の論説は、よくも悪くも高森会長の話をそのまま要約して編集をしないので、結果としてと高森会長の話の「分かったようで分からない」を見事に文字化しています。

ここまで書いた記事を読まれた親鸞会会員には「そんなことはない。高森先生の話はとても分かりやすい。」とか「真実を説き切っておられるのは高森先生だけだ」と言われる方もあると思います。私も、以前はそう思っていた頃があるのでお気持ちはよく分かります。
しかし、高森会長は「ちょっと何言っているか分からない」話を、「とても分かりやすい」話だと思わせるだけの技術をもっています。そのため熱心な会員ほど、会長の意図する通りに信じていまいます。ですが、よくよく思い出してみて下さい。聞いている時は「よく分かった」と思っても、一度法話が終わると「一体何の話だったのか?」と思ったことはなかったでしょうか?


信心の沙汰をしましょうと支部の会員で法話の後に集まってみても、「どの順番で話が進んだか」「どんな根拠が出たか」「あの語句の説明はどうだったか」という記憶の答え合わせに終始したことはないでしょうか?
しかも、どれだけその記憶を正確に文字に残してみても「結局何の話だったのかが記録に残っても心に残らない」ということはなかったでしょうか?


とどのつまり「また高森会長の話を聞きなさい」「必死で活動しなさい」以外に、何の話だったのかは心に残らないことが多いのが実感ではないでしょうか?

私が会員の頃は、「何の話だったのかよく分からない」ことがあった時は「自分が真剣に聞いていないからだ」と、自分の責任だと思っていました。また、一般に高齢者と言われる年代の会員の方が「私は高森先生の話を聞いても、聞いてる時は頷いているんだけど、話が終わると頭から抜けてしまうんです」と言われるのを、「体力的に富山まで長距離移動をして一日話を聞くのが難しいのだから無理もない」と思っていました。
しかし、それはここまで書いてきた通りで、「何の話だったか残らない」のは、聞いている人の真剣さや体力の問題ではなく、単に高森会長の話がよく分からないからです。


突き詰めれば、高森会長自身に「分かってもらいたいこと」がないからということになります。
今回の論説で言えば、繰り返しになりますが、平生業成がいいたいのか、苦悩の根元の話がいいたいのか、親鸞聖人は「人類の希望の灯炬」と言いたいのかが不明です。
仮に平生業成の話なのだとしても、「ではどうすれば平生業成の身に救われるのか」の話がありません。
「苦悩の根元」だとしても、無明の闇を破るのが阿弥陀仏の力だということは書いてありますが、結局どういうことで無明の闇が破れるのかという話がありません。
親鸞聖人は「人類の希望の灯炬」だと言いたいとしても、それまでの前述の記載が意味がわからないので、なぜそうなるのかがわかりません。


言ってしまえば、スローガンはあっても実態がない、話はあっても救いはない、教えがあるようで語句説明のみで自分にとっての救いがないというのが高森会長の話です。


結論としては「分かったようで分からない」どころではなく、「救いがあるようで救いがない」のが高森会長の話です。
「高森会長の話がよく分からない」という会員の方は、真面目に高森会長の話を聞いている証拠です。「よく分かる」と言う人は、いわゆる「得手に法を聞いている」人です。
「最初はよく分かる話だと思っていたけれど、最近の高森会長の話はよく分からない」と感じられている会員の方は、高森会長の話を正確に聞いた結果なので、もう親鸞会を離れる時が来たと思って間違いありません。

阿弥陀仏の本願は、親鸞会以外で聞くことはできます。ただ今救う法をただ今救う法と聞いて救われて下さい。

アニメ学院や「ご解説ビデオ」よりも「あなたの白道」を読むのが会員にとって本当の報恩講(顕正新聞平成29年10月1日号を読んで)

顕正新聞平成29年10月1日号を読みました。以下思った事を書きます。
今回は、台湾会館落慶座談会が一面でした。また、大阪会館が落慶間近という記事も目立ちます。
とはいえ、やはり今回もシネマ学院の記事が掲載されていました。
10月の報恩講に向けて、準備を続けているそうです。

今回の顕正新聞記事を見る限りは、「シネマ学院」はただ「高画質、音響もいい映画『なぜ生きる』をみることができる施設」のようです。そこで、今回の顕正新聞の記事を見ると本当に(未来の)会員に勧めたいのは「ご解説ビデオ」のようです。

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同上 希望者に「ご解説ビデオ」

「ご解説ビデオ」といっても、これまでの「ビデオ法話」ではなく、これまでの高森顕徹会長のアニメ映画「なぜ生きる」解説をまとめたもののようです。

以下、顕正新聞より抜粋します。

○「難思の弘誓は難度の海を度する大船」とは?
など。いずれも高森先生の二千畳のご法話やテレビ座談会をまとめたものである。
シネマ学院向かいにあるF館、または親鸞会館本館の「浄信の間」で上映され、時間はテーマによって異なっている(30分と90分)
映画では、私たちの人生が海に例えられている。それがなぜ分からねば、大船に載せられる救いも分からない。映画を基本から理解するために、どうしても知っておきたい大事な内容が凝縮されている「ご解説ビデオ」である。(L)

ここで分かる事は、高森顕徹会長の作成した映画「なぜ生きる」は「ご解説ビデオ」を見ないと分からない作品だということです。

それはなぜかと言えば、極めて内輪の人にしか分からない説明、場面表示で描かれた映画だからです。私も、映画「なぜ生きる」を見て思ったことは、「内容の善し悪しは置いておいても、会員以外には分かりにくいだろうな」でした。

そこを「ご解説ビデオ」によって「こんなに深い教えなのだ」といいたいのだと思います。しかし、私は直接聞いてはいませんが、参加した人の「高森顕徹会長の映画『なぜ生きる』のご解説」はあまり評判がよくありません。

私個人として、それも無理もないことだと思いました。
なぜなら、あの映画「なぜ生きる」を見て、心の底から感動した人はいないと思っているからです。では、どうしてそう言えるかといえば、詳しい理由は最近公開された嶋田さん(元親鸞会講師部員)の「あなたの白道」に言いたいことは殆ど書かれていますのでそちらを御覧下さい。


blog.livedoor.jp
(全部で6章構成で、現在4章まで公開されています)




ただ私の個人的な会員時代の経験を振り返ると、親鸞会に入会した当初は「これが浄土真宗の教えなのか。」という驚きも感動もありましたが、しばらくするとそういう感動もなくなって行きました。
それから長い間、「自分は素晴らしい教えを聞いている」と周りからも言われ、また人にも言っているうちに自分が感動していると思い込んでいる状態が続いていたのだと思います。「法を聞いて有り難いな」といった意味での「感動」は、今振り返るとなかったのだと思います。「このまま死んだら後生だぞ」という気持ちは、「法を聞いた感動」とはまた別物です。頭も心も、あまり働いていない状態でした。

本当に伝えたいことのある話、また法話の内容で言えば、南無阿弥陀仏について説かれる話には何か感ずるところは、現在親鸞会会員の方にもまだあります。10月7日8日は、親鸞会館で報恩講だそうですが、一度「あなたの白道」読んでください。

シネマ学院の完成と「くもりのちはれめでぃあ」の開設に見るポスト高森顕徹会長の親鸞会(顕正新聞平成29年9月15日号を読んで)

親鸞会の機関紙・顕正新聞平成29年9月15日号を読みました。読んで思ったことを以下に書きます。

今回も、シネマ学院一色の内容でした。10月7日8日の親鸞会館での報恩講で初上映とのことでした。
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このシネマ学院で映画「なぜ生きる」で仏法讃嘆という見出しを見ると、以前は高森会長の法話を聞いた後に同朋の里で信心の沙汰をしようと言っていたのが遠い昔に感じられます。この見出しにもあらわれていますが、今後高森顕徹会長が会員に直接話をする機会は減っていくようです。

実際、9月の親鸞会館での法話では高森顕徹会長はいつもの教誨服姿ではなく、座談会で着用するワイシャツにジャケット姿で座談会形式でイスに座って話をしていました。その後の会員への連絡で、今後高森顕徹会長は教誨服を着てかつての法話スタイルで話をすることはないそうです。また、会員の一部も参加していた講師部講義も中止になり、アニメ座談会もネット中継のみとなりました。

以前のエントリーでも書きましたが、親鸞会は「高森顕徹会長の話を聞く為の団体」から、ボスト高森顕徹会長時代へ向けて舵を切っているところです。

このシネマ学院に関しては、会員の間からも、同朋の里の敷地内にある映画館に新人を誘うのはハードルが高すぎてどうしたらいいものかという声も出てきているのが現状です。どれだけ素晴らしい映像と音響で映画が上映できると言っても、座席の数からして会員向けの施設というのがシネマ学院です。

その映画の解説ビデオが、親鸞会館と同朋の里の施設で見ることができるそうです。
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F館や、親鸞会館「浄信の間」で聞かせて頂くことができます(「なぜ親鸞聖人は人生を海に例えられたのか」「大悲の願船とは何か」など)。(顕正新聞平成29年9月15日号より)

今後は、親鸞会会員が富山県親鸞会館へ行く理由は「シネマ学院で映画「なぜ生きる」を見て、解説ビデオを見る為」ということになるようです。

では、今後そのような会員をどうやって見つけるのか、ということで親鸞会がつくったのが「くもりのちはれめでぃあ」です。
hare-media.com
www.facebook.com


運営は、浄土真宗親鸞会と書いてはあるもののあまり目立たないなというのが正直な印象です。

また、その記事を書いているライターは、すべて親鸞会講師部員、親友部員、会員なのですが、プロフィールに「親鸞会」の文字はどこにも見あたりません。
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(くもりのちはれめでぃあ より)


サイト自体は非常に現代的でレイアウトもきれいです。また、LINEで相談に応じる、Facebook上でオンラインセミナーのライブ中継を開くなど工夫が見られます。
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(同上)


おそらくこれでサイトに登録する人も出てくると思います。
しかし、多くの人を仮に集めても入り口はあっても出口がないのが親鸞会です。「信心には決勝点がある、ゴールがある」と高森顕徹会長は言ってますし、親鸞会講師も言っていますが、しかし「親鸞会の活動には決勝点がない、ゴールがない、質問しても答えがない」のが実情です。

この「くもりのちはれめでぃあ」に出てくるものを見る限り、「浄土真宗親鸞会」は、「親鸞会」へと変わり、なんだかよくわからない仏教的なことで日常の悩みを解決する団体へと変わっていくことが見て取れるものでした。
親鸞会の講師やこのサイトのライターは、「いや浄土真宗をひろめる為の方便だ」というかもしれませんが、私が知る限り、私が親鸞会にいた9年前でもすでに「浄土真宗の教えを伝えている」というのは現場レベルではとてもいえない状況でした。実態は、「どうすれば高森顕徹会長の話を聞く人を増やせるか」だけの為に活動をしていました。その高森顕徹会長がいなくなれば、ただ「人集め」と「教団維持」だけが団体の活動目標になるのは火を見るよりあきらかです。


高森顕徹会長についていくしかない」と、何十年も自身の信心も顧みず、自身の後生も考えてこなかった親鸞会会員のみなさんは、一度冷静になって考えてみて下さい。高森顕徹会長が話をしなくなったら、みなさんはどうやって後生の一大事を解決するのでしょうか?
映画を見れば救われるのでしょうか?

親鸞会の今後がわかる「ブラジルから届いた歓喜の手紙」(顕正新聞平成29年9月1日号)

顕正新聞平成29年9月1日号を読みました。
一面に掲載された記事を読んで感じたことを書きます。
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見出しは「晴れて大悲の願船に」ブラジルから届いた歓喜の手紙でした。
内容としては、ブラジルの会員が、映画「なぜ生きる」を見て「大悲の願船に乗せていただけた」というものでした。

毎日、大きな喜びを胸に真剣に聞法させていただき、晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました。(略)
映画『なぜ生きる』を拝見し、またサンパウロ会館でも、そのご解説を通訳で聞かせて頂き、不可称・不可説・不可思議の無上仏の救いにあわせていただくことができました。(顕正新聞平成29年9月1日号1面より抜粋)

最初に書いておきますが、このブラジルの親鸞会会員の方が救われたといわれていることの真偽をあれこれというつもりはありません。本願力回向のお救いですから、親鸞会に所属している方が救われたとしても不思議なことではありません。

しかし、実情として親鸞会では、私も含めて脱会した人が「阿弥陀仏に救われた」「信心決定の身になった」というと、全て「それは異安心だ」と主張します。顕正新聞でも、たびたび脱会した人や親鸞会以外で「救われた」という人を「群賊悪獣」「体験至上主義」「自称獲信者」と呼び、「彼らの信心は所詮体験しかないのだ」とか「そんな簡単に獲られる信心ではない」と一刀両断してきました。

その一方で、親鸞会のなかで数年に一度あるかないかという「私は救われました」という高森会長への手紙は一面扱いです。一般紙でいえば、いわゆるトップ記事扱いというわけです。普通の新聞記事でもそうですが、トップ記事というのは珍しいことが起きた時、読者が驚くようなことが掲載されます。それだけ「大悲の願船に乗せていただいた」というのは、親鸞会では数年に一人あらわれるかどうかの希少なことなのです。


それでも、親鸞会会員であれば一面扱いでその信心にお墨付きを与えています。どうも親鸞会では、真実信心か否かの分かれ目は「親鸞会会員であるか否か」にあるようです。
実際、私が親鸞会にいたころは、親鸞会会員以外で信心決定した人は世界中を探してもいないと本気で思っていましたし、多くの会員は今でもそう思っています。


なぜなら、親鸞会では「高森顕徹会長の話を直接聞かねば救われない」ということになっているからです。その為に、どんな犠牲を払ってでも、富山県親鸞会館まで高森顕徹会長の話を聞きに会員は足を運んでいます。


ところが、今回の顕正新聞の一面の内容を見ると、親鸞会は大きくその「高森顕徹会長の話親鸞会館で直接聞かねば救われない」の方針を転換した(又は今後する予定)ようです。


今回のブラジル在住の会員の方は、日本語が聞き取れない方であり、富山に足を運んで直接高森顕徹会長の話を直接聞くことが難しい環境にあります。それにも関わらず、映画『なぜ生きる』を見て、その解説をネット中継で通訳を介して聞いていったら救われたというのですから、日本の会員にあてはめるならば、「富山に行かなくても救われるんだ」と機関紙の一面に書いているようなものです。別の言い方をすると、映画「なぜ生きる」を見て、その解説を聞けば救われるというのが今後の親鸞会の方針のようです。


最後にまとめますと、現在の親鸞会は、高森顕徹会長が今までのように毎月何回も会員に法話や座談会で話をできなくなる状況に向けて、右往左往しています。
親鸞会としては「高森顕徹会長の話を聞かねば救われない」と、今まで何十年にもわたって言い続けて来たことを今更曲げることはできません。しかし、いつかは「高森顕徹会長の話を聞かねば救われない」にも関わらず遠くない将来に「高森顕徹会長の話が聞けない」状況が発生します。そこで今後は、映画『なぜ生きる』こそ高森顕徹会長の話そのものであり、その解説を聞けば救われると会の方針を変えたのでしょう。


ここまで、読まれた親鸞会をよく知らない方は、なぜ次期会長が話をしないのだろうかと思われるかも知れません。
それは、たとえ誰が次期会長になったとしても、まともに現在の会長のように「私は救われた」前提で話ができる人がいないからです。
以前高森顕徹会長から「正しく親鸞聖人の教えを伝えれば、自分が救われていなくても人を救うことが出来る」と、当時の全講師部員は聞いていますが、それをそのまま忠実にやりきることの出来る親鸞会講師部員は一人もいません。
実はひっそりと親鸞会が終わっていた件(顕真2014年9月号より) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ
なぜならば、親鸞会講師部員の多くは、「自分は救われた」と言えるような信心がないからです。その一方で多くの講師部員は「正しく法を伝えねば」と使命感を持っています。そんな親鸞会講師部員にとって、一番辛いことは、自分自身が救われてもいないのに、「必ず救われます」と人にいうことです。


というのは、多くの講師部員は多くの犠牲を払って、それでも救われていないにも関わらず「平生業成ですからね」「現生不退ですからただ今救われます」と言い続けるからです。以前もブログに書いたことがありましたが、私の先輩講師は「自分が救われていないのに、皆さんに救われますということが一番辛い。でもそれを乗り越えないと講師部員の使命は果たせない」と言っていました。
これは、自身が実感したこともない健康食品を売り歩くセールスマンに似た精神構造です。自分がそうなったわけでもないのに「血圧が下がりますよ」「痩せますよ」「膝が痛くなくなりますよ」と言い続けるのは、まともな神経ではいられません。
なぜなら本人のなかでは、そう言うままが嘘をついていることになるからです。それは必ずストレスになり、私が親鸞会講師部員でいた10年間の間に、精神的な疲労により講師部員を辞めた人は何人も見てきました。今振り返ると、本当に真面目で繊細な人だったのだと思います。自分も含めて、多くの会員が救われない現状を知りながら「親鸞会でなければ救われない」と言い続けるのは辛いことです。親鸞会にいたころの私は「親鸞会では救われない」とは思わないものの「親鸞会に入会する人の多くは救われる」とは思っていませんでした。それでも、「少ない可能性かもしれないけれど、外に道はないのだから」という気持ちで人に親鸞会の教えを伝える活動を続けていました。

当時講師部員だった私の立場に立って見ると、「親鸞会でないと救われない」の根拠は「高森顕徹会長」でした。「高森顕徹会長の話を聞かねば救われない」というのが多くの会員の共通認識です。その高森顕徹会長が話をできなくなる時が、遠くない将来になった今、アニメ映画「なぜ生きる」に高森顕徹会長の座を引き渡そうとしているのが今の親鸞会です。

その方法は、私が親鸞会講師部員だったら現状ではそれしかないと思うかも知れません。しかし、それが会員に通用するのは高森顕徹会長の話を直接聞いた人がいる暫くの間のことです。

なぜなら、たとえば20年後に映画「なせ生きる」を見た人が、「高森顕徹(当時の)会長の話のままだよ」と言われて納得する人はいないからです。したがって、高森顕徹会長が引退したあとの親鸞会には、会員をつなぎ止める要素は「かつて高森顕徹会長の話しを聞いたことがある人」にしか通用しません。そうなると、新規に親鸞会に入会する人はあっても続ける人は決して多くはないと予想されます。

ここまで読まれた親鸞会会員の方があれば、その人に最後に一言付け加えます。貴方は、高森顕徹会長に救われたいのでしょうか?それとも、阿弥陀仏に救われたいのでしょうか?よくよく考えてみて下さい。

「捨てものは「自力の心」ただ一つ」の論説(顕正新聞平成29年8月1日号)を読んで思ったこと

顕正新聞平成29年8月1日号を読みました。一面と論説から読んで思ったことを書きます。

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一面は、シネマ学院の施工業者へのインタビューでした。どれだけ高機能な映像設備なのかが詳しく説明してありますが、まるでよい施設で視聴すると映画「なぜ生きる」の内容が正しい真宗になるかのような記事でした。

映画『なぜ生きる』の上映に特化した施設なので、その素晴らしさを最大限に引き出せる設備といえるでしょう。
(略)
一般の映画館を超えた、最高レベルの施設と考えていいと思います。
映像も音響も、日常の体験を超えた「超体験」を完成目標としているので、注文は厳しいですがすごくやりがいのある仕事ですね。
顕正新聞平成29年8月1日号1面 シネマ学院設計施工業者に聞く)

一般の映画館より更に高機能な音響施設で造られているようですが、だからといって同朋の里に上映専門施設を建てる必要は全く感じません。これまで親鸞会ではいろいろと理由をつけては、箱物を造ってきました。


例えば、親鸞会館(二千畳の正本堂)完成後の地下道は、雪の中でも駐車場から会館まで楽に会員が移動できるようにといったものでした。実情は、親鸞会館と駐車場の間に公道があり、行事日に多くの会員が横断するのが地元の住民から通行の邪魔だとの意見があったためです。そのような実情は会員には一切説明なく「会長先生が雪の中を歩く会員さんの姿を見て、参詣者が怪我をしないようにということで地下道を提案してくださった」ということになっていました。


その地下道も当時の会員の間でも、「本当に必要なのか」との声がありましたが、雨や雪の日に濡れないという実用面は多少あったのでなんとなく納得する人もいました。
その後、信心の沙汰をする同朋の里、その中にできたコンビニ、食堂、大浴場、宿泊施設等々を建設してきました。どれも、外部から見れば「どうして必要なのか」と思うようなものばかりです。それでも、いろいろ理由をつけて建設してきました。


しかし、今回のシネマ学院ばかりは、会員に対しても言い訳が立ちません。
まず、この映画「なぜ生きる」は、真宗の教えを多くの人に弘めるために作成したはずのものですから、富山県親鸞会の施設内で専門上映館があることはその目的にまったく叶いません。
加えて、現在でも地元の会場やシネマバスで上映をしている(できる)映画を、わざわざ別に上映館をつくる必要はありません。
この紙面から分かる事は映画『なぜ生きる』が最高レベルの映像、音響で見ることができることしかありません。それが果たして、会員からお布施を集めてまでしなければならないことでしょうか?

今回のシネマ学院でよくわかることは、親鸞会の箱物は「必要だから」建てているものはもはやないということです。「建てねばならないから建てている」というのが実情のようです。その理由について親鸞会は一切説明はありませんが、いずれにしろそれらの箱物の建設費用は会員が負担しなければなりません。


このような会員からお布施を募る時に、顕正新聞の論説はいつも似たような話を書きます。いわゆる「善の勧め」です。ここ最近の論説では、外部からの批判を気にしてかそれについての記事は書いてきませんでしたが、いざ箱物を建てる段になると、元通りの状態にもどります。それが親鸞会の本質といって間違いはありません。

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「雑行」の体は諸善万行だから、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ、やめよ」と誤解して、善の勧めを排斥するものが浄土真宗には非常に多いのである。
とんでもない誤りだ。
諸善に努めねば善い果報は来ない。阿弥陀仏の本願を疑って、自分の行った善を弥陀の救いに役立たせようとする「自力の心」が悪いから、雑行と嫌われ、捨てよ、と言われるのである。
顕正新聞平成29年8月1日号論説より抜粋)

これだけ読んで納得する人は、あまり多くないと思います。これを納得しているのは、論説を書いている人くらいではないかと思います。

細かくは書きませんが、「雑行、雑修、自力の心をふり捨てて」の領解文が前述の文章の前に出てきます。当然、阿弥陀仏に救われる話、一大事の後生の話が書かれている流れにも関わらず「諸善に努めねば善い果報は来ない」と突然文脈にまったく関係ない文章が入ってきます。この文章は、親鸞会が雑行の話をするときには必ずといっていいほど出てきます。しかし、繰り返しになりますが、阿弥陀仏の救いと全く関係ない話です。


つまり、この文章(諸善に努めねば善い果報は来ない)が一番今回の論説でいいたいことだということです。また、高森会長が一番いいたいことでもあります。言い換えれば、「お布施を出さねば善い果報は来ない、だからお布施を出しなさい」です。


ここまで読まれた親鸞会会員の方には思い当たるところがあるのではないでしょうか?
親鸞会で「雑行」の話を聞いた時、心に何が残ってきたでしょうか?
私が記憶している範囲では、大体以下のものでした。
「雑行捨てねばならないが、諸善をするなということではない、むしろやらないと善果はこないから頑張ろう」
「自力の心は捨てねばならないが、諸善は捨ててはならない」

阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏を聞く一つなのですが、「聞くか聞かざるか」の話が、いつの間にか「善をするか捨てるか」の話にすりかわっています。南無阿弥陀仏で往生するかしないかの話が、善果が来るか来ないかの話になっています。


結果として、親鸞会会員が常に考えていることはどうすれば善果がくるような善をすることができるかに留まったままです。
どうすれば、富山の行事に参加できるか、どうすれば推進されるお布施の金額を用意することができるか、どうすれば参詣目標に届くか。そのためには誰に声をかければいいだろうか。

そうやって、阿弥陀仏の救いと自分の善を切り離せない考えを自力の心といいます。捨てねばならないのが自力の心と論説でいうのならば、阿弥陀仏の救いと善を関係づけるような記事を掲載する親鸞会こそ捨てねばなりません。2017年08月06日(日)は親鸞会館で会員追悼法要ですが、これまでに熱心に親鸞会のいうことに従って来た人が、もし声を出せたらどんな事を語られるのか、これをご縁に我が身に引き当てて考えて見て下さい。

以前、ブログにも書きましたが、以前ある会員の方がなくなる前にこう仰っていたことを耳にしました。
その方は、大変熱心な活動を続け、親鸞会の勧めるお布施にも何時も積極的に参加していました。高齢となり、亡くなる前に「これまで五千万円財施したけど、獲信できなかった……」と言われました。
こういう話をすると、高森会長はじめとして、親鸞会の講師は「お布施をしたら助かるなどということは、一度もいった事がない!聞き間違いだ」と言ってきました。本人を目の前にしてもこんなことが言えるでしょうか?本人を目の前にして言わなくても、そういうことを口にすれば言ったも同然です。

しかし、それは聞き間違いでも何も無く、親鸞会の教えを「正確に」聞けばそうなります。
自力の心を捨てる前に、間違った教え捨てて下さい。南無阿弥陀仏は必ずただ今救って下さいます。