親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

添谷亮介親鸞会講師からの質問「与韋提等獲三忍が阿弥陀仏の救いは一念でガラリと大変わりするという根拠にならないとはどういうことか?」について

親鸞会と桜嵐坊の仏教部屋との間で動画上でのやり取りが続いています。
今回これに関連して、添谷亮介講師から私に対して質問が来たのでそれについて書きます。
動画の中ではYoutubeでの返答を求めておられるようにも取れる言い方でしたが、Youtube動画の欠点は、再生時間分の時間をかけないと全部を見る事ができない点です。その点文章の場合は同じものを作成しても時間はかかりませんので、ブログに文章として返事を書きます。

目次

添谷講師の質問と、質問に出てくる宮田の発言部分

添谷講師の動画も長時間なので、質問部分と回答だけ先に書きます。

35:58〜
(添谷講師発言)
与韋提等獲三忍というのが信一念のことではないとか、ガラリと大変わりする根拠にならないと言う事を言われたいならば、じゃあ、与韋提等獲三忍はいつのことなのか、信一念のことでないというのならばその根拠を示して頂きたいですし、三忍を獲るというのが大きく変わるものではないと仰るならば、それなりのお聖教の根拠を示しそれを論じて頂かないと、ただ何かネガティブキャンペーン親鸞会の人は教学聖典しか学ばずに語っているようなことを仰らずに(略)
桜嵐坊の仏教部屋に言いたいことがあります - YouTubeより

この質問になった元の動画は、以下の箇所です。

25:58〜
(宮田発言)
親鸞会Youtubeで)法蔵館真宗聖典の何ページにこれこれがあるみたいな感じで話はしているんですけども、ただ実際ですね、やっぱり親鸞会に於いての真宗聖典というか本当のお聖教というのはあの教学聖典なんですよ。

教学聖典って会員の人は知ってるんですけど、あの青い短冊のあれなんですね。実はさっき言いましたように私たちにはお聖教を読む力はないのだと、だから会員で熱心な人は、一応法蔵館真宗聖典を買ってもっているし、20年以上前の会員だったら結構、線を引いているんです。ただあの線を引いている場所ってどこかというと教学聖典に載っている根拠だけなんですね。

だから教学聖典に載っているものしか読んでないに等しいんですね。そうなると、あの問いと答えがワンセットになっているので、例えば救われたらハッキリするという根拠を三つ書けみたいな問いがあったら、そういう根拠が出てくるんですね。
そうなるとあのご文はこう言う意味って言う風に逆に頭に擦り込まれちゃう訳なんですね。

今回の議論でも例えば、獲信見敬大慶喜とあるではないか、与韋提等獲三忍とあるではないかとか、三忍とはこういう意味だという言い方が全部教学聖典なんです。だからそれ以外の解釈が入る余地がないのですから、親鸞会聖典っていのは実は教学聖典という短冊以外にないというのが親鸞会の実態なんだろうと思います。
元親鸞会さん「勝手に同窓会」 - YouTubeより

添谷講師の質問に対する回答

最初に結論だけ書きます。

問1.与韋提等獲三忍はガラリと大変わりする根拠にならない。

→答え、三忍を獲る=ガラリと大変わりすると親鸞会が想定することと同じではないので根拠になりません。

問2.与韋提等獲三忍はいつのことなのか?信一念のことでないというのならば根拠はどこか?

→答え、与韋提等獲三忍は信一念のことです。

問3.三忍を獲るというのが大きく変わるものではないという根拠はどれか?

→答え、すでに動画に出ているご文が根拠です。

惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。『経』(涅槃経・迦葉品)には、「われ十住の菩薩、少分仏性を見ると説く」とのたまへり。ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。また『経』(同・迦葉品)には「衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得」とのたまへり。
浄土真宗本願寺派総合研究所. 浄土真宗聖典(註釈版第二版) (p.371)・ 法蔵館P434)

(現代語版)
煩悩にまみれた衆生は、この世界では仏性を見る事ができない。それは煩悩におおわれているからである。『涅槃経』には「わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説く」と説かれている。このようなわけで知る事ができる。それは阿弥陀仏の本願力の回向によるからである。また『涅槃経』には「衆生は未来に法性にかなった清浄の身となって、仏性を見ることができる」と説かれてる。(顕浄土真実教行証文類 (現代語版)

これはこちらの動画で解説されています。
「菊谷さん達の間違い」本当の観無量寿経 - YouTube(44:31〜再生)
「菊谷さん達の間違い」本当の二河白道 - YouTube(21:27〜再生)


これは、添谷講師もすでに動画を見ているとの事です。それでもこのご文の意味がよく理解できなかったことだと思います。
文字でもう少し解説を加えます。

真仏土巻の「惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに」ついて追加解説

惑染の衆生、ここに性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。

最初の「惑染」というのは、「惑」は無明、「染」は煩悩です。
「ここに」とは娑婆世界のことです。
「性」とは仏性のことです。
無明煩悩に覆われた私は、この娑婆世界では仏性を見る事はできません。それは煩悩に覆われているからです。
ここで「見る」というのは、ただ目で見るということではなく、体得するという意味です。仏性を私たちははっきりと目の当たりに確認する事はできないと言われています。

『経』(涅槃経・迦葉品)には、「われ十住の菩薩、少分仏性を見ると説く」とのたまへり。

「十住の菩薩」というのは「十地の菩薩」のことです。菩薩で言えば最高位(その上は等覚)の菩薩でも、少ししか仏性を見る事はできないと涅槃経に説かれています。
ここでも「見る」とありますが、仏性を見る事と言っても二種類有ると言われてます。それが「眼見」と「聞見」です。

それぞれ浄土真宗辞典から引用します。

げんけん 眼見
聞見に対する語。目で直接そのものを見ること。『涅槃経』には「善男子、見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。諸仏世尊は眼に仏性を見そなはす、掌のうちにおいて阿摩勒菓を観ずるがごとし」(真仏土巻引文・註356)と説かれている。

もんけん 聞見
眼見に対する語。耳でそのことを聞いて知ること。『涅槃経』には『一切衆生、乃至九地までに、仏性を聞見す」(真仏土巻引文・註558)とある。

十地の菩薩が「仏性を見る」というのは、智慧によって目で直接仏を見ることですが、見ると言っても少ししか見ることはできません。煩悩に覆われた凡夫から、九地の菩薩までは「仏性を見る」といってもそれは「聞見」のことです。

聞見とは、耳で聞くことですから仏の教えを聞いて信ずるということです。親鸞会の人が好きな「信知」とはこのことです。ですから「三忍を獲る」と言っても、「眼見」のようなことはなく、「聞見」ということです。仏の教説を聞いて信じた、信知したと言うことを指しています。

これを親鸞会の人は「ガラリと変わる」と表現します。ただ親鸞会にいた人間からすると「ガラリと変わる」「大変わりする」と言っているのは、どうしても「眼見」であるかのようなイメージをもっていると感じます。添谷講師が、いう「ガラリと変わる」が違う意味ならまた教えてください。

ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。

「顕す」は、「顕現」ということです。
そのように煩悩によって目の当たりに仏性を見ることができない私ですが、本願力の回向によって浄土に往生すると必ず仏性が顕現すると言われています。
「到れば、かならず」ですから、今は顕現していないということです。またここでは「到らば」と読まずに「到れば」と読まれています。未来の事だが必然のことと仏性が顕現するとだと言われています。

また『経』(同・迦葉品)には「衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得」とのたまへり。

涅槃経に、私は未来に浄土に往生し煩悩を完全に除いた清浄な身となり仏性を見ることが出来ると言われています。
ここで「未来に」とあるので「今は」見ることができないということです。

以上が、ご文の追加説明です。

三忍について

韋提希と等しく三忍を獲る」というのは、「他力の信心を獲る」ことです。
観無量寿経では「無生忍」とありますが、意味は浄土真宗辞典では以下の通りです。

むしょうぼうにん 無生法忍
(略)無生忍ともいう。真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさとること。親鸞は、無生忍を喜・悟・信の三忍の徳義を有する他力信心のこととする。(略)

さんにん 三忍
他力信心(無生法忍)にそなわる三つの徳義。
①喜忍(歓喜の思い。法を聞き、安心してよろこぶ心)、
②悟忍(仏智を領得すること。真実のいわれをはっきり知る心)、
③信忍(仏力を信じること。本願を疑いなく信じる心)の三。

ここで、三忍を獲ると「ガラリと変わる」と親鸞会ではいいます。
「変わる」という点については、私も異論はありません。

しかし、「三忍を獲る」=「ガラリと変わる」については同意しません。

なぜならこの「ガラリと変わる」は、映画「なぜ生きる」に出てくるセリフが元になっているからです。

「ガラリと変わる」≠「三忍を獲る」

映画「なぜ生きる」では、蓮如上人の説法の場面に以下のセリフが出てきます。

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる(「なぜ生きるシナリオブック42ページ)」

また、これの意味についての質問が二千畳Q&Aで高森会長が解説をしました。このビデオも繰り返し上映、配信されています。おそらく教学聖典以上に現役会員の頭につよく刷り込まれている部分です。

実際添谷講師だけでなく、渡部隆志弘宣局長、菊谷講師、筬島さんも動画の中で「救われたらガラリと変わる」「信心をえたらガラリと変わる」と繰り返し言っています。

先に私は「変わる」ことには異論はないけれども「ガラリと変わる」には同意できないと言ったのは、元のセリフに問題があるからです。

詳しくは以前書いた記事があるのでこちらも参照して下さい。
映画「なぜ生きる」の「苦しみの人生がガラリと変わる」について質問しても意味がない理由 (2017年11月12日高森顕徹会長座談会より) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ
こちらの記事にも書きましたが、2017年以来現在に至るまで6年間繰り返し会員は映画「なぜ生きる」とこの解説をした高森会長のビデオを見てきました。

言葉に出さなくても「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」と、あたかも煩悩が減るかのようなイメージを持っているのではないでしょうか?

親鸞会講師の主張する動画と、かつて私が親鸞会にいた頃の印象と、これまで会ったことのある元会員から聞く限りは、「ガラリと変わる」は「絶対の幸福」以外の何物でもありません。


三忍を獲るとは、先に書いた言葉を使えば「聞見」のことです。教えを聞き、教えの言葉を信知したことを言います。
教えの言葉は、大無量寿経であり、南無阿弥陀仏の六字となって私が称え聞く形となって回向されています。真実のいわれをはっきり知るといっても、本願を疑いなく信じるといっても、聞いているのは南無阿弥陀仏の外にはありません。


それ以外に何か別のものを想像して「ガラリと変わるのだ」というのは信心とはいいません。

何を聞いてガラリと変わると思われているのかは知りません。既に「救われた」と言っている講師が何を見て何を聞いてそう言っているのかも分かりません。

少なくとも、「私は救われた」と言っていない添谷講師だけでもお聖教に向き合ってよく考えてみてください。
この記事でも紹介した浄土真宗辞典は手元において逐一調べることをお勧めします。

添谷講師のYoutubeにコメントで書きました。


2024/05/12 19:32:44