2018年12月9日(日)親鸞会館(富山県射水市)で、高森顕徹会長の法話が行われていました。
今回は、
「映画『なぜ生きる』で、自ら命を投げ出した了顕を見ると、命よりも大切なものがあるように感じました。仏教では、なぜ人の命は尊いと教えられるのでしょうか。」
という演題(質問)についての話でした。
これを聞いて、今までの同じ質問とは違う話が出てきたことに驚きました。
しかし、今回は医療法人真生会富山病院が施主となっての追悼法要だったと聞くとなんとなく分かります。追悼法要というのは、以前急死された前院長の追悼法要から始まり、現在に至るものです。医療関係に携わっている人が(主に会員ではない職員、業者)が参加するからです。
話の内容については、すでに以下のブログで書かれています。
hiun.cocolog-nifty.com
shingikensho.blog12.fc2.com
今回の話の要約
大体の話は要約すると以下のようになります。
人命は地球よりも重いといわれるが、了顕は命を投げ出して教行信証を護ったのはなぜか?
人命の重さを説かれたのが、「盲亀浮木の譬」
源信僧都の横川法語には、こうある。まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや。家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。
映画「なぜ生きる」では、生まれるとは泳ぎ方を知らずに大海原に投げ出されるようなもの。
「どう生きるか」も大事だが、もっと大事なのは「なぜ生きる」それを教えられたのが仏教。
南無阿弥陀仏には私たちを絶対の幸福にする働きがある。
御文章5帖9通にはこのゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。
御文章5帖13通には
それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。
と書かれている。
その南無阿弥陀仏を諸仏が勧めておられるのが阿弥陀経の六方諸仏の証誠。利他の信楽うるひとは
願に相応するゆえに
教と仏語にしたがえば
外の雑縁さらになし利他の信楽うるとは、絶対の幸福になったということ。
それまで重ねて聞いて下さい。
了顕は、生きる目的を伝えるための教行信証の為に命を投げ出した。
今回は、あえて長めに話の要約を書いてみました。それは、そうしないとおそらく参加者はどんな話だったかは思い出せないからです。これは、私が親鸞会に在籍したころの経験からいえることです。
なぜ高森顕徹会長の話は頭にも心にも残らないのか?
学生時代から親鸞会に入会した私は、高森顕徹会長の法話を自分で記録として残す「聴聞録」というのをつけていました。講師部に進むにあたって入った「顕真学院」では、その聴聞録を毎回作成提出することが、カリキュラムの一つとなっていました。また、講師部になって聴聞録は上司に提出することになっていました。
しかし、この聴聞録というのはなかなかの難関でした。というのは、ほぼその日に相当メモを書き込んで翌日に書き上げないと作成するのはほぼ不可能だからです。
高森顕徹会長の話の特徴として、2日経つとほぼ何の話だったか記憶に残らないというのがあります。私は当時は、「真剣に聞いていなかったからだ」と思っていましたが、今はそうではないということがよく分かります。当時も自分なりに真剣に聞いていましたが、なぜそんなに頭に残らないのかといえば、実は高森顕徹会長の話には参詣者に「ここ一つ分かってもらいたい」ということがないからです。あるのは、「また来て下さい」以外にありません。
参照
今回も多くの会員の頭に残ったのは、質問の文字と、それに関係した「了顕が命を投げ出して護った教行信証には『なぜ生きる』が書かれている」くらいだと思います。それと「そこまで聞きなさい」です。
今年の高森顕徹会長の話を振り返る
南無阿弥陀仏の話は出ているものの、御文章と阿弥陀経を出してそれらしくしていても、実のところは具体的な話はなにもしていません。
私が、親鸞会にいたころもそうですが、高森顕徹会長は「南無阿弥陀仏」の話をあまりしません。たまにしても、今回のようにご文は出してもほぼ説明はありません。
ちなみに2018年(平成30年)で高森顕徹会長が南無阿弥陀仏について話をしたのはいつかと振り返って見ます。
- 1月 聞其名号とはいっても「聞」だけで名号の説明はなし
- 5月 降誕会 三通りの念仏と話すものの念仏そのものの話はなし
- 8月 追悼法要 南無阿弥陀仏と出ても、あまり詳しい説明はなし
- 7月 三通りの念仏というも同上
- 10月 報恩講(歎異抄をひらく10周年・親鸞会結成60周年)あまり詳しい説明はなし
- 12月 真生会追悼法要 あまり詳しい説明はなし
御覧のように、南無阿弥陀仏について話をしたとしてもあまり詳しく説明はなく、かつ話をしているのが「降誕会」「追悼法要」「報恩講」「真生会追悼法要」と、初めて会館に来る人が多い法座に集中しているのが特徴です。
それはなぜかといえば「宗教法人浄土真宗親鸞会」が、「親鸞聖人の教えを伝えている団体」だと思って貰うためです。しかし、ここまで読まれた会員の方や、元会員の方はよく知っておられる通り、実際の高森顕徹会長の「会員向けの話」に南無阿弥陀仏はほとんどありません。かつてあった高森顕徹会長の「教学講義」で南無阿弥陀仏のいわれの話を聞いたことはほぼありません。
まとめ
南無阿弥陀仏の話がないということは、信心の話もしていないのと同じです。
信心の話をしないということは、「みなみな信心決定あれかし」と思っていないということです。
最後に、御一代記聞書を紹介します。これを読まれて、高森顕徹会長の話に違和感を感じた人は、親鸞会を離れることをお勧めします。
一 法敬坊、安心のとほりばかり讃嘆するひとなり。「言南無者」(玄義分 三二五)の釈をば、いつもはづさず引く人なり。それさへ、さしよせて申せと、蓮如上人御掟候ふなり。ことばすくなに安心のとほり申せと御掟なり。(御一代記聞書60 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1251)
https://bit.ly/2LkbGes
(現代語版)
法敬坊は、善導大師の六字釈をいつも必ず引用し、安心のことだけを語り聞かせる人でありました。それでさえ蓮如上人は、「もっと短くまとめて話しなさい」と仰せになるのでした。これは、言葉を少なくして安心のかなめを語り聞かせなさいとの仰せです。
富山県から距離の離れた人は、かなりの時間と労力を使って親鸞会館に足を運んでいますが、「安心のとほり(かなめ)」はあったでしょうか?参加された方の話を聞く限り今年一年を振り返っても、ほぼなかったと思います。
毎月2回、午前午後と話をして「安心のとほり(かなめ)」の話がないのは、これは話す人の能力ではなく、意思の問題です。話す気がないから、信心のことも南無阿弥陀仏のことも話がないのです。
ここまで読まれた会員の方は、今年一年の高森顕徹会長の話のメモを読み直して見て下さい。安心のかなめがないことに気がつかれると思います。