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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

微塵劫かかっても救われないのが親鸞聖人の教えという静かな劇場管理人

真実と方便 善のすすめ 静かな劇場

宗教法人浄土真宗親鸞会弘宣局担当講師作成の静かな劇場が更新されていました。エントリーを書いて、コメントをしても一切スルーされているの読んでいないのかと思えば、どうも読んでいたようです。

とりあえずこちらのエントリーを読んでいないことにしているので、反論をしなくてよいという考えなのだと思います。前回のこちらのエントリーに対する反論はなく、話題を変えてきました。

今回の「静かな劇場」は「善のすすめ」の話でした。こちらが「善のすすめ」について言及しないのに、話題をそちらにもってきたのですからよほど言いたいことなのでしょう。

「善のすすめ」に関しては、これまでネット上でいろいろと議論されてきたことなので、詳しいことは文末の参照リンクをごらんください。

今回は、エントリーの文脈について目に付くところについてエントリーを書きます。
今回のエントリーで「静かな劇場」が主張したいところは、要約すると以下のようになると思われます。(そんなことを書いていないと主張されるならば反論をお願いします。)
「思われる」と書いたのは、文章そのものが論理展開に無理が有るので、元親鸞会にいた人間だから推測できるからです。おそらく親鸞会と全く縁のなかった一般の真宗の方には、今回の「静かな劇場」エントリーを読んでも何を言いたいのか分からないと思います。

「弥陀の救い」一つ説かれた釈迦の教えに、親鸞聖人の教え
に、「善のすすめ」は厳然としてあります。
ただしそれは、善をすれば無碍の一道に出られるということで
はないのです。なぜならば、阿弥陀仏が18願で約束しておら
れることは、これこれこういうことが出来る者は救うという
条件付きの救いではないからです。

ならば、なぜ善がすすめられるのか?という疑問は、我々凡夫
の頭では当然、おきてくることですが、
「唯説弥陀本願海」と、弥陀の救い一つが教えられている
仏教に、親鸞聖人のみ教えに、弥陀の救いと無関係、もしくは
妨げとなるようなことが説かれる道理もないのです

仏教に、親鸞聖人の教えに、善が勧められている真意を理解し
得なかった人が、今日の正統派を名乗る教団の中枢を占めて
おり、ネット上で非難している人々もまた、そこに誤解がある
のだと思われます。
唯説弥陀本願海 - 静かな劇場)

http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/549610ff732a9255a3544c80878b583d

まとめますと

  1. 仏教に「善の勧めはある」
  2. 18願に「善をしたら助かる」という条件はない(すなわち善の勧めはない)
  3. しかし、弥陀の救いと関係ないこと(善の勧め)を説かれる道理がない←妄想
  4. 親鸞聖人の教えに、善が勧められている真意を理解しているものは少ない。
  5. その「真意」を私は知っているけれど書かない。

まとめてみても、何を言っているのかわからないエントリーだと分かります。
さらにまとめて一言で言えば
18願に善の勧めはないけれど、仏教に善の勧めが有るから関係あるはずという「自見の覚悟」でものを言っているだけということになります。

どうしても善をしないことには、救われないと固執する人にたいして親鸞聖人はご和讃で

(67)
自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

(68)
仏智不思議をうたがひて
 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば
 大慈大悲はえざりけり(正像末和讃_誡疑讃)

と戒められています。この親鸞聖人のお言葉は全く無視するということですね。

重ねていえば、今回静かな劇場のエントリーで最初に出してきた根拠は正信偈ですが、正信偈の中に「善の勧め」はどこにあるのでしょうか?何度も拝読していますが、私は一度も見たことがありません。

万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。

http://6pu.fx.sl.pt

と、親鸞聖人が書かれていることとの整合性はどうやってとるのでしょうか?

そもそも論として「善の勧め」の「善」が何を意味するのか意味不明です。仏教で言う善といえば、「戒律」も善なのですが、親鸞聖人は肉食妻帯されているのは、「戒律以外の善」を勧められているということでしょうか?親鸞会は会長を始めとして静かな劇場さんも肉食妻帯されていますが、これは「善の勧め」に反しないのでしょうか?
よもや「親鸞会への献金」「高森会長の指示を聞く」ことをもって「善をしている」とでもいうつもりですか?

最後に、

「微塵劫を超過すれども、仏願力には帰しがたく、大信海には
 入りがたし」(教行信証
(略)
「30年聞いていて、まだ助からないのか!」とお叱りを受け
ていたそうですが、「善のすすめ」の真意を、多少なりとも知
らされた側からすれば、そういう人たちに「善のすすめ」の
真意を伝え、理解させることこそ、とても30年ではすみそう
もない難事業と、しみじみ覚悟させられているのです。(唯説弥陀本願海 - 静かな劇場

http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/549610ff732a9255a3544c80878b583d

と書かれていますが、親鸞聖人のお言葉を、自分が助からないことの言い訳に使うのは、聖人の御心に反します。

静かな劇場さんも、知っていると思いますが上記のお言葉は、教行信証化身土文類の「真門決釈」に出てくるご文です。親鸞聖人が、同じ浄土門の自力念仏を称えて臨終来迎を期待する人たちに向けて非常に厳しく戒められているご文です。

前後を含めて紹介します。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(教行信証化身土文類_真門決釈)
(現代文)

  • 悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。
http://1zg.gc.sl.pt

静かな劇場さん、あなたは自分で「微塵劫たっても救われないのが親鸞聖人の教え」と書いているのです。あなたは、自分自身で親鸞聖人の教えを破壊していることに気がつかないのでしょうか?

自分自身が「微塵劫たっても救われない」と思うのは勝手ですが、それは阿弥陀仏の本願に反することです。阿弥陀仏はただ今救うと正覚をかけて誓われているのです。

ついでに書きますが、貴方の後生を心配しているのは阿弥陀仏だけです。そのビルの3階であなたの後生を本気で心配している人が誰か一人でもありますか?少なくとも私は、親鸞会弘宣部にいたころに私の後生を心配してくれた人に会ったことはありません。

いつから阿弥陀仏に救われることを諦めたんでしょうか?貴方にも「今日こそ信心決定するぞ」と思って聴聞したことはあるはずです。自分勝手に諦めたら阿弥陀仏に申し訳ないことです。

参照リンク

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