親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「嘆かわしい」というばかりで何も中身がない静かな劇場

宗教法人浄土真宗親鸞会弘宣局担当講師作成の静かな劇場が更新されていました。

善の勧めについて続けて書いていますが、読んでもよくわかりません。なぜ分からないのかというと、

  1. 何も主張をしていないから
  2. 静かな劇場が根拠として出しているお聖教のご文が、前後の文章の根拠にならないから

の2点です。

1.何も主張していないから

静かな劇場の今回のエントリーの結論は以下のものです。

もちろん、我々のやる善で救われるとは、どなたも仰っていな
いが、善のすすめを嫌い、排斥するような仏教がどこにあろう。
(方便を悪しということは有るまじき - 静かな劇場

http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/758cdd5e8430ed666bdce6a411d2fcd8

繰り返し書いていますが、中身をいえば二つになります。

  • A.我々のやる善で救われるとはどのお聖教にもない
  • B.仏教に善の勧めが有る。

(A)については、私が「我々のやる善で救われる」と主張していれば意味の有る発言ですが、私もそんなことは一度も主張したことはありません。よって主張が食い違わないことをわざわざ書くのは意味のないことです。同じなら「この点については同意します」とでも書くのが普通です。

(B)についても、「仏教に善の勧めが有る」は、静かな劇場さんから言い始めたことですが、私もそれを否定したことはありません。
 私だけでなく、多くの人の主張は「阿弥陀仏に救われる為に善をせよと勧められた親鸞聖人の教えはない」です。それについての反論になっていませんので何も主張していないことになります。

2.静かな劇場さんが根拠として出しているお聖教のご文が、前後の文章の根拠にならないから

これについては全部といってもいいので最初の部分だけ説明します.

私たちを真実に導き入れるには、絶対に必要不可欠な
のが、仏教の方便といわれるものです。

「釈迦・弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり」(高僧和讃

釈迦・弥陀は、慈悲深い父母である。
私たちに無上の信心(真実信心)を発起させるために、
どんなに種々のご苦労(善巧方便)なされたことか。
(方便を悪しということは有るまじき - 静かな劇場

方便にも「善巧方便」「権仮方便」とあります。そのことについては一切言及していません。
善巧方便とは、仏・菩薩が衆生をさとりに導くためにの巧みな手だてをいいます。

権仮方便とは、真実に入らせるために仮に設けた法門のこと。この権仮方便は、暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法といわれ、真実に入ると不要となり、廃されるものです。こんかいの静かな劇場でもでてきた19願の方便とはこの権仮方便になります。阿弥陀仏の本願力一つで救われるほうが18願ですが、その18願が真実だと認められない人のために仮に設けられた願ですが、18願によらねば救われないと分かった人には不要なものです。

上記のご和讃は、「善巧方便」のことですから、「無上の信心を発起せしめ」るために、阿弥陀如来とお釈迦さまがなされる善巧方便とはなにかといえば、阿弥陀仏の成就なされた南無阿弥陀仏と、その南無阿弥陀仏を勧められたお釈迦さまの教えです.
二河白道の譬えでいえば、西岸上から呼ばれる阿弥陀仏の大悲招喚の勅命であり、東岸からのお釈迦さまの発遣の声です。

どちらも「親鸞会で言う善のすすめ」ではありません。

次に、

私たちは弥陀・釈迦の種々の善巧方便がなければ、
絶対に無碍の一道(真実)へは出られないのです。

蓮如上人仰せられ候、『方便を悪しということは有る
間敷なり。方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく
知るべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真
実の信をば獲ることなる』由、仰せられ候と云々」
                  (御一代記聞書)
蓮如上人が仰せになった。
「方便など要らないなどとは、言語道断、言うべきこと
ではない。恐ろしい大法謗である。方便からしか真実に
入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていな
いのだ。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によってこそ、
私たちは弥陀の救いに値う(真実の信心を獲る)ことが
できるのである」

蓮如上人もまた、弥陀、釈尊、善知識方の種々のご方便
がなければ、私たちは絶対に真実の信心を獲て無碍の一
道に出ることはできないと仰っています。
(方便を悪しということは有るまじき - 静かな劇場

こちらの御一代記聞書にでてくる最初の「方便を以て真実を表す廃立の義」の「方便」は「権仮方便」です。後半は「善巧方便」とあるのでそのまま善巧方便です。しかし、意図的に、現代文を変えて、「権仮方便」を意味する「方便」を善巧方便とよませようとしています。

参考に、一般の現代文を紹介します.

(上記御一代記聞書の現代文)
蓮如上人は、「方便を悪いということはあってはならない。
方便によって真実が顕され、真実が明らかになれば方便は廃されるのである。
方便は真実に導く手だてであることを十分に心得なければならない。
阿弥陀如来・釈尊・よき師の巧みな手だてによって、わたしたちは真実の信心を得させていただくのである」と仰せになりました。

http://6re.g5.sl.pt


現代語を比較するために、特に違うところをあげると

方便を以て真実を顕わす廃立の義

静かな劇場では

方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教え

一般の現代文では

方便によって真実が顕され、真実が明らかになれば方便は廃されるのである。

となります。現代文では「方便は廃される」ですが、静かな劇場では「方便からしか真実に入られぬ」ですから全く違います.


静かな劇場では、権仮方便の意味を「方便からしか真実に入れぬ」といい、方便を「真実に入るためのはしごや階段」のように説明しているので間違いです。最後は廃されるのが権仮方便ですから、はしごや階段のようなものではありません。

まとめますと、最後は廃する「権仮方便」を「真実に入るために必要不可欠だ」と主張するために上記のご文を使っても根拠にはなりません。都合の悪いところは日本誤訳でごまかそうとしても通用しません。

最後に静かな劇場さんに言いたいことは、ご自身で「顕正新聞」をつくっているなら、「顕正」してください。貴方のエントリーは「お前は間違い」しか書いていません。何によって、阿弥陀仏に平生救われると親鸞聖人は言われているか、全く聞いたことがないのでしょうか?「顕正」するのは、そこですが、静かな劇場を読んでもどこにもそれはありません。

「何にも分からんものばかりだ。嘆かわしい」と、自分のためにも人のためにもならないこと言って一生終わる気ですか?
もう一つは、お聖教の現代文に高森会長の作文を使うのはやめたほうがいいです。間違っていますから。

仏の深遠な方便の真意が、そうそう容易く分かるものではあるまい。(方便を悪しということは有るまじき - 静かな劇場

と結論に書いているのは、「私は親鸞聖人の教えも阿弥陀仏の本願も知りません」と書いていることになるのですが、自覚がないのでしょうか?何回もエントリーを書いていますが、一貫して貴方が書いていることは、本願力回向の否定であり、平生業成の否定以外のなにものでもありません。


ただ今救う本願力は、あなたを避けて通っているはずはありません。助からない本願と勝手に決めるのは、阿弥陀仏にも親鸞聖人も失礼なことです。