親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会での「二河白道の譬え」が原文と違うところ(顕真2021年5月号を読んで)

親鸞会機関誌・顕真2021年(令和三年)5月号を読みました。

学生大会(3月7日)では、善導大師の「二河白道の譬え」(47ページ参照)についてご教導いただきました。法友の手紙を紹介しましょう。( 同P42)

この学生大会も、高森会長の過去の法話のビデオ上映でした。昨年の途中から、過去の録画上映についても会員は高森会長にお礼状を出し、それを機関誌に「法友通信」として掲載をしています。

その内容で少し気になった所と、会の中で二河白道の譬えがどのように教えられているかを紹介します。

「法友通信」より抜粋

なぜ大心海化現と絶賛なされたか 講師部S
(略)
弥陀が19願を建てられた御心は、18願真実へ出させるためとハッキリ知っておられたからこそ、真剣な聞法によって知らされることを、善導大師は二河白道の譬喩で教えられました。

進まねばならない理由がある 富山県Y
(略)
仏教の根幹である因果の道理を聞き、廃悪修善を実践して初めて二河にぶつかります。聞き始めた頃は。聞法心である「白道」が太いものに思えますが、聞かせて頂いたとおり実践しようとすると、欲の河と怒りの河に白道は覆い隠され、いかに弱い聞法心か知らされます。
その中、白道を進ませて頂けるのは、釈迦弥陀二尊のおかげとお聞きし、大変なご恩を受けているのだと感じました。

いつの時代も群賊は現れ出る 講師部M
(略)
救いを焦る人に、甘い声で誘ってきます。
それらを振り切って、白道を進ませて頂けるのは、ひたすら「一向専念無量寿仏」を叫ばれる善知識のご教導と、「来いよ、来いよ」と呼ばれる弥陀のものすごいご念力によるのだと聞かせて頂きました。

(太字原文ママ

白道」について

上記紹介した「法友通信」では「白道」は、「聞法心」であり自ら進んでいくものとして書かれています。これは高森会長の話を聞いた上でのお礼状なので、そのように参加者は聞いているということです。

実際、顕真ではその後に解説として以下のように書かれています。

白道」は、聞法心(弥陀の救いを求める心)を譬えたものだが、求める心があっても微弱だから四五寸の細い道と、説く。
(同 P48)

比較として、浄土真宗辞典では以下のように書かれています。

白道は浄土往生を願う清浄の信心であり、同時にまた阿弥陀仏の本願力をあらわす。(浄土真宗辞典 P512)

白道」について言い換えると、親鸞会では自ら進む道であり、自分の聞法心、浄土真宗辞典では、他力信心であり、本願力と書かれいます。

ここが大きな違いの一つです。
親鸞会では二河白道の譬えは、会員自身がこのような心の道を通って進んでいき阿弥陀仏に救われると教えています。私もそのように聞いていました。

自分の弱い聞法心を叱咤激励するのが「善知識」であり、その白道というのも「廃悪修善」を実行しなければ見えてこないと教えられ、一生懸命に会が推進する「善いこと」を実践します。しかし、譬えそのものがそういう意味ではないことは、浄土真宗辞典の短い解説を読んでもよく分かります。*1

「三定死」について

親鸞会では、二河白道の譬えはどのようなものとされているかは、以下の画像をご覧下さい。

f:id:yamamoya:20210811142227j:plain
顕真2021年5月号より「二河白道の譬」

いろいろと違う点はこのエントリーの最後に出ている浄土真宗辞典の文章と比べてみると分かります。

その中でも一番会員に影響が大きな違いは「三定死」についてです。
親鸞会では、「白道」を行きつ戻りつしながら前進した先に、やがて行き着く絶体絶命の境地とされています。
浄土真宗辞典では、二河を前にして、後ろから迫ってくる群賊悪獣から逃れることもできない状態で「行くも帰るもとどまるも、どれ一つとして死を免れることができない」と知ったこととして書かれています。その三定死から、白道を進もうとした時に東の岸から勧める声が、西の岸から喚び声がするのが元々の二河白道の譬えです。


言い換えると、親鸞会で心身ともに限界まで突き進んで「もうだめだ」(三定死)を迎えないと、阿弥陀仏の喚び声を聞くことはできません。本来の二河白道の譬えでは、すでに私がいる今のままが仏様からご覧になれば「三定死」なのです。

ですから、親鸞会では「三定死」もここではないどこか未来の話であり、阿弥陀仏の喚び声もここではない未来の話になってしまいます。そして、まだ「三定死」に至らない現在の喚び声は「廃悪修善をせよ」の十九願と考えています。しかし、ただ今が「三定死」の状態にいるのですから、ただ今私に「ただちに来れ、われよくなんぢを護らん」と阿弥陀仏は呼ばれています。

まとめ

いろいろと異なる親鸞会二河白道の譬えですが、阿弥陀仏に救われるまでの道のりとして話をしているのに加えて、それぞれの説明や時系列を変えているために、「頑張らないと救われない」「いろんな意味で行き詰まるところまで行かないと救われない」という話になっています。

しかし、現在が「三定死」の状態であり、その私に阿弥陀仏は「ただちに来れ、われよくなんぢを護らん」とよびかけられます。それを一度聞き入れた上では、たとえどんな人が「その道は危険だ」と誘ってもその信心が変わることがないので、浄土に往生し、浄土往生人と会うことができるといわれたものです。

阿弥陀仏はただ今助けると呼ばれていますので、自分で作り上げた「三定死」まで進もうとしてもそんな「三定死」はやってきません。「三定死を求めることがそのまま三定死」だとよく知って下さい。遠くに救いはありません。ただ今救うと南無阿弥陀仏はよびかけられています。

*1:二河白道……ある人が西に向かって独り無人の原野を進んで行くと、にわかに水火の二河に出会う。火の河は南にあり、水の河は北にあって、河の幅はそれぞれわずかに百歩ほどてあるが、深くて底がなく、また南北に果てしなく続いている。二河の中間には一筋の白道があるが、幅四、五寸ほどでありほ水と火とが常に押し寄せている。そこに、群賊や悪獣がその人を殺そうと後ろから迫って来る。その人は、行くも帰るもとどまるも、どれ一つとして死を免れることができない(三定死)。思い切って二河の間の白道を進んで行こうと思った時、東の岸から「この道を尋ねて行け」と勧める声が、また西の岸から「ただちに来れ、われよくなんぢを護らん」と呼ぶ声がする。東の岸の群賊たちは危険だから戻れと誘うが、その声を顧みることなく、一心に疑い無く進むと西の岸に到達し、諸難を離れ善友とまみえることができたという。(浄土真宗辞典より)