前回のエントリーに続いて「なぜ生きる2」(1万年堂出版 高森顕徹著)の3章から気になるところを書きます。
今回書くのはタイトルにも書きましたが、信心決定についてなるべく触れないようになった親鸞会の現状についてです。
- 作者: 高森顕徹
- 出版社/メーカー: 1万年堂出版
- 発売日: 2013/12/10
- メディア: 単行本
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「自信教人信」と候時は、まず我が信心決定して、人にも教えて仏恩になる」(『御一代記聞書』九四)
大悲の願船に乗じたら一人でも多く弥陀の大悲を伝えることが、仏恩に報いることである。
「まことに一人なりとも、信をとるべきならば身を捨てよ」(『御一代記聞書』一一五)
一人でも大悲の願船に乗ずるならば、我がことは後にしても、弥陀の大悲を説くべきである。
「専修正行の繁昌は、遺弟の念力より成ず」(『御一代記聞書』一二二)
(なぜ生きる2 P98-P99より)
上記の部分は、現在会員の方にしてみれば特にブログに書くような箇所では無いと感じられると思います。しかし、ここの箇所は現在の親鸞会が会員に何を伝えているのかがよく分かる部分です。
この「大悲の願船に乗る」のフレーズを高森顕徹会長が多用するようになったのは、平成6年ごろだったと記憶しています。難度海に沈む私を、渡してくれる船があり、それに乗るのが人生の目的だというものです。
しかし、この本で書かれているように「信心決定=大悲の願船に乗る」と高森顕徹会長が言うのならば間違いです。親鸞会で話を聞いていると、「信心決定=(自らが命がけの努力をして)大悲の願船に乗り込む」となるからです。これでは、阿弥陀仏の方から私に喚びかけられる仰せを聞いて疑い無いという信心(他力回向)ではなく、自分の努力の結果救われる(自力回向)になってしまいます。
以前は、そのあたりは批判を受けないように機関誌には曖昧な表現にしようという努力のあとが見られましたが、最近はそうでもないようです。
その証拠に以下の顕正新聞の画像を紹介します。
(顕正新聞平成26年2月1日)
以前は、
「真実を知るものは幸いなり
真実を求めるものはなお幸いなり
真実を獲得するものは最も幸いなり」
と、高森顕徹会長が作り、会員に読ませていたものが、画像のものにかわりました。
「大悲の願船を知るものは幸いなり
大悲の願船求めるものはなお幸いなり
大悲の願船を獲得するものは最も幸いなり」
これを読んだある現役会員の方は、「やっぱり一生懸命『求めて』でないと『獲得』はないんですね」と言われていました。「真実」を「大悲の願船」にすることで、より自らがなにかしなければ救われないと思わせられたようです。しかし、それは違います。求めた先でなければ救われないのではありません。
ただ今この場で救うと喚びかけられるのが南無阿弥陀仏です。
その南無阿弥陀仏のいわれを隠して、自らが求めた結果にしか信心はないかのように会員と読者をミスリードしようとする親鸞会は、浄土真宗をなのってはならない団体です。「敗戦を終戦」「原発で爆発事故を爆発的事象」と言い換えるより悪質です。
それもこれも、高森顕徹会長が会員に信心決定はほとんどの人に出来ないことと思わせることによって、会員を活動に駆り立てるための方法に過ぎません。会員の方は、信心決定したければ、南無阿弥陀仏を聞いてください、ただ今救われます。