親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「絶対の幸福は等覚のさとりをひらくこと」のようです。会員が「絶対の幸福」に絶対になれない理由。(2019年08月18日高森顕徹会長の映画解説ビデオ)※訂正あり

追記 訂正あり。

2019年08月18日(日)の高森会長の映画解説は会長の体調不良により、過去のビデオ上映でした。
以下、記事を修正しております。(2019/09/03 追記)

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2019年08月18日(日)親鸞会館(富山県射水市)で、高森顕徹会長による映画解説がありました。は、当日にドクターストップで休みとなりました。

内容は
映画『なぜ生きる』の蓮如上人のセリフ「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」とは、どう変わるのでしょうか。」
でした。

6月23日以来、約2ヶ月ぶりの話でしたが、映画「なぜ生きる」については今回も触れずじまいでした。おそらく会員の多くは、今回こそ映画「歎異抄をひらく」の話が聞けるのだと思っていたことと思います。

しかし、内容を聞くと、映画「なぜ生きる」で多く使われている「絶対の幸福」についての高森顕徹会長の解説のようでした。それならば、質問内容は「映画『歎異抄をひらく』に出てくる絶対の幸福とはどんな意味でしょうか?」にするべきです。
とはいえ、私が以前ブログで言及した点なので、それについて取り上げて下さったことにはこの場を借りて御礼を申し上げます。

大まかに絶対の幸福を中心にまとめると今回の内容は以下のようなものです。

  • 大悲の願船とは、「難思の弘誓は 難度の海を 度する大船」といわれた阿弥陀仏の本願のこと。
  • 「乗せられると同時に」とは、阿弥陀仏の本願どおりに絶対の幸福になったこと。
  • その絶対の幸福とはさとりの51段目、等覚の身にさせるということ。
  • その、51段目のさとりになったことを親鸞聖人は、はっきりと次のように教行信証に述べていると。
  • 「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。https://bit.ly/2ZlLvxZ
  • 大悲の願船に乗せて頂くと51段目の等覚の身になる、これが「ガラリと変わる」ということ。
  • 弥勒菩薩は、等覚のさとりをひらいているが、56億7千万年後に仏のさとりをひらく。しかし、絶対の幸福になった人は、死ぬと同時に浄土に生まれ、仏のさとりをひらく。

生きている時は、弥陀の浄土に近づいていく。

あくまで伝聞なので「そんなことは言っていない」ということでしたら、また公式ホームベージに動画を公開して下さい。


しかし、参加した人には少なくともこのような話だったということを踏まえて、参加された方の話を元に書いていきます。
まず、今回の話は「絶対の幸福とは何なのか」についての、高森顕徹会長の最新の解説だったということです。
そして「絶対の幸福」について「等覚の身になる」と言っています。少なくとも、参詣者にそのように思わせようとする思惑が感じられる話でした。


出しているご文を見れば分かる事ですが「等覚の金剛心」なのは「弥勒菩薩」です。「念仏の衆生」は「横超の金剛心」です。つまり「他力信心」のことです。阿弥陀仏に救われた人が「等覚になる」といわれたものではありません。これは、等覚の弥勒菩薩は仏のさとりをひらくのに56億7千万年かかるが、他力の信心を賜った人は臨終の一念に仏のさとりをひらくと言われたものです。

現代文いま、まことに知ることができた。弥勒菩薩は等覚の金剛心を得ているから、竜華三会のときに、この上ないさとりを開くのである。念仏の衆生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開く。


等覚とは、そのまま「さとり」であって「必ず仏のさとりをひらくという位」です。親鸞聖人が、弥勒と等しいわれるのは、「必ず仏のさとりをひらく身にさせて頂く」という点であって、私が等覚のさとりをひらくといわれたものではありません。
そもそも、仏のさとりをひらくといっても弥勒菩薩と私では、ルートが違うので同じではありえません。弥勒菩薩は、自らの修行で仏のさとりをひらかれますが、私は全く南無阿弥陀仏のお力一つで仏のさとりを開かせて頂くのです。

それにも関わらず、絶対の幸福の説明では「51段」「等覚」という言葉を続けて、おそらく多くの参詣者は「絶対の幸福になるということは、51段のさとりである等覚の身になることだ」と理解したことでしょう。実際に、私も学生時代に親鸞会に入会したときにこの話を聞いたときはそのように受け止めていました。または「さすがに等覚のさとりをひらくところまではいかないまでも、今までとは違う自分にステージが一つ上がる」ように思っていました。


まさにそれが、親鸞会における高森顕徹会長の権威の源泉です。多くの会員が「絶対の幸福になった」=「等覚のさとりをひらいた」ように感じているからこそ、東大卒の講師部員や医師・弁護士・会計士・建築士からなる特選部員が高森顕徹会長に頭が上がらないのです。


しかし仮に「絶対の幸福=等覚のさとりをひらく」としても、そんな身に救う阿弥陀仏の本願はありません。そうなると、高森顕徹会長が「絶対の幸福になった」というのは、弥勒菩薩と同じような修行をしてきたのか、あるいはただの勘違いということになります。

まとめ 親鸞会会員が「絶対の幸福」になれない理由

阿弥陀仏に救われるとは、「往生さだまる」「仏となる身にさだまる」ことだけです。その一点を指して「弥勒とひとし」と親鸞聖人は言われました。

高森顕徹会長がいうように「等覚のさとりをひらく」ことが、「絶対の幸福」だとすれば、親鸞会会員のなかで誰も絶対の幸福になった人がいないのも当然です。 なぜなら、浄土真宗の教えに「生きているときに等覚のさとりをひらく」というものはないからです。その意味で、会員が「絶対の幸福(等覚のさとり)」をどれだけ望んでも、浄土真宗では絶対になることはできません。それが、会員に「絶対の幸福」になった人がいない理由です。


しかし、「絶対の幸福(等覚のさとりをひらく)」になることは、出来なくても浄土に往生し、仏のさとりをひらくことはできます。なぜなら、それこそ阿弥陀仏の本願だからです。「後生助ける」と言われる阿弥陀仏の仰せにただ今救われて下さい。