親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

インターネットが親鸞会講師の仕事の実態を明らかにした説

yugaomemo.hatenablog.com

この記事を読んで思ったことを書きます。
タイトルに書いた通りですが、インターネットの普及で明らかになったのは、親鸞会の教義の間違いだけではなく、親鸞会講師部員の仕事の大半はネットがあれば不要なものだったということです。


親鸞会は今年(2018年)から、新体制になりました。それは、各地の支部をいままで講師部員が「支部長」として担当していたところを、各地の会員の中から「支部長」を任命するというものです。それによって、今までの講師部員は「布教講師」となり、布教活動に専念するというものです。


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今年から新体制となる。われら講師部員は本来の布教戦線に突入する。2月から支部学徒から選出された親鸞学徒は一切を行うことになる。講師部員は一向専念、法施1つに命を懸けるのだ。(顕正新聞2018年1月1日号より)

一見すると、講師部員にとってよいことのように思います。しかし、親鸞会に長く居た人で現在も会員の人や元会員の人はここで思い返して見て下さい。親鸞会の歴史で、高森会長が「講師部員のため」「会員の為」といって行ったことで、本当にそうだったことは一度もないということです。

実際のところは、体の良いリストラが親鸞会講師に行われたに過ぎません。なぜ、そのようなことに踏み切ったのかと言えば、インターネット技術の発達と浸透にあります。

親鸞会講師の仕事の実情

かつて、親鸞会が各地に講師部員を派遣していた目的は、大きく4つあります。

  1. 会員の会費の徴収
  2. 日程などの会からの伝達事項を会員への伝達。機関誌の配布。
  3. 親鸞会館行事、お布施の参加推進と、参加者数、記念品、お布施の希望の取りまとめ及び会への報告
  4. 新規会員の開拓


このうち、前の3つはネットを中心とする技術発展とその浸透によって各地に講師を派遣する必要がなくなりました。
そのため、それを可能にした「学徒ネット」を開発した親友部員は、このたび「親友部賞」を受賞しています。
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(顕真2018年6月号より)


IT技術のない時代は、各地に人間を派遣しなければなりませんでしたが、それが不要となれば早々に親鸞会は講師部員の支部長を廃止しました。このようなことは、親鸞会に限らずインターネットの普及によっていたるところで起きていることです。


一例を揚げると、ネットの登場で新聞をとらなくてもニュースを読めるようになり、新聞の発行部数は激減しました。それにともない新聞の販売店(宅配)は地方では閉鎖や合併が続いています。また、Amazonなどのネット書店の台頭で各地の個人経営の書店は次々と閉店になっています。次は、DVDレンタルの店もレンタルという業態はネット配信のビデオストリーミングによって衰退していくでしょう。
このように、情報やモノが中間業者を経由せずに、会社から直接消費者に届けられるようになった結果、中間の業者は仕事を失ってきています。インターネットがもたらしたものの負の側面として語られるのは、このような大量の失業者を生み出している点です。


ネットで仕事を失う講師部員

親鸞会から情報やモノを会員まで届けるのに、また会員から親鸞会に伝達するのに講師部員の支部長を経由しなくても届けられるようになれば、各地に講師部員は不要ということです。その結果、親鸞会講師部員の多くが「支部長」から「布教講師」になったのは、時代の大きな流れに逆らえなくなったともいえます。


しかし、このことによって、親鸞会講師部員の実態が明らかになりました。私もかつて親鸞会講師部員でしたが、会員の方から聞く苦情の多くは「なぜ親鸞会講師はあんなに偉そうなのですか?」「なぜあんなに上から物を言うのですか」というものでした。


今日で言うパワハラを、講師部員から受けたという人は多いと思います。では、それがなぜ可能だったのかと言えば、答えは単純で親鸞会講師が、親鸞会からの情報や指示の川上にいたからです。
親鸞会という組織は典型的な上意下達の組織で、高森会長からの指示も、また会員から高森会長への質問も「親鸞会講師(支部長・担当講師)」を経由しないと流れては行きませんでした。かつては、「高森会長の法話予定」でさえ、支部長からでないと知ることは出来ませんでした。


しかし、今は「学徒ネット」を運用することで「会員が知りたい親鸞会情報」は「講師部員」を経由しなくても知ることができます。昔の中国で、皇帝と話をできる宦官が力をもっていたように、「高森会長の御心を聞いている、知っている」というのが講師部員が会員にもっている一つの力の源泉でした。加えて、かつては講師部員しか受講できない講師部講義と言うのもありましたが、今は講師部、特専部、親友部員、希望する幹部会員も参加できます。いわゆる「講師部員しか知り得ない高森会長の御心」というものは今の親鸞会にはありません。


その結果、現在・講師部員は布教講師となり、各地の会員から招待されることがなければ、物理的に生きていくことはできなくなりました。10年、20年前に脱会された元会員の方には想像も出来ないかもしれませんが、会員と講師部員の力関係は完全に逆転しました。


親鸞会講師部員の存在意義は?

そのような状況で講師部員が存在する意義というのは何でしょうか?私が親鸞会に在籍していた時のことを思い出すと、「(親鸞会でいう)教義に詳しい」とか「話が出来る」という点では、会員に勝っている講師というのはひいき目に見ても半分がいいところです。実際は、半分もいないのだと思います。なぜそうなったのかといえば「布教に生涯をかける」といいながら、かつての講師部員の実情は、事務処理、伝達事項、親鸞会館行事の誘いとお布施の推進だけで、ほぼ寝るヒマもありません。高森会長の著作も、それほど読む時間はありません。それより会員の方が、高森会長の著作を読んでいるのが実態です。


こういうと、会員の方のなかには、「親鸞会講師には優秀な人が多くいる」という人もおられます。私も、その点について全面的に否定はしません。しかし、その「優秀」というのは「かつて優秀だった」というのが正確です。私は大学入学をしたのは1993年です。それから、親鸞会を除名になるまで15年間、親鸞会以外の本を読んだことも、話を聞いた事もほぼありませんでした。今になって平成○年に流行した曲とかドラマといわれても、その期間は風の噂程度にしか記憶にないのが実感です。テレビ番組も新聞もほぼ見ていませんでした。当時は「高森会長が大河ドラマを見ておられる」と聞いていても、富山在住でない私は日曜の20時は高森会長の法話会場から地元への移動中で見ることは出来ませんでした。

何も無いのが実態

このような環境で10年以上いると間違いなく頭を使わなくなります。 かつて優秀だったという人も、頭脳が働かなくなります。筋肉は寝たきりになると立ち上がれなくなるといいますが、脳も筋肉と同じで使わないとどんどん衰弱していきます。10年以上使わないと、平均的な人よりも脳が働かなくなります。
日本語もわからなくなり - pontawaのブログ



そんな人に「布教せよ」といわれても、出来るわけがありません。丁度、長い間寝たきり状態にしておいて、フルマラソンを走れというよなものです。ですから、高森会長の作った原稿を覚えるか、会長の話をまねするのが関の山です。もともと「布教」が出来ない状況なのですから、会からの連絡を機械的に伝えたり、参加者数や、行事の際の弁当の数をまとめたり、会員に上からものをいうしか出来ないのが親鸞会講師部の実態でした。しかし、それも学徒ネットがあれば講師部員は必要なくなったのですから、もはや何もないのが親鸞会講師部員です。


しかし、阿弥陀仏の救いには差別はありません。妙な自尊心や自意識は捨てて、阿弥陀仏の救いを聞いて救われて下さい。