2018年(平成30年)03月11日(日)、富山県の親鸞会館で、青年学生婦人大会が行われました。
今回は、
質問「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空言・たわごと・真実あることなし」について
の話だったそうです。
当日、会場で配られたプリントは以下のようなものだったとの事でした。
内容については、すでに以下の記事に書かれています。
hiun.cocolog-nifty.com
shingikensho.blog12.fc2.com
話の内容以前に、行事としては「青年学生婦人大会」だったということに親鸞会の現状を感じました。かつては、「青年大会」「学生大会」「婦人部法話」などと別れていましたが、全部合わせて「或る程度若い人大会」としなければならないほど、若い人が少なくなったことが分かります。
今回は歎異抄についての「質問」だったとのことですが、これも一体誰が質問をしたのかは全く分かりません。少なくとも、「教学聖典」には「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空言・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とあるので、会員からならここまで含めて質問をするのが当然でしょう。高森顕徹会長の考えでこの質問になったことは想像に難くありません。
話の内容としては、煩悩についての話(欲、怒り、愚痴)が9割以上で、そんな煩悩しかない私を救うのが「阿弥陀仏の本願」というものでした。
ここで疑問になるのは、そんな内容ならばなぜ「ただ念仏のみぞまことにておはします」を省略するのだろうか?です。
「歎異抄をひらく」でも「なぜ生きる」でも、映画「なぜ生きる」でも高森顕徹会長は「念仏」という言葉をことさら使おうとしません。今回も、歎異抄の話として「煩悩具足の凡夫を救う念仏」というところを「阿弥陀仏の本願」とわざわざ言い替えて、「念仏」と言う言葉を使いません。振り返って見ると、高森顕徹会長は「念仏」という言葉を話の中で出す時は「念仏は御礼の念仏である」としかいいません。
これは自身の理解もさることながら、かつて「伝統教団の布教使は念仏のことしかいわない。信心のことをいわない」「念仏さえ称えたら死んだらお助けと言っている」などと、「念仏」を強調する相手をことさら批判してきました。近年の、批判ブログでやっと間違いに気がついたとしても、「いまさら念仏の話などできない」と思っているのでしょう。
かつては「真実の世界は不可称不可説不可思議だから、私にしか説けない」と会員に大見得を切っていた高森顕徹会長ですが、現状を私のような親鸞会を出た人間から見ると、「不可称不可説不可思議」の意味が親鸞会では相当変わっていることに気がつきます。