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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会館に足を運ぶのが「高森会長への罪悪感の解消」ならやめましょう

本日(2014/11/09)は、親鸞会館(宗教法人浄土真宗親鸞会の本部会館_富山県射水市)で、高森顕徹会長の法話が行われる予定です。

このブログでも過去に書いてきましたが、親鸞会会員がなぜ半ば嫌々であっても富山県親鸞会館まで足を運ぶのかについて考えて見ました。今回書くのは、教義的なことよりもその行動の動機となる心理的背景です。

結論から言えば「罪悪感(罪悪観ではありません)」で、高森顕徹会長の法話に参詣しています。

罪悪感とは、具体的にどういうものかというと「高森会長の法話に参詣しないと何だか悪いことをしている気がする」といったものです。これは、親鸞会に在籍したことのある人なら耳にした言葉からくるものです。それは「高森先生は命がけで法座に立たれている」というものです。

実際、私が在籍していた平成5年から平成20年の間では、よく耳にしましたし、本部会館法話の誘い文句としては、ほぼ毎回使われていました。また、私も何度もそう話をしていました。実際に、平成10年頃になると、毎週日曜日に全国で開催されていた高森会長の法話も、会長の高齢化もあり、何度か体調不良で中止となることがありました。その度ごとに「高森先生は、肉体の限界まで法話に立たれている」とか「このように直接聞けるのはあと10年だ」と会から聞かされていました。

親鸞会に所属している会員の多くは、会長を本当の悪人と思っている人は少なく「自分のために命がけで話をしているのが会長だ」と思っています。その考えから、高森顕徹会長の法話がある日に、仕事や家の用事を優先させていると「何だか悪いことをしている気持ち」にさせられてしまいます。その罪悪感を解消するために富山に足を運んでいるのが、正直な気持ちです。

私が、会に在籍しているときも、脱会後も富山に足を運ぶ会員で「本気で今日信心決定する気持ち」の人は多くはありません。にもかかわらず、「何となく」では説明できない労力と経費を使って高森会長の法話に足を運ぶのは、「自分が悪いことをしていないことを証明してホッとしたい」だけではないでしょうか。

このような行動を、消費行動で「ギルティフリー」というそうです。以下、参考記事より。

「ギルティフリー」guilty freeというのは「有責感のない」ということである。
自分が購入した商品はその製造過程・流通過程・廃棄過程のどこにおいても「悪いこと」(熱帯雨林の破壊とか、有害物質の垂れ流しとか、第三世界住民の収奪とか、産業廃棄物による環境破壊とか)に加担していないので、それを購入した自分の手が白いことにほっとするような商品がギルティフリーであるらしい(たぶん)。

商品経済から贈与経済へ (内田樹の研究室)

消費行動でいえば、フェアトレードのコーヒーを買うようなものです。上記の文章を親鸞会にあてはめると、こうなります。親鸞会にいると、親鸞会館に参詣しないと「悪いこと」をしている意識を植え付けられます。その「罪悪感(高森会長の命がけの法話を無にする)」から逃れて「自分の手が白いことにほっとする」行動が、「親鸞会館に参詣する」ことです。

そのもっと極端な例が、「富山移住」です。親鸞会では、各地域の熱心な会員で親鸞会館のある富山県に引っ越しをする人がいます。その動機も、考えて見れば「ギルティフリー」のあらわれでしょう。
なぜなら、富山移住をすることは一方的に感じていた高森会長への罪悪感からは自分を解放する為だからです。会員として「自分の手は白い」ことを証明する手段として最上位にあるのが、富山移住です。また、「講師部員、特専部員、親友部員」になるのも同様です。それが「ギルティフリー」である例として、富山移住に関していえば親鸞会でよくいわれていたことに「富山移住をした人は元気がなくなる」があります。その会員の行動原理が「罪悪感」であったために、富山移住までしてしまうと活動意欲が低下してしまうからです。


しかし、高森会長に罪悪感を感じる必要はありません。阿弥陀仏に申し訳ないと思ったとしても、親鸞会館に行ってみないとビデオ法話になるか、実際に話があるか分からない行事を開催する高森会長から迷惑を受けているのは貴方です。高森会長ではありません。


ただ、自分が「ホッとしたい」だけで、親鸞会館に足を運んでいるのならば、もうそんなことは辞めるのが貴方の為です。正体がよくわからない罪悪感を解消したいだけなら、親鸞会を脱会するのが最善です。