親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森顕徹会長講演会の新聞広告、ネット広告から見えるもの

yugaomemo.hatenablog.com

2018年05月31日北日本新聞の一面広告で、6月10日(日)に親鸞会館で行われる高森顕徹会長の講演会が掲載されていました。
また、前回のエントリーで紹介した、高森顕徹会長の講演会動画がFacebook広告にも出てきました。
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これから見えることは、親鸞会を店で例えると「閉店セールの広告」が出てきたということです。またそこから、やはり高森顕徹会長のみが親鸞会が存在、運営できる理由だったということも分かります。

かつては非常に高嶺の花だった高森顕徹会長の法話

私が親鸞会にいたころは、「高森顕徹会長しか正しく真宗の教えを説く人はいない」「直接聞かねばならない」といわれていました。それは、親鸞会の中では今も変わっていません。しかし、そうなると以前は毎週のようにあった高森顕徹会長の法話を聞くには、全国各地の法話会場に足を運ぶ以外に選択肢はありません。2001年(平成13年)以降は、高森顕徹会長の法話富山県親鸞会館に限られ(各地の会館落慶座談会を除く)とにかく親鸞会館に行かないことには、直接の話は聞けないという状況にありました。
また、2005年(平成17年)の「正本堂落慶法要」には、会員限定という案もあったほど「高森顕徹会長の話を聞きたければ会員にならねばならない」というくらいの感覚が、当時の親鸞会にはありました。


言い換えれば、「いかに高森顕徹会長の話が有り難いものか」と会員に思わせる為に、親鸞会の活動はありました。私も当時講師部員として、各地の会員や一般の方に話をしてきたことは結論から言うと「ここから先の話は、高森顕徹会長の話を聞いて下さい」以外にはありませんでした。確かに富山県までの距離が遠い場所では、「高森顕徹会長の話を聞きに行こう」といってもかなりハードルの高い話です。しかし、「それだけの価値があります」と言っていろんな人を誘っていました。


また、そうやって富山の親鸞会館に行っても「名札(バーコードあり)」を確認しなければならないとか、そもそも日程は口頭のみで連絡され、メールでの連絡は禁止となっていたのがかつての親鸞会です。そうなると、会員にならない限り、いつ高森顕徹会長の法話が行われるかそもそも分からない状態でした。


一転して、「どなたでも」「ネットもあるよ」の大安売り

それが、公式サイトに高森顕徹会長の日程も載るようになり、その次は新聞広告、ネットでの講演会の配信を始めました。
これまで「(事実上)会員限定」にしてた、高森顕徹会長の法話を「どなたでも」「ネットもあるよ」と変更した理由はなんでしょうか?


先のエントリーにも書きましたが、経営上(資金繰り)の行き詰まりがあったと考えるのが妥当です。これまで、親鸞会親鸞会館(1988年・昭和63年)の建設から、現在に至るまで、アニメ制作(世界の光親鸞聖人シリーズ)や正本堂、各地の会館建設をしてきました。いくら、会員からお布施を募るといっても、業者に対して支払う費用は銀行から融資を受けています。


その融資が、高森顕徹会長の高齢化にともない、ストップしたのでしょう。かつて、新聞広告にまで出していた「歎異抄をひらく 映画化決定」が今年の2月以降出て来なくなったのはその表れです。
※2018年02月15日中国新聞広告(映画化決定)
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振り返ると、2005年(平成17年)以降の親鸞会は、まさに自転車操業でした。巨額の投資をした、親鸞会館(正本堂)の費用を銀行に返済するために、「聞法ドメイン」を名目に会員から「お布施」を集め、そこで集まったお金を正本堂の費用にあて、「聞法ドメイン」の費用を、各地の会館の建立名目で集めたお金で返済し、会館が建つ余地がなくなると「映画 なぜ生きる」の制作費用と称して会員から「お布施」を募ってきました。


そうして自転車操業を繰り返してきた親鸞会ですが、銀行としても融資を続けられるのは「高森顕徹会長が話をし続ける」という以外に根拠はありません。その高森顕徹会長が高齢となり、来年は90歳です。どんな銀行でも、社長が90歳の会社に、社長の名義で融資はしません。最近の、地方銀行の報道を見る限り(見たい方は参照を御覧下さい)親鸞会のメインバンクが、親鸞会への融資について回収に入ったとするのが妥当です。


そこから、今回の新聞広告などは、「売れるものはとにかく売って現金化しよう」という閉店セールの広告と何も変わりません。

まとめ

こうして、「高森顕徹会長の話」という親鸞会の中では、最も大切なものを新聞広告やネット配信してなんとか現金化しよう、銀行への返済をなんとかしようという現場の考えは分かりました。
しかし、「高森顕徹会長が話をしない親鸞会」に、どれだけの価値があるのかというのが、今直面している問題だと思います。そうすることが楽だからという理由で「高森顕徹会長・500年に一度の善知識説」を振りかざしてきた親鸞会講師部員のみなさんに、最後言いたいことがあります。


衆生済度」「お取り次ぎ」言葉はどうあっても、目の前にいる苦しむ人に対して法を説かなかった(説けなかった)後悔はないのでしょうか。私の親鸞会講師時代の大半はそれ以外にありません。本気で後生の問題を質問される人に対して、私は「高森顕徹会長の話を聞いて下さい」としかいえませんでした。あの日あの時あの場所で、今の自分なら言えたこともあるという後悔は、常に心に残っています。


私は、親鸞会の講師たる人は、みな衆生済度を願っている人ばかりだと思いたいです。(そうでない人もいるでしょうが)貴方が説く法で本当に救われる人があるのでしょうか?まずは、自身の信心決定をめざして下さい。
親鸞会講師からのお尋ねに対しては、全て秘密にしますので、親鸞会教義に疑問のある人は連絡を下さい。