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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

追記:親鸞会の「聞く一つで乗せていただける」は間違い(顕真平成26年6月号)

前回のエントリーに追記です。

聞思=聴聞はなぜ間違いなのかについての追記(顕真6月号を読んで) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ

このエントリーで紹介した。以下の部分について書きます。

学徒 「聴聞」と「聞思」はイコールで、聞く一つで乗せていただける、ということ。(顕真平成26年6月号 P13)

前回は「聴聞=聞思」について書きました。今回は「聞く一つで乗せて頂ける」について書きます。

この言い方は、親鸞会でよく使われる言い方です。しかし、この言い方は間違いです。なぜなら、「聞いたら救われる」との意味で親鸞会では使っているからです。


実際この記事では、親鸞会の支部長も以下のように言って締めくくっています。

支部長 二千畳も、この会館も、阿弥陀仏の本願を聞くために建てられました。真剣な聴聞の一本道を進みましょう。(顕真平成26年6月号 P13)

しかし、私が「聞いたら救われるは間違いだ」と書くと、親鸞会の人は「聞いたら救われは間違いだ、だから聞く一つで救われると言っているのだ」と言う人があるかも知れません。それでも、ではその二つはどう違うのかということを、明言できる人は親鸞会には一人もいないと思います。なぜなら、親鸞会の中では結局のところ同じ意味で使っているからです。同じ意味の言葉を二つ並べて、前者は間違い、後者は正しいと言っているようなものですから、話している人間も聞いている人間も理解出来るはずはありません。


「聞いたら救われる」も「聞く一つで救われる」も、どちらも「聞く」のが先で、救われるのが後という点では同じです。しかし、私を救う法はすでに完成して、南無阿弥陀仏となって働いています。ですから、聞いて救われるのではなく、「すでに救うと完成した法」を聞くということです。言い方を変えると聞いて助かるのではなく、お助けを聞くということです。助ける法はすでに私が聞くに先立って完成しています。

六連島のお軽さんの言葉で言えば

弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ 聞くより先のお助けよ
 聞くに用事はさらにない 用事なければ聞くばかり

です。私が「聞く」という行為を足さねば完成しない救いではありません。すでに私が聞くより先に成就した救いですから「聞くより先にお助けよ」「聞くに用事はさらにない」のです。


聞きに行かねば助からない法ならば、ただ今救われることはありません。ただ今助けると働いてくださる南無阿弥陀仏をそのまま聞いて下さい。そう聞いたのが救われたということであり、信心といいます。