親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「心のゆるみご用心・『オンライン聴聞』の“死角”」(顕真2021年11月号より)を読んで思った事

親鸞会機関誌・顕真2021年11月号を読みました。以下、思った事を書きます。
f:id:yamamoya:20220109073345j:plain

顕真2021年11月号表紙

f:id:yamamoya:20220109073351j:plain

顕真2021年11月号目次より今回の特集記事は、「心のゆるみご用心・『オンライン聴聞』の“死角”」でした。

この1年半、3密を避けるため、自宅でのオンライン聴聞が一般的になりました。聞法の回数が増えたのは素晴らしいことですが、そこに“心のゆるみ”が見逃されてはいないでしょうか、自宅で聞ける気安さから、足を崩したり、周りの音に気を取られたり、直前まで飲食をしていたり……。それで『信心獲得』という肝心の目的が果たされるものか、心静かに振り返ってみることが大切です。今月は、聞法に臨む心構えを学びましょう。(L)
(顕真P4)

 

親鸞会では、このコロナ禍に入ってよりインターネット中継での聴聞が中心となっております。すでに、中心の会員には「学徒タブレット」と言うタブレット端末が販売されており、スマートフォンやパソコンでも会員は これまで富山県まで行かなければならなかった高森会長の話を聞くことができます。それだけではなく各地の行事や勉強会もネットが中心となっております。

 

これは親鸞会に限らず、いろいろな団体でもなされていることですが。親鸞会はそれについてかなり大々的にネットを中心に振り切っています。多くの会員にとって、富山県まで行かなくて良くなったと言うのはいろいろな意味で負担が減るので歓迎されている向きも多いです。

 

親鸞会の危機感

高森会長が今後、法話に復帰するかどうかは別の問題として、このコロナ禍も永遠に続くわけではありません。やがて収束したときに、これまでのように会員が富山県まで足を運ぶとか、実際に各地に足を運んでいくことがなくなってしまうのではないかと言う危機感は親鸞会の中に大変強いと感じます。


確かに実際に足を運んで法話を聞くことは私も賛成です。ただ親鸞会においてはここの特集でも書いてある事は、救われるかどうかが精神論になっています。

「真剣になり切る」

今回の顕真では以前顕正新聞に掲載された「大喝」の中から引用されたものです。一部紹介します。

大喝4

その心がけで何が成就する

お花を習っても、お茶をならっても、洋裁、和裁を習っても、書や画を学んでも、料理、語学、どれを習っても、一人前になるのは並大抵のことではない。
雨の日も、風の日も吹雪の日も、朝早くから夕方遅くまで、そのことに没頭し、身心を砕いて努力して、ようやく卒業できるのではないか。
(略)
それで一体、何を解決するつもりなのか。後生の一大事を何と心得ているのだろう。
若い女性が、料理や編み物を習得しようとしているほどでもないではないか。子供が毎日、塾へ通って予習・復習に心がけるほどでもない。そんな心がけで、この世のことをやったとして、何か1つでも成就することがあるだろうか。
仏法を軽く見ているから、不足小言ばかりが先に出て、真剣になり切らないのだ。(P8)

この文章は、私も以前読んだことがあります。また、人にも話をしたことがあります。
この世の習い事や勉強でも、真剣にならないと身に付かないのだから、仏法は真剣に聞かなければならないというものです。


最後に「真剣になり切らないのだ」と結んでありますので、「真剣になり切らないから救われない」と言っています。
話半分で聞いている人に対して「そんないい加減なものではない」という意味でいうのであれば、そういう話もあると思います。しかし、この「顕真」は会員の中でもある一定以上の会費を納めている人向けの冊子です。その読者の中には、それこそ20年、30年と全国各地で行われていた高森顕徹会長の話を「真剣に」聞き求めていた人も少なくありません。

 

 

「真剣になり切らないから救われない」?

それらの人に対して「真剣になり切らないから救われない」と言っているのがこの記事です。私が親鸞会にいた頃を思い出しても、そういう熱心な会員は本当に「真剣」です。またこういう大喝のような話も聞いているので、自分自身にも「真剣になり切れないから救われないのだ」と常々言っている人もたくさんおられます。何しろ「真剣になり切れたかどうか」の判断基準が「救われたかどうか」でしかないので、「救われていない=真剣になり切れてない」という図式ができ上がっています。


そのため、高森顕徹会長を始め、幹部講師は会員に向かって「まだまだ真剣さが足りない」とお布施や法話の参詣目標に対してかなり強い調子で激を飛ばしているのが常態化していました。それを聞いた熱心な会員は、さらに「その通りだ自分はまだまだ真剣さが足りなかった」と身心ともに限界まで自分を追い込んで行きます。そのため、少し以前の親鸞会では熱心な会員が退会する理由は「身心の限界を超えたため」というのが多くありました。別の言い方をすれば「もう自分は救われないので続けられません」というものでした。


親鸞会では「救われました」という人がいても、ほとんどいないのが実態なので、仮にそういう人がいても「あの人は特別だから」という見方をしてしまいます。「特別ではない私は真剣になるしかない」とますます真剣になろうとします。

 

どんな者も助けるのが阿弥陀仏の本願

しかし、よくよく考えて見ると「真剣になった者を助ける」と阿弥陀仏は本願を建てておられるのでしょうか?どんな者も漏らさず救うのが阿弥陀仏の本願のもともとの起こりです。

(37)
願力無窮にましませば
 罪業深重もおもからず
 仏智無辺にましませば
 散乱放逸もすてられず
(38)
如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としたまひて
 大悲心をば成就せり
正像末和讃 - WikiArc浄土真宗聖典註釈版P606)

 


「真剣になれ、真剣になったものを救う」という本願ではないから「散乱放逸もすてられず」と言われています。どうにもならないものを目当てに救う本願ですから「苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて」と言われています。

 

真剣になれなくても、どんな場所で聴聞をしても、南無阿弥陀仏は常に私に呼びかけられています。自分の真剣さという、心の状態を注視するのではなくただ今助けるの仰せをきいて下さい。ただ今助けるのが阿弥陀仏の仰せです。

真剣になれないから救われないのではありません。聞くべきものを聞かないから救われないのではないかと考え直してみて下さい。