親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の人にも分かる「方便と真実」2回目(法性法身と方便法身について)

親鸞会の人にも分かる「方便と真実」の2回目です。前回のエントリーを書いてみて、これではまだ不十分なところがあり、追加で書くことにしました。親鸞会の人にとってとても大事な内容ですが、一度に書くと分量が長くなるので、後1回か2回にわけて掲載します。

今回は方便と真実の関係について書きます。方便と真実の関係とは、今回では「方便法身と法性法身」の関係から書いていきます。なぜなら、これが元々の方便と真実の関係だからです。

親鸞会の人でも、法性法身と方便法身の名前は知っている人も多いと思います。それは、親鸞会発行の教学聖典に掲載されているからです。
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問(14) 我々を済度するために仏は、いろいろのお相を現される。大別すれば四種である。その四種の仏身を示せ。

答(14)
(1)法身
(2)報身(方便法身とも言う)
(3)応身
(4)化身
(宗教法人浄土真宗親鸞会発行 教学聖典2号より)


これについて言われているのが唯信鈔文意のご文です。

法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典―註釈版P709)

http://goo.gl/ZYdbs

法性法身は、「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」といわれる状態です。そのためこれを「一如」ともいわれます。一如とはこのエントリーの流れからいって「真実」と同じ意味です。
しかし、「一如・真実」では私たちには認識もできません。そこから、私を救うために、姿を現してくださったのが「方便法身」です。それが法蔵菩薩であり、法蔵菩薩の建てられた本願です。その結果現れた阿弥陀如来を、「報身如来」といいます。「報」とは、法蔵菩薩の五劫思惟・兆載永劫の行の結果ということです。

親鸞聖人は、この「法性」「一如」について、教行信証証巻の最初にかかれています。

法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。(教行信証証巻・浄土真宗聖典―註釈版P307)

法性とは真如であり、一如であるといわれて、阿弥陀如来はその「如(真如・一如)」から来たって現れた姿なので、そこから報身・応身・化身の姿を現して下されるのだといわれています。

そこで、親鸞聖人は同じく教行信証・証巻に往生論註を引かれてそれについて言及されています。

一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。このゆゑに広略相入して、統ぬるに法の名をもつてす。菩薩、もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他するにあたはず。(教行信証証巻・浄土真宗聖典―註釈版P321・浄土論註引文)

この法性法身(真実)と方便法身(方便)の関係は、「法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す」と言われています。真実から方便が生じ、方便によって真実を出すといわれています。ここから言えることは「この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。」ということです。真実と方便の関係は「異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。」です。同じではないけれども、二つにわけるものではないし、一つであるけども全く同じにするものではないということです。

親鸞会の人がいう「真実=目的地 方便=手段」という図式は全く成り立たないのが、法性法身(真実)と方便法身(方便)の関係です。