shinrankaidakkai.hatenablog.com
からの続きです。
法性法身と方便法身の関係について、前回のエントリーで書きました。今回はその続きです。
今回書くことの結論を先に書くと、法性法身(真実)と方便法身(方便)の関係は自利と利他の関係であり、親鸞会で言うような「目的と手段」の関係ではないということです。
真実の智慧は、浄土の真実を知ると同時に、私たちの迷った姿を知るから、それが慈悲となってあらわれ、なんとか私を救おうという働きとなります。それを方便というのだということを、親鸞聖人は、教行信証証巻に浄土論註を引いて書かれています。
実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄を知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、すなはち真実の帰依を起すなり。慈悲と帰依と巧方便とは、下にあり。(教行信証証巻・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P325・浄土論註より引文)
http://goo.gl/mVenI
そこで、慈悲と巧方便(方便)については、その続きに書かれています。
〈二つには慈悲門によれり。一切衆生の苦を抜いて、無安衆生心を遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。苦を抜くを〈慈〉といふ。楽を与ふるを〈悲〉といふ。慈によるがゆゑに一切衆生の苦を抜く。悲によるがゆゑに無安衆生心を遠離せり。(教行信証証巻・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P327・浄土論註より引文)
http://goo.gl/tcjqb
このご文は親鸞会の人には見覚えのある人も多いと思います。なぜなら親鸞会発行の教学聖典にも出ているご文だからです。
問(44) 仏教の目的は抜苦与楽だが、それを慈悲の働きと言われるのは、なぜか。曇鸞大師のお言葉で示せ。
答(44)
○苦を抜くを「慈」と曰う、楽を与うるを「悲」と曰う。慈によるが故に一切衆生の苦を抜く、悲によるが故に衆生を安んずること無き心を遠離せり。(宗教法人浄土真宗親鸞会発行・教学聖典3号より)
「仏教の目的」と、一見するとよくわからないことが問いにありますが、今回は問いについての言及はしません。
もとの教行信証のご文について書きます。慈悲については、苦を抜くを慈という、楽を与えると悲というと解説され、慈によって全ての人の苦しみを抜き、悲によるから衆生を安らかにすることがない心を離れるのだといわれます。最後の「無安衆生心」とはひらたくいえば、自分がさとればそれでよいと衆生の苦しみをみない、または放置する心です。
なぜ一切衆生の苦を抜こうと衆生を見捨てられないのかと言えば、一つ前のご文にあるとおりで「実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知る」からです。真実の智慧は、衆生の虚妄の姿を知るので、必ず慈悲の心がおきます。
次に方便については、続けてこう書かれています。
〈三つには方便門によれり。一切衆生を憐愍したまふ心なり。自身を供養し恭敬する心を遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。正直を〈方〉といふ。おのれを外にするを〈便〉といふ。正直によるがゆゑに一切衆生を憐愍する心を生ず。おのれを外にするによるがゆゑに自身を供養し恭敬する心を遠離せり。(同上P328)
http://goo.gl/ZMWsL
これも、平成5年以前に親鸞会に入会した人は目にしたことのあるご文だと思います。現行の「教学聖典」発行以前の「教学テキスト」に掲載されていました。現在はなぜか削られています。
ここでは、方便とは「一切衆生を憐愍したまふ心」であり、自分を尊敬し供養する心を離れているからだといわれます。なぜそうなるかというと、方便の「方」は正直であり、「便」はおのれを外にするということだと言われます。
正直とは、真実の智慧から衆生を憐れに思う心であり、便とは自分を供養したりといった自分自身に対する執着を離れて、衆生をなんとか救おうと他を先にすることをいいます。
真実の智慧は、必ず慈悲、方便となって衆生を救う働きとなるといわれています。いわゆる自利利他の関係です。
まとめますと、真実と方便の関係は、親鸞会がいうように「私が」なんとか目的地に達しようとするための手段ではなく、「仏が」その真実の智慧をもって、衆生を憐れに思われてなんとか助けようという心を起こされ、実際に助けようというお働きを方便といいます。