親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

映画「なぜ生きる」からの質問はやめて、制限なしの質問を受け付けたほうが会員にとって意味があると思った高森顕徹会長の座談会(2018年10月28日(日)親鸞会館座談会より)

2018年10月28日(日)親鸞会館(富山県射水市)で、高森顕徹会長の座談会が行われました。

今回の座談会の質問は、映画「なぜ生きる」を観た人からの質問で多いものとして

「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか。」

についてでした。

今回の内容について、すでに他の方のブログに書かれているので是非御覧下さい。
hiun.cocolog-nifty.com
shingikensho.blog12.fc2.com


映画「なぜ生きる」が公開されたのが、2016年でした。それ以来、高森顕徹会長の話は映画「なぜ生きる」一色でした。ほぽ、映画「なぜ生きる」を観た人からの質問という形式で、講演会や座談会は勧められてきました。


しかし、実態を振り返ると、今回の質問も何回も繰り返されているものであり、全部振り返ってもほぼ2つの質問を繰り返していました。


今回の質問以外は、ほぼこれでした。

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか。


私も、安心問答というブログを書いているので、浄土真宗の信心についてのお尋ねについては多少の経験はあります。それでも、このような質問を受けたとしたら、答えは出しても、浄土真宗の信心とはあまり関係ない話になってしまうと思います。


少し具体的に書きますと、今回の

「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか。」

については、大無量寿経などのご文を引いて説明することは出来ます。しかし、「問い」としては、果たしてこのような質問に「自身の後生の一大事の解決」が入っているのでしょうか?


また、それ以外によくある質問

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか。

も、「どうしたら救われますか?」ではなく、「救われたらどうなりますか?」と聞いているに過ぎません。


私の知る限り、親鸞会会員の多くは「どうしたら救われるのか?」というのが一番聞きたいことです。「救われたらどうなるか」は、二の次の問題です。


しかし、映画「なぜ生きる」が完成してから高森顕徹会長の座談会の質問は、映画「なぜ生きる」についての質問に限定されていました。


私の目から見て、映画「なぜ生きる」から質問を出せといわれても、「どうしたら救われますか?」の質問は出しようもありません。なぜなら、そんなことは全く描かれていないからです。


つまり、「どうしたら助かりますか?」の質問に、答えたくないのが高森顕徹会長の本音です。あれだけ宣伝した映画「なぜ生きる」には、結局のところ「親鸞会的三願転入」は全く描かれていません。一応、了顕が主人公として描かれていますが、「親鸞会的三願転入で救われた」とは映画の中ではいっていません。



真面目な会員の一番聞きたいのは、以下の事です。これは私も考えていた疑問です。
どれだけ「親鸞会的三願転入」の活動をすれば救われるのでしょうか?

それに対する回答は、実は高森顕徹会長はもっていません。なぜなら、高森顕徹会長の獲信体験記にも、また、親鸞会で「獲信者だ」といわれていた東岸さん(故人)も、「三願転入して救われた」とはいっていません。それもそのはずで、親鸞会で三願転入を強調し始めたのは1992年(平成4年)からですから、それ以前の「親鸞会での妙好人」は「三願転入」という言葉も殆ど知らなかった筈です。


「救われたらどうなるか」の話を、映画「なぜ生きる」完成以来、少なくとも2年間、会員にはその質問しか許されていませんでした。いい加減に、会員を続ける人も、質問という形で声を挙げてもいい時期にきています。
それは
映画「なぜ生きる」で質問したいことは何もない。それより、今回の座談会で紹介をした、御文章の質問をしたい。
ということです。



今回は、御正忌の御文章(5帖目11通)を出したそうですが、参加した人の話を聞く限りはまったく説明をしていません。
例えば、
南無阿弥陀仏の六つの字の意をよく知りたるをもって、信心決定すとはいふなり。

「南無」といふ二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。
などは、説明もしていません。


自分が、出してきた御文章についての質問には答える責任があります。どうか、会員の方は、今回の御文章について質問をしてみて下さい。それを無視するなら、高森顕徹会長にとって会員が信心獲得することはどうでもいいことだということになります。