親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森会長のただ一つの願いは「皆々信心決定あれかし」なのか?(顕正新聞平成29年11月1日号論説を読んで)

顕正新聞平成29年11月1日号を読みました。以下、思ったことを書きます。
今回は、大阪会館が完成したことと、10月に行われた報恩講での弁論大会の内容が主な記事でした。論説は、報恩講での高森会長の話のまとめとなっていました。
論説の内容について、これから書いていきます。

タイトルは、ただ一つの願い「皆々、信心決定あれかし」 でした。
感想を最初に書きますと、「シネマ学院を建てた長い言い訳を2日間かけてした」ということです。なぜそう感じたのかというと、中身(救い)がないからです。

全文は、以下に画像を紹介ので読みたい方はそちらを御覧下さい。
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平成29年10月に行われた親鸞会館での報恩講の演題は「蓮如上人のご遺言」でした。 この論説も、

「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
   (御文章4帖目15通)
蓮如上人の御遺言だ。
遺言は重いものである。蓮如上人が常に私たちに願っていられた「信心決定」とは、一体、どんなことであろうか。(顕正新聞平成29年11月1日号 論説より抜粋)

と、冒頭から書いてあるので、親鸞会報恩講での高森会長の話の要約であることは会員ならすぐわかります。

しかし、この論説全体をみても、信心決定の身にどうしたらなれるのかについては、ほとんど書かれていません。
書いてあるのは、「信心には決定がある」ということのみです。

それについて書かれている箇所を紹介します。

だが、蓮如上人はここで「信心決定あれかし」といわれている。決定する信心があるのだ。決定とは、ゴールであり完成と言ってもよかろう。
(略)
しかし、親鸞聖人や蓮如上人の教えられている信心は、完成のある信心である。
(略)
南無阿弥陀仏を頂いたことを、信心決定とも、信心獲得とも言われるのだ。
(略)
親鸞聖人90年のご苦労も、蓮如上人85年のご布教も、このたびシネマ学院が建設された目的もただ一つ。
善知識方の願いは、偏に「皆々信心決定あれかし」以外にないのである。(K)
(同上)

この抜粋でも分かる事ですが、今回の論説(高森会長の話)は、まとめると以下のようになります。

  1. 信心には決定がある。完成が有る。
  2. それは南無阿弥陀仏を頂いたことである。
  3. そのために親鸞聖人、蓮如上人は布教されました。
  4. シネマ学院が出来たのも、みなさんに信心決定あれかしのためです。

ということです。

まとめると、分かる事ですが、今回の高森会長の話は、一言で言うこと「なぜシネマ学院をつくらねばならなかったのか」という理由について、全く別の話を持ってきて、それらしく話をしているということです。
親鸞会を出た人間からすると、また親鸞会会員でない人間からすると「シネマ学院を建設する目的はなんだろう?」ということについて明確な理由は何もありません。

それに対して高森会長は「皆々信心決定あれかしの気持ちでつくったのですよ」と会員に言っています。しかし、これには大きな矛盾があります。
その一つは、みなさんが信心決定するために建てたシネマ学院(なぜ生きる上映専門映画館)ならば、高森会長が話をするよりも、そちらで映画「なぜ生きる」を見たほうがいいということになります。

もう一つは、この論説ではさすがにカットしてある部分ですが、今回の報恩講で高森会長は最後に、どうすれば信心決定できるかについて、論説の最初にあげた蓮如上人の御文章から「宿善まかせ」だから、「宿善を厚くするためには、『聞法』だ」と言ったとのことです。親鸞会会員にとって「聞法」とは、「高森会長の話を聞きに富山に足を運ぶ」こと以外にありません。

結局のところ、「今日こそ信心決定の身に救われたい」と、「世界20カ国」から会員が参詣した場で高森会長が言ったことは「高森会長の話を聞け」でした。これは、親鸞会で熱心に活動されている方には今一つピンとこない話かもしれません。
そこで、別の話で例えると、とある病気にかかった患者が「あの医者なら自分の病気を治す方法を教えてくれる」と思って遠路も厭わずその医者のところに駆けつけると、その医者が一言「病気を治すには、この病院にまた来て下さい」と言っているのと同じです。

これは、病気と医者の話で例えると分かりやすいおかしな状況ですが、高森会長が語っていることはいつもこの構造なのです。

  1. あなたは大変な病気にかかっています。
  2. いますぐ処置をしないと大変なことになります。
  3. その病気を治す方法は私しか知りません。
  4. だから私の話を聞きに来なさい。
  5. 会員が高森会長の話を聞きに行く
  6. 1〜4の話を聞く
  7. 5にある高森会長の話を聞きに行く

(以下6−7の無限ループ)

私が在籍したときも振り返るとこんな状態でした。

今回の報恩講の話も、「皆さんに信心決定してもらいたい」「そのためにシネマ学院を建てました」「信心決定したかったらまた、私の話を聞きに来て下さい」以外にはなかったということです。
勿論、「どうしても高森会長の話を直接聞きたい」という方なら、話を聞いただけで満足するかもしれません。しかし、この論説にあるように「信心決定あれかし」が高森会長の本心ならば、聞きに来た人が信心決定せずに帰ることについて何も言及しないのはおかしなことです。

「また聞きにきてくれたらそれでいい」という気持ちで話をしているのか、「なんとかこの場で救われて欲しい」と思っているかは、長年聞いてきた人ならなんとなくわかるのではないでしょうか?

ここまで記事を読まれた会員の方は、よくよく自分の心に手を当てて考えて見て下さい。
貴方が親鸞会に居続ける理由はなんでしょうか?
きっと、いろいろありながらも居心地がよいからではないかと思います。もちろん、いい人も多いのでその気持ちも分かります。ただ、その居心地のよさというのは、「誰も救われていない」ことから来る連帯意識ではないでしょうか?
「皆救われていない」「だから高森会長の話を聞くしかない」「私はそれでいいんだ」としていないでしょうか?私はかつてそう考えていました。

「後生はひとりひとりのしのぎ」という言葉は親鸞会会員の方は何度も耳にしてきたと思います。「みんな救われていないのだから」とか「多くの人は真宗の教えを知らないのだから」というところに、腰をかけるのは大変な間違いです。

貴方が救われないと、貴方の為に本願を建てられた阿弥陀仏の本願が反故になってしまいます。
ただ今救う本願にただ今救われて下さい。