親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森会長のいう正信偈の最初の二行の解説(親鸞は阿弥陀仏に救われたぞー)が、親鸞会に留まり続ける理由

「信心決定=阿弥陀仏に救われたぞー(高森会長がいう正信偈の最初の二行の説明)」ではありませんを、今後詳しく書いて行きます。 - 親鸞会を脱会した人(したい人)への続きです。

親鸞会教義についての批判で、一番問題だと思ったのは、この「正信偈の最初の二行」についての高森会長の解説です。以前のエントリーにも書きましたが、私はこの正信偈の最初の二行(帰命無量寿如来 南無不可思議光)の高森会長解説が、会員を会に止めている原点だと思います。

そう思うようになったきっかけは、私が親鸞会を除名になってから話をした脱会者、現役会員から感じた疑問からです。その疑問とは、以下の二つです。

  1. 飛雲などの教義批判ブログの記事を読みながら、親鸞会を辞める人と辞めない人はどこが違うのだろうか?
  2. 親鸞会に留まるの中でも、大導師試験合格者、講師試験合格者は「親鸞会教義」を自分なりに咀嚼して納得しているとしても、そうではない会員はなぜ脱会しないのか?

(1)については、インターネットから情報を取得できる人たちです。それらの人の中で、親鸞会を辞めない人の多くは、(2)の「親鸞会教義を自分なりに咀嚼している人」にあたります。

それらの人たちが、「善のススメが親鸞聖人の教えであることは間違いかもしれない」と思っているのも現実です。だからこそ、親鸞会は機関紙を通しても「善のススメ」「救われるに絶対不可欠な宿善」と善のススメを強調しています。上記の人たちは、このような親鸞会・高森会長の説を自分なりに納得して親鸞会に残っているといえます。しかし、それはあくまで目的地が正しいという前提で、それまでの道程を自分たちは知りえないので「善知識に従うしかない」という心境です。
その「目的地」に当たるのが「親鸞阿弥陀仏に救われたぞー!(帰命無量寿如来 南無不可思議光)」です。このような意味で,「親鸞会に留まる人」の一番の理由は、高森会長がいうところの「正信偈の最初の二行の解説」であることがわかります。


次に、(2)について、教学試験合格者は先に述べた通りです。しかし、こう言っては身もフタも無い話ですが、「教学試験」を受けずに「親鸞会教義の体系」をあまり理解していない会員は、何をもって親鸞会に留まるのでしょうか?それらの人のほとんどが、よりどころにしているのが「正信偈の最初の二行の高森会長の解説」です。すなわち「親鸞阿弥陀仏に救われたぞー!」が、親鸞聖人の信心であり、信心決定であり、人生の目的であり、ゴール地点であるという考えです。



これらの理由から,(1)の人も(2)の人も、言い換えれば「親鸞会教義に明るい人(講師部・親友部・特専部・教学試験合格者)も、「親鸞会教義にそれほど明るくない人(教学試験を受けない会員・高齢者)」も、どちらもよりどころとしているのは、人生の目的(信心決定)は「親鸞阿弥陀仏に救われたぞー!!」であるという点です。


しかし、そのような「親鸞阿弥陀仏に救われたぞー!=信心」というのは、仏体所帰(阿弥陀仏という仏体に帰依した)となり、親鸞聖人の信心とは異なります。


前回も書きましたが、そのような信心の定義は、親鸞聖人の信心と異なります。加えて、仏体所帰ならば、私は仏になることができません。所帰ところは仏因(法)に限ります。


少し長くなったので、続きはまた次回に書きます。よろしくお願いいたします。