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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「信心決定=阿弥陀仏に救われたぞー(高森会長がいう正信偈の最初の二行の説明)」ではありませんを、今後詳しく書いて行きます。

以前のエントリー親鸞会・高森顕徹会長の正信偈の最初の二行の解説「親鸞は阿弥陀仏に助けられたぞー!!」は間違いである理由 - 親鸞会を脱会した人(したい人)へについて、思うところがありもう少し詳しく書き足すことにしました。


理由は、正信偈の最初の二行の解説が、親鸞会教義がどこから間違いかといういわばスタート地点だからです。親鸞会会員は、入会前から「なぜ生きるかの人生の目的が大事」という話を聞かされています。そして、「人生の目的が大事だ」と思って入会した人も多いです。近いうちに第二段が出版されるという「なぜ生きる」から引用します。

なぜ生きる

なぜ生きる

ニーチェは『道徳の系譜』に、なぜ生きるかがわかれば、「人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする」と書いています。方向さえ正しければ、早く走るほど早く目的地に着きますから、損をする苦労は一つもありません。人生の目的成就のためならば、時間、体力、お金をどれだけ使っても、百パーセントそれらは生かされます。使い捨てにはならないのです。
 人生に苦しみの波は絶えませんが、生きる目的を知った人の苦労は、必ず報われる苦労です。人生は素晴らしい、と言う人もいれば、何をやってもむなしい、と言う人もいます。
 真の「人生の目的」を知るか、否かの違いでしょう。(なぜ生きる P34-P35)

本当の人生の目的を達成したとき、一切の苦労は報われ、流した涙の一滴一滴が、真珠の玉となってその手に戻るのです。(なぜ生きる P105)

このように「真の『人生の目的』を知るか、否か」、「本当の人生の目的を達成したとき…」と、人生の目的を知ることの大切さを強調しています。そこで、親鸞会高森顕徹会長の主張する人生の目的とは何でしょうか?

それは、後生の一大事の解決であり、信心決定することです。もちろん、それだけならば私から何もいうことはありませんが、今回のエントリーで書くことは「信心決定=正信偈の最初の二行」としても、それがイコール「親鸞阿弥陀仏に救われたぞー!」にならない点です。

「信心決定=阿弥陀仏に救われたぞー」ではありません。

こう書くと「?」と思われる親鸞会会員の方は多いと思います。私も、親鸞会に入会した頃はそのように思い込んでいました。ですから、「人生の目的=信心決定=阿弥陀仏に救われたぞー!」という「目的」に向かって一生懸命進んでいるつもりでした。


しかし、改めて親鸞聖人の教えから照らしてみると「阿弥陀仏に救われたぞー!!」が信心決定とは、絶対に絶対に言えないことです。


理由はいくつかありますが、一番の理由は、阿弥陀仏のお徳を名号におさめて、「聞其名号」で信心を定めるのが親鸞聖人の教えだからです。もう一つは、私がたのむ対象は「仏因(名号・無上甚深の功徳)」に限るのであって、「阿弥陀仏」は私の「仏因(仏になるタネ)」にはなりません。


大きく言えば、上記の二つになりますが、細かく言えばもう少し増えます。いわゆる「仏体所帰=親鸞聖人の信心」ではないということを知っていただきたいと思います。目的(ゴール)が異なれば、どれだけ命がけで進んだとしても「本当のゴール(信心決定)」にはたどりつけません。


横の線がどうとか、三願転入が設計図だとか、善の勧めはあるとかないとか、親鸞会高森顕徹会長)はいろいろと理屈を述べますが、一番大事な「目的」がそもそも違うのですから、会員がゴールに到達できないことは明白です。仮に命がけで到達したとしても、最初の設定が違うのですからゴールに到達できないのは当然です。


現役会員の方でこのエントリーを読まれたかたに、よくよく知っていただきたいことは、繰り返しますが「信心決定=阿弥陀仏に救われたぞー!!」ではないということです。名号を聞いたのが信心であって、「阿弥陀仏に救われたぞー!(所帰仏体)」は、親鸞聖人の教えられた安心ではありません。


詳しくは、次回以降のエントリーで何回かに分けて書きます。よろしくお願いします。


続きのエントリー
高森会長のいう正信偈の最初の二行の解説(親鸞は阿弥陀仏に救われたぞー)が、親鸞会に留まり続ける理由 - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ