親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「結局会長の冒頭2行の説明における最大の間違いは、"親鸞は"という言葉を頭にくっつけたという点にあると思っていいんでしょうか?」(KYさんのコメントより)

KY 2013/10/25 10:23
以前に何回か質問させていただいたものです。
今回の正信偈の冒頭2行における高森会長の説明が誤りであることに関して、
根拠をもって明確に解説いただき、よく理解することができました。
つまり親鸞聖人は阿弥陀仏という仏様自体に助けられたといっておられるのではなく、その働き、すなわち名号によって救われたのだということについて納得しました。

そこで質問させていただきたいのですが、結局会長の冒頭2行の説明における最大の間違いは、"親鸞は"という言葉を頭にくっつけたという点にあると思っていいんでしょうか?
それ以外の説明、例えば、
帰命=南無=助けられた、
無量寿如来=不可思議光=阿弥陀如来
はあっているので、それを使って
帰命無量寿如来
南無不可思議光
は単に「誰というでもなく」
阿弥陀仏に救われた
阿弥陀仏に救われた
という意味になるというのはあっているのでしょうか?
そうすると、冒頭2行で親鸞聖人が本当に言いたかったことは
自分の体験ではなく阿弥陀仏に救われるということがありますよ
ということ言っているということになるのでしょうか?

すみませんがよろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131024/1382597242#c1382664180

安心問答のコメント欄に頂きましたが、元のエントリーはこちらのブログなのでこちらに書きます。

コメントして頂いたことに付いて書きます。

結局会長の冒頭2行の説明における最大の間違いは、"親鸞は"という言葉を頭にくっつけたという点にあると思っていいんでしょうか?(KYさんのコメントより)

これについては、「親鸞は」が大事なのではありません。あくまでも「阿弥陀仏に救われたぞー!」という部分が大事なのです。理由は、高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)は、正信偈の最初の二行を「親鸞聖人の信心」だと言っているからです。そこで、親鸞聖人のいわれる「真実信心」は、仏体所帰なのか名号(法)所帰なのかが問題になります。私は、親鸞聖人の信心は「法だのみ」であって「仏体だのみ」ではないと主張しております。


事実として、親鸞聖人が信心(安心)について、仏体だのみをいわれたご文は一つもありません。たのむべきところは、名号(法)であるといわれたのが親鸞聖人です。


阿弥陀仏に救われる」というのが、適当ではないのは、それではキリスト教信者が、目の前に神様が現れて私を救って下されるという信心と何もかわらないからです。



あくまでも、法を頂いてそれによって私が浄土往生を遂げるというのが親鸞聖人の信心です。
ついでにいえば、存覚上人の六要鈔に、正信偈の最初の二行について以下のようにいわれています。

先づ壽命・光明の尊號を擧て歸命の體と爲す

これは、無量寿如来(寿命無量)、不可思議光(光明無量)をもって帰命の体とするといわれたものです。その寿命無量、光明無量は阿弥陀仏のお徳のことをいわれてものであって、仏体ではないというのが存覚上人の解釈です。


繰り返しますが、正信偈の最初の二行を「親鸞聖人の信心だ」というのであれば、親鸞聖人がいわれた信心でなければなりません。親鸞聖人の言われる信心は「聞其名号信心歓喜」の信心です。名号を聞いたままが信心であって、仏体に帰命したことを信心といわれたところはありません。


もう少し踏み込んで書きますと「阿弥陀仏という仏が目の前に現れて私を救ってくださった」ごときものを、親鸞聖人は「真実信心」とはいわれていません。名号(法)に帰命・南無したことを信心と言われています。