親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会・高森顕徹会長の正信偈の最初の二行の解説「親鸞は阿弥陀仏に助けられたぞー!!」は間違いである理由

宗教法人浄土真宗親鸞会高森顕徹会長のいうところの「親鸞聖人の教え」は、実際の親鸞聖人の教えとは違います。それについて、当ブログだけでなくいろいろな方が指摘されているところです。


今回は、「高森会長の正信偈の最初の二行の解説は間違いである」点について書きます。正信偈の最初の二行とは、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」です。これを、高森会長は「親鸞阿弥陀仏に救われたぞー!親鸞阿弥陀仏に助けられたぞー!」と話をしています。また、この説明は高森会長自身が、頻繁に話をするので、一カ月でも親鸞会に所属していれば必ず耳にする内容です。何年も会員を続けている人ならば、疑う余地もなく「そういうものだ」と思わされているところです。


しかし、この説明は間違いです。間違っているだけでなく、親鸞会の活動を支えている根っこの部分にあたるものです。

「無量寿如来(阿弥陀仏)に帰命した(助けられたぞー)」はどこが間違いか

この正信偈の最初の二行は、「正信偈」の名前の通り「正しい信心」について書かれたものです。真宗の信心は「帰命無量寿如来 南無不可思議光」ということです。言葉を変えれば「南無阿弥陀仏」が真宗の信心であると書かれたものです。


そこで「帰命」「南無」が、言葉をかえれば「よりたのむ」安心をいわれたもので、親鸞聖人ご自身の信心を書かれたものでもあります。では、親鸞聖人が「何を」「帰命」「南無」「よりたのむ、よりかかる」されたのかといえば、「無量寿如来(不可思議光如来・阿弥陀仏)」です。そこで、この「阿弥陀仏」は「仏さま(仏体)」なのかそれとも「お働き(行または法)」なのかということが問題になります。


結論からいえば、この「帰命無量寿如来」の「無量寿如来(阿弥陀仏)」は。「阿弥陀仏という仏様(仏体)」ではありません。お働きそのもの(法または行)であります。


そのことは、親鸞聖人が尊号真像銘文で、善導大師の六字釈について解説されています。

「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。
[浄土真宗聖典―註釈版P655)

http://goo.gl/iDJA31

ここでは「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀仏」は「即是其行」であるといわれています。「すわなちその行」であるのが「阿弥陀仏」ですから、「仏さま(仏体)」ではありません。「仏さま(仏体)」でないからこそ、「安養浄土の正定の業因」となることができるのです。なぜならば、阿弥陀仏の本願は、私を浄土往生させ、仏にする「因」として南無阿弥陀仏(大行)となられたのです。「阿弥陀仏という仏様(仏体)」は浄土往生の因とはなりません。大行であるからこそ、親鸞聖人は教行信証行巻にこのように言われています。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻 浄土真宗聖典―註釈版P141)

「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」であり「真如一実の功徳宝海」である南無阿弥陀仏の名号だから、それを聞き受けるところに浄土往生の因となる真実信心となります。


よって、「阿弥陀仏に救われたぞー(いわゆる仏体所帰)」が親鸞聖人の信心だということは間違いとなります。しかし、高森会長作のアニメでは、いかにも仏体所帰のように描いて会員をミスリードしています。また、会長自身がそう思っているのかもしれません。
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(画像は親鸞会でよく上映される チューリップ企画親鸞聖人と王舎城の悲劇」より 韋提希夫人が救われる場面 画像右上は阿弥陀仏)


このアニメは、私が親鸞会会員のころに何度も見ました。その前提として高森会長から「阿弥陀仏に救われたぞー」と何度も聞かされているので、浄土真宗でいう「救われる」とはこのようなことかと無意識的にすり込まれていました。


このような親鸞会教義(高森会長説)を聞いていると結果的にどうなるかといえば、以下の三つです。

  1. 阿弥陀仏(仏体)」に救われるのだけれど、その「阿弥陀仏」は救われるその時まで私の前にはあらわれない。
  2. それまでは、「阿弥陀仏の御心が分かる人(善知識)」の言うことを聞かねばならない。
  3. 善知識が「善をせよ」「会館建てよ」といえば、それに粛々と従うよりほかにない活動に没頭する。


親鸞会は、善知識帰命(善知識だのみ)の団体ですが、その前提となっているのは「阿弥陀仏(仏体)に救われたのが信心」という、いわゆる仏体所帰だということがわかります。そこから、善知識(親鸞会では高森顕徹会長)に従わねばならないという流れになっていきます。そこで、脱会をした人で「善知識だのみは間違いだ」と気づかれた方でも、仏体所帰に凝り固まっていると、親鸞聖人の教えられた「信心」というものを見誤ってしまいます。あくまでも「聞其名号」が信心であるということをよくよく知っていただきたいと思います。