「信心決定=阿弥陀仏に救われたぞー(高森会長がいう正信偈の最初の二行の説明)」ではありませんを、今後詳しく書いて行きます。 - 親鸞会を脱会した人(したい人)への続きです。
それでは、正信偈の最初の二行「帰命無量寿如来 南無不可思議光」を「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞー!」「これが親鸞聖人の信心です」というのはなぜ間違いかについて書いていきます。
大きく分けると、理由は二つになります。
1.親鸞聖人の信心と異なるから(仏体所帰は親鸞聖人の信心ではないから)
以前のエントリーにも書きましたが、「阿弥陀仏に救われたぞー!」という信心は、仏体所帰といいます。仏体とは、「阿弥陀仏という仏」のことであり、所帰とは帰する所(帰命されるもの)という意味で、よりたのむ、よりかかる対象、帰命の対象ということです。
結論から先に書きますと、親鸞聖人の信心は、名号(法)が所帰であって、仏体を所帰するものではありません。よって、「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞー!」(仏体所帰)は、親鸞聖人の信心(名号・法所帰)ではありません。
浄土真宗の信心とは、仏体の徳を名号におさめて、名号を聞いたところに信心を定めるものです。
仏体所帰ではなく、名号(法)所帰が、親鸞聖人の信心である箇所をいくつか紹介します。以下に、挙げるものは親鸞聖人が信心(安心)について「たのむ」と言われている箇所です。
如来より御ちかひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
http://goo.gl/fn7GcT
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。(尊号真像銘文 本_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P644)
このご文では「至心信楽をふかくたのむ」といわれています。
本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。(唯信鈔文意_1_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P699)
http://goo.gl/tgK7JR
このご文では「本願他力をたのみて」といわれています。
(56)
http://goo.gl/flkGcn
本師道綽大師は
涅槃の広業さしおきて
本願他力をたのみつつ
五濁の群生すすめしむ(高僧和讃_道綽讚_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P588)
こちらのご和讃も「本願他力をたのみ」といわれています。
(82)
http://goo.gl/OK6187
仏智うたがふつみふかし
この心おもひしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし(正像末和讃_誡疑讃_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P614)
このご和讃では「仏智の不思議をたのむ」といわれています。
(99)
http://goo.gl/p14IIV
蛇蝎奸詐のこころにて
自力修善はかなふまじ
如来の回向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん(正像末和讃_悲歎述懐讃_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P618)
このご和讃では「如来の回向をたのむ」と言われています。
それにつけても念仏をふかくたのみて(御消息(上)25_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P784)
http://goo.gl/lAr6mz
この御消息では「念仏をふかくたのむ」と言われています。
まとめますと、上記6つのご文で親鸞聖人は、「何を」たのむといわれたのか。それは、以下の5つです。
これ以外に親鸞聖人が信心について「たのむ」と書かれたものはないと思います。(見落としがあったらご指摘下さい)
そのいずれも「何を」たのむかについて、「至心信楽」「本願他力」「仏智の不思議」「如来の回向」ですが、いづれも阿弥陀仏の法(名号または名号のお働き)であって仏体ではないことがよくわかると思います。もし、そうではないというのであれば、親鸞聖人が安心について明確に仏体所帰であるご文を示さなければなりません。しかし、私が種々調べた範囲ではそれは見当たりません。加えて言えば、親鸞会在籍時でも高森会長の「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞー!」の正信偈の最初の二行以外に仏体所帰の根拠を聞いたことがありません。もしあったら、このブログを読んでいるはずの、ネット担当者および、弘宣局、教学課、また講師部のエライ方は機関紙上でも結構ですから反論をお願いします。コメント欄ならなお歓迎します。ただし、あくまでも「親鸞聖人のお言葉」でおねがいします。覚如上人や、蓮如上人の言葉での批判は受け付けません。なぜなら、高森会長が正信偈の最初の二行について言っていることだからです。親鸞聖人の信心についてのことですから、親鸞聖人のお言葉で根拠を示してください。
このような根拠を挙げてみますと、親鸞聖人の信心は「法」をたのむのであって、「仏体(阿弥陀仏)」をたのむものでないことは明白です。「善のススメ」の批判について、親鸞会(高森会長)が種々使ってきた詭弁を出す余地はありません。
親鸞聖人が「たのむ」といわれた、上記の5つも、言葉は違っていてもすべて名号(法)以外にはありません。それについて、親鸞聖人は唯信鈔文意に以下のように書かれています。
「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。(唯信鈔文意【4】_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P711)
http://goo.gl/ZMJhuR
阿弥陀如来が選び取られた「法」とは名号のことです。よって、親鸞聖人がたのまれた「法」は言葉は違っても、名号以外にはありません。
従って、親鸞聖人の信心で所帰は「弥陀の法」であって「弥陀の体(仏体)」ではありません。高森顕徹会長のように「仏体に帰命したのが信心だ」というのは、真実信心を明らかにしないどころか、ねじ曲げて伝えている以外に何もありません。そのようにさも自信一杯に大勢の人の前で「親鸞聖人の信心は仏体所帰(阿弥陀仏に救われたぞー!!)」と言い続けられるのは、親鸞聖人の書かれたものを読んでいない可能性が非常に高く、教行信証は無理にしても和讚も読んだことがないのかもしれません。
「一切経を読破」しているはずの「500年に一度の善知識」ならば、少なくとも親鸞聖人の書かれたものを読んでいるはずですし、親鸞聖人の信心は「法(名号)を所帰とする」ということだけはわかるはずです。
繰り返しますが「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞー!!」は親鸞聖人の信心と異なります。それを目指して進んでいったところで,親鸞聖人と一味の信心にはなりません。よって、最初に設定したゴールが違うということになります。その「間違ったゴール」に導く人を、悪知識と言わずしてなんというのでしょうか?
「教学聖典(親鸞会発行)」6号にも、このように書いてあります。悪知識に従うとこうなります。
書いていて長くなったので、(2)「よりたのむ所は仏因(法)であって、仏体(阿弥陀仏という仏)は仏因ではないから」については、次のエントリーに書きます。よろしくお願いします。
続き
「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞー!(親鸞会・高森顕徹会長の正信偈最初の二行の解説)が間違いである2つの理由(その2) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ