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についてのコメントです。
コメント欄も長くなっていたのでこちらに記事としてコメントの返信を書きます。
中学生 2021-11-09 22:50:01
阿弥陀仏の救いにどうすればあずかることができるのかが大きな関心事です。二河白道の譬もそれをお示し下さっていると聞かせていただいております。安心問答では18願をはからいをすててそのままきけと仰っていますが、自力で自力はすたりません。聞法させていただくと、真剣にきいているから救われるのではないか、いい加減にきいていたら救われないのではないだろうかという心が出てきます。悪をおそれ、善がほしい心であり、自力の善悪を阿弥陀仏の救いと関係づける信罪福心です。水火の難におそれる心です。おそれているものに「おそれるな」の阿弥陀仏の呼び声を聞いて救いにあずかるのではないでしょうか。おそれながらも聴聞させていただくのが救いにあずかる道ではないでしょうか。ただといわれて何もはからわないように意図的にやるのは、何もしなくても救われているという十劫安心と変わらないような気がいたします。
「如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなおもまた 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり(正像末和讃)」
阿弥陀仏の救いについてどうすれば救われるのかが知りたいとのことです。
しかし、二河白道の譬えは「どうすれば救われるか」について書かれたものではありません。真実信心とはどういうものかを譬えられたものです。言い換えると二種深信について書かれたものです。
譬えでいわれる、どうにもならない旅人(機)へそういうものと見抜いて必ず助けるとの呼び声(法)を疑い無く聞き入れることをいわれたものです。
水火の二河は、貪愛瞋憎の心を譬えられ、また群賊悪獣は、自分の心身が自分を妨げたり、仏道を妨げるものを譬えられています。そういう私の姿と、そういう者をただ今助けるという本願力が招喚の勅命として届いていることを白道に譬えられ、その本願力による救いを疑い無く聞き入れた信心をあらわしておられます。
一度南無阿弥陀仏の本願力を受け入れ念仏する人は、水火の煩悩は変わらなくてもそれらは一切障りとならず浄土へ往生することを譬えられたものです。
中学生さんは、コメントに書かれているように「いい加減にきいていたら救われないのではなかろうか」と思っておられます。そういう「おそれ」はすでにあるわけですから、二河白道の譬えでいわれる「畏れざれ」というのは、ただ今の中学生さんにいわれている者です。
私が「18願をはからいをすててそのまま聞け」と書いているとのことですが、「はからわないように意図的にしろ」という意味ではありません。「あれこれ考えず、自分の作為を入れず、すでに南無阿弥陀仏となって私を喚び続けておられる阿弥陀仏の仰せをそのまま聞いて下さい」という意味です。18願は紙に書かれた字のように読めるかもしれませんが、すでに南無阿弥陀仏となって私を救おうと呼びかけ働いておられます。
自力で自力は廃らないのは、その通りです。
なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(教行信証信巻より)
ただ今の私に「なんぢ」と呼びかけられています。それを聞かなかった事にして、「どうしたら救われるか」を考えているのでしたらいつまでたっても聞けません。
「救われるだろうか」と畏れる私に「一心に正念にしてただちに来れ」と呼びかけられています。本願力を疑い無く聞き入れて念仏するものをただ今救う、直ちに来れといわれています。
「水火の難に堕せんことを畏れざれ」というもの、いろいろなことで「救われないのでは」と思っている私に言われているものです。阿弥陀仏の先回りをして「失敗しないように」と畏れる私に、さらに先立って本願は建てられてすでに成就して私に呼びかけられています。
ただ今助けるとの仰せが、二河白道の譬えでいう西岸からの呼び声です。
このコメント以後も、他の方とのやりとりもありますが、以下に転載します。
参考: 上記のコメント以後の中学生さんのコメントとバカ星人さんのコメント
バカ星人 2021-11-10 04:34:59
飛雲より
問い
親鸞聖人は「如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなをもまた 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり」(正像末和讃)と仰って、19願から20願まで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか、と声価されています。親鸞聖人の教えが、まさに三願転入である明証ではないですか。
答え
これは、『大無量寿経』にある20願成就文を言い換えられたお言葉です。『三経往生文類』にはこの和讃に当たる部分を、「この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。」と紹介されています。和讃と20願成就文とが見事に対応していることがお判りだと思います。
それと、これを含む前後の和讃は誡疑讃と呼ばれていて、19願と20願を信じることは仏智不思議を疑うことだ、と親鸞聖人が厳しく誡められたものです。
親鸞聖人の教えが、まさに三願転入を勧められていない明証ではないですか。
バカ星人 2021-11-10 04:46:56
問い
信心決定したならば、浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされるのです。
答え
覚如上人が親鸞聖人の御言葉を以下のように伝えて下されています。
「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。」(執持鈔)
往生ということは、補処の弥勒菩薩でも判らないことで、ましてや凡夫に判る筈がないと仰っています。信心決定は成仏とは違いますよ。
問い
蓮如上人は「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ」(領解文)と、往生がハッキリ判ったと仰っているではないですか。
答え
「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。」(執持鈔)と仰っているように、往生が判らないまま阿弥陀仏の18願におまかせをしたのが、他力信心の行者です。
また、「かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。」(浄土論註)とあるように、往生の理屈さえも判らないのに、往生できると仰っています。
要するに、往生の理屈も、浄土がどんなところかも判らないまま、阿弥陀仏にすべておまかせしたことが、「往生一定」なのです。
中学生 2021-11-10 22:47:39
「これは、『大無量寿経』にある20願成就文を言い換えられたお言葉です。『三経往生文類』にはこの和讃に当たる部分を、「この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。」と紹介されています。和讃と20願成就文とが見事に対応していることがお判りだと思います。」
はい、そうです。
二河白道の譬えで水河の難におそれている人に進め、来たれとの善巧方便としてあげさせていただきました。
西岸上の声がとどくまでの信前です。「それと、これを含む前後の和讃は誡疑讃と呼ばれていて、19願と20願を信じることは仏智不思議を疑うことだ、と親鸞聖人が厳しく誡められたものです。親鸞聖人の教えが、まさに三願転入を勧められていない明証ではないですか。」
誡められた根拠にはなりません。すなわち、三願転入を勧められていない明証にはなりません。
まだ、阿弥陀仏の救われたわけではありませんよ。自力すたって本願疑惑心がなくなってはいませんよ。と仰っています。
「仏智不思議を疑っている十方衆生」と百も承知の阿弥陀仏であり、それを教えられた善知識方です。よって、「仏智不思議を疑うこと」と「誡められたこと」は同じにはなりません。
十方衆生が救われないのはこの本願疑惑心のためなのですから、救われたらなくなります。救われていない人はなくなりません。
仏智不思議を疑っている人に「疑うとは何事だ、やめなさい」と仰るはずがありません。仏智不思議を疑っている人を救わんがための五劫の思惟であり、兆載永劫のご修行があったのです。
中学生でもわかることです。それがわからない人もいるようですね。善知識のお言葉を手段にして非難することを目的にしているのは恐ろしい謗法罪と思います。追記:
阿弥陀様はどんな輩にも慈悲の光明(遍照の光明)で照らして下さっているので、こんなことを言ってはなりませんが、わからない人にはいくら言ってもわからないような気がすることがあります。ルパンさん、私がこれからどれだけ流転輪廻を重ねるかわかりませんが(と思ってよい一大事ではありませんが)いつかお会いできたらと思います。縁があるということはおそらく過去世で口論でもしていたかもわかりませんね。尊い仏縁を感じます。
バカ星人 2021-11-11 02:58:54
> 仏智不思議を疑っている人に「疑うとは何事だ、やめなさい」と仰るはずがありません。
いましめ【戒め/×誡め/▽警め/▽縛め】 の解説
1 前もって注意すること。また、その言葉。訓戒。「今後の―とする」
2 過ちを犯さないようにこらしめること。「―に廊下に立たされる」
3 (縛め)しばること。また、その縄。「―を解く」
4 禁錮。監禁。処罰。
「秦の始皇にとらはれて、―をかうぶること十二年」〈平家・五〉
5 用心すること。警戒。
「これが後ろめたければ、公人 (おほやけびと) 、すまし(=下級女官)、長女 (をさめ) などして絶えず―に遣る」〈枕・八七〉
仏智うたがふつみふかし
この心おもひしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし
(正像末和讃)現代語訳
阿弥陀仏の智慧を疑うことの罪は深い。
この心を思い知るものは、
悔いる心をよりどころとして、
思いはかることのできない阿弥陀仏の智慧を信じるがよい。
中学生では分からない内容で、高校生にならないと分からないのでしょう。