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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

もし現役会員が『私は19願を出て、20願に入りました。もうお布施はしません』と言ったら、親鸞会はどう言う?

なぜ生きる2について

最近ある方と話すか機会がありました。その中で印象に残っているのは、その方が言われた、以下の意見です。

親鸞会の活動が激しくて、それについていけずに辞める人は、親鸞会でいう19願から20願に入ったということになるのではないですか?」
というものです。


確かに言われてみれば、そういうことも出来るなと思いました。
なぜなら、親鸞会でいう「三願転入」は以下のように説明されているからです。

弥陀の真実・十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破り、出来ぬことを出来ぬと信知させるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的であり、釈迦一代の教導なのだ。
 ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。(なぜ生きる2 10章より)

なぜ生きる 2

なぜ生きる 2


親鸞会でさかんに勧められる第十九願は、「十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破り、出来ぬことを出来ぬと信知させる」ための願であり、そのうぬぼれ心を捨てさせるためには善を実行せよというのが親鸞会の主張です。


そこで親鸞会では、さかんに善を実行することを会員に勧めます。具体的な「善」は、高森会長の法話を聴聞することや、親鸞会に「お布施」すること、人を親鸞会に誘うことが主です。しかし、これだけ「善」を強調すると、当然のことながら内外から「善をしたら助かると親鸞会は言っているのではないか?」と疑問をもたれ、現場ではそれに似た疑問を担当の支部長にぶつける人も多いです。

それに対して親鸞会は、過去から「善をして助かるなどとは一言も言っていない」と強弁します。しかし普通に考えれば、

  1. 18願を疑う自惚れ心が破られぬと救われない
  2. 自惚れを破るには、善を実行するしかない
  3. 善を実行したら自惚れ心が破られた(救われた)

というのが親鸞会の主張なのですから、「善をして助かる(善が因となって)助かるとは言ってない」というのは詭弁も甚だしいものです。


とはいえ、そんなことを真正面から言っても話が通じない人も多いので、少し前述した方の意見から書いてみます。
親鸞会を辞める多くの人は、度重なる富山の親鸞会館参りや、お布施の要求に、経済的心理的に「もうこの道(親鸞会で言う三願転入)では自分は助からない」と思った人です。そんな人の心境は、「なぜ生きる2」でいう「出来ぬことを出来ぬ」と知らされて、善に目が向かなくなった人だと言えます。

そういう人は、親鸞会的三願転入で言えば、19願から20願に向かった人と定義しないと話があいません。親鸞会でいう三願転入では「19願はもう結構です。私は念仏にすがります」という人が、19願を出て、20願に入った人だと定義されています。

しかし、親鸞会の現実は、いつまでも会員を19願に止めようとします。
一例を上げれば、長年会員を続けていた人がある日
「自分は今迄、さんざんお布施をしてきたけれども、全く救われそうにない。これからは、お布施ではなく念仏一つにかけようと思います。」
と言ったとしたら、担当支部長はどう答えるでしょうか?
「よかったですね。○○さん、ついに19願をでて、20願に入られたんですね」
と言うでしょうか?私の経験上、それは絶対にあり得ないことです。


おそらくはこう言うでしょう。
「○○さん。高森先生は、私たち講師部員に対してもまだ19願の入り口にも立っていないと言われました。20願に入ったつもりでしょうが、それこそ自惚れです。これからもまず善の実践をしましょう。」
結局のところは、善で信仰が進むことに失望した人も、現場の講師が19願の入り口に引き戻します。そこから逃れる術は、親鸞会を退会するしかないのが現状です。もちろん、現場の支部長も悪意があるのではなく「高森先生」の教えをそのまま伝えているだけですから、言わせているのは高森会長です。

仮に、「私は18願に入りました」と言ったとしても、それはそれで「これからは御恩報謝の道ですね。」と、またお布施の要求は続きます。それを拒否すると「○○さんは救われたと言っているが、どこかでおかしな話を聞いてきた異安心だ」と排除されます。


結局親鸞会が勧めていることは、信前信後を通して「お布施」なのです。

しかし、その親鸞会的三願転入を「本気」で信じて「実行」する人は、必ず経済的に行き詰まるように成ります。なぜなら借金せずに「精一杯のお布施」を、ほぼ毎月していては必ず無理がかかります。最後は、これ以上は無理と感じて脱会していく人が多くいます。


そういう人を横目で見ながら、「活動が続けられる最低ライン」を保ちながら会員を続けているのが、長年の会員であり、講師部員です。その人たちは、そうやって燃え尽きるように会員を辞めていく人を多く見てきた筈です。そんな人が「自分はまだまだ自惚れ心がなくなりません」と言って、自分を守りながら会員を続けているわけです。かくいう私もそうでした。過去の私は、死なない程度にお布施をし、「精一杯と言ってもこれぐらい」と考えていました。これを聞けば、親鸞会の人は「そんな死ぬ程お布施しろとは言っていない」というかも知れませんが、辞めていく会員そう勧められていると受け取っています。



そんな長年の会員の方、講師部は、一体いつ19願を出ることがあるでしょうか?19願から20願に入ることがあるでしょうか?また、20願から18願に入ることがあるでしょうか?

こういうと「そんなことを言うものは観念の遊戯だ。実践が足りないからだ」という人もあるでしょう。しかし、その言葉はそのまま親鸞会の人に返ってきます。
私なら、きっとそんな人にこう言うでしょう。
「20年も30年も親鸞会にいながら、まだ19願から出られない貴方の善の実行こそ、実際はやっていない観念の遊戯ではないのですか?」
「『辞めた人は、真面目に実行していなかったからだ。自分は真面目に実行しているから続けられている』というのは自惚れ心だと思いますが、その自惚れ心はいつ粉砕されるのでしょうか?」


三願転入について、教義の正当性を問えば、親鸞会講師部員は自らが正しいと主張して譲りません。しかし、百歩ゆずって親鸞会の教えが正しいとしても、ではなぜ貴方は19願から出られないのでしょうか?そのことを真剣に悩んだことはあるでしょうか?

理由は二つしかありません。

  1. 親鸞会の教えは正しいが、私はその通り実行していない。
  2. 親鸞会の教えは間違い。


長年会員を続けて、退会者を見下す態度をとる講師部員は、(1)の部類でしょう。人に教えながら、実行していないのですから、それでは「親鸞会的三願転入」でも救われません。


また、仮に、貴方が親鸞会の教えを忠実に、真剣に実行していても、19願から出られない、すなわち救われないとすれば、結論は(2)と考えるのが妥当です。


これを読まれた現役会員の方は、試しに「私は19願を出て、20願に入りました。もうお布施はしません」と言ってみてはどうでしょうか?親鸞会の本心が見られると思います。