親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

公式サイトに高森会長の降誕会講演が公開(一部無料)されたことについて考えたこと

親鸞会公式サイトに、2018年05月12日13日に行われた、親鸞会館での高森会長の講演が一部公開されました。
shinrankai.jp

お布施を出せば、全ての録画が、ネット上で見ることができるようです。

かつては会場に「録音はご遠慮下さい」の垂れ幕をかけ、「ビデオ法話の録画テープ(当時はVHS)をダビングしたものは死刑」と言っていた時代を知るものとしては、隔世の感があります。



最初これを知った時は、高森会長の法話に人を誘うための新しい手法かと思いました。

しかし、よくよく考えると今回の件は親鸞会が非常に苦しい状態になってきたことの表れだとわかりました。つまり、新規会員や新規の参詣者に向けての録画公開ではなく、現在の会員向けにお布施を募るのが目的だからです。

自分の話を公開してこなかった高森会長

そもそもの話ですが、高森顕徹会長は自分の講演の録画・録音はおろか機関紙にも殆どその内容を明らかにしてきませんでした。
会員の人ならばよくご存知の機関紙上に「法友通信」(高森会長への会員からのお礼状の紹介)で内容を紹介するというのが今まででした。
なぜそのように話の中身を隠そうとするのかといえば、外部からの批判を恐れるからです。実際、高森顕徹会長の話の内容は、外部からの批判を受けるたびに変節をしてきました。一例をあげると、かつては「宿善が厚くならなければならない」と強調していましたが、本願寺派から批判を受けると「宿善が厚くなるという言い方は誤解を与えるからいわないように」と言ってきました。その後は、三願転入を批判されると一時期その単語を言わなくなったりなどなどです。


自らを「500年に一度の善知識」と会員に呼ばせていながら、特に教義的な批判に対しては内輪の講師部講義や顕真でいうばかりで、批判する本人に直接表立って反論したのは「本願寺なぜ答えぬ」が最後でした。
そんな高森顕徹会長が、講演の録画をお布施を出せばという条件はあるもののネット上で公開するというのは、親鸞会にいた人間からするとよほどの心境の変化か、状況の変化があったとしか思えません。

急に公開するようになった理由

それは、外部の批判を気にしなくなったのではなく、それ以上に目先に必要なお金があると考えるのが適当だと思います。そうでなければ絶対にやりたくなかった録画公開をするはずがありません。


今回の「お布施を出せば高森顕徹会長の話が自宅で聞ける」というのは、熱心な会員ならば喜んでお布施をすることでしょう。
「当日は、仕事でどうしても行けなかった。」
「参加はしたけど、もう一度聞きたい。」
「あの時どんなことをいわれたのか。確かめたい」
ネット上で公開されているので、自分の好きな時に好きな場所で高森会長の講演を聞けるわけですから、会員によっては「誘えなかった家族や知人に聞いてもらいたい」という人もあるでしょう。



その結果、一度の降誕会では集められなかったお布施が、親鸞会に入ってくることになります。親鸞会のお布施集めでいえば、いわば最後の最後の手段が今回の高森顕徹会長の録画公開だったのです。
恐らく今回のことで、熱心な会員ならば、富山の親鸞会館に参詣し、その上また録画にお布施を出すことでしょう。まさに「取れるところからとにかく取ろう」という意図が見えてきます。


録画の公開は終わりの始まり

しかし、この録画公開は、親鸞会に取っては背に腹は代えられない最後の手段だったと思いますが、親鸞会から多くの会員が離れるきっかけを自らつくったことになるでしょう。誰でも見ることが出来る23分の録画を見ても分かる事ですが、冷静な人が聞けば話としてそもそもおかしなところが幾つも出てきます。


ですが、富山まで足を運んで、周りを熱心な会員に囲まれて聞いていると、不思議とそのおかしなところに気がつかないものです。そして、話が終わっていざ帰りの道中になると「どんな話だったかな」「分からないところがあるけれど、それは深い御心がわからないからだ」となるのは、実は高森会長の話がいろいろな面で間違いとミスリードが含まれているからです。


親鸞会に疑問を持っている方は、今回の録画を冷静な状況で改めて見たらよいと思います。高森会長の話がわからないのは、「私が信心決定していないから」ではなく「高森会長が分からない話をしているから」なのです。そのことに少しでも気がつくきっかけを、高森会長自らが公開してきたのですから、その意味では今回の高森会長の録画公開は「善知識らしい行動」といえます。


期間限定ですから、確かめたい人は早めに見ることをお勧めします。